婚約破棄、喜びのあまり側転してもよろしいでしょうか?

ちゅんりー

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「ちょっと待ってくださいな。まだ行けませんわ!」


馬車の扉を閉めようとした衛兵の手を、私は力強く掴み返した。
せっかくの「千秋楽」なのだ。
アンコール……ではないけれど、やり残したことが多すぎる。


「な、なんですかなベルベット嬢。殿下からは速やかに立ち去れと……」


「速やかに、なんてそんな無粋な。皆様、今の私の演技はどうでしたの? 客観的な意見が聞きたいわ!」


私は衛兵たちの手を振り切り、ひらりと馬車から飛び降りた。
困惑する衛兵たちを尻目に、私は再び大広間の入り口へと引き返す。
背後で「ベルベット様!?」「戻ってはなりませぬ!」という焦った声が響くが、今の私を止められる者はいない。


大広間の重厚な扉を再び勢いよく開けると、そこにはまだ解散できずにいた貴族たちと、放心状態のセドリック様がいた。


「……貴様、なぜ戻ってきた」


セドリック様が、引きつった顔で私を凝視する。
私はドレスの裾を優雅にさばき、彼の目の前まで歩み寄った。


「セドリック様。先ほどの断罪、一点だけ修正をお願いしたい箇所がありますの」


「修正……だと?」


「ええ。先ほど貴方は『教科書を隠した』とおっしゃいましたけれど、あれは正確には『より効率的な暗記法を記した付箋を全ページに貼って、元の文字を見えなくした』のですわ。隠したわけではありません。親切心です」


私は人差し指を立てて、ビシッと指摘した。
悪役令嬢たるもの、事実誤認に基づいた罪状で断罪されるのは、プロ意識に反する。
正しく、私の「意地悪(という名の過剰な世話焼き)」を評価していただかなければ。


「……付箋? あれは嫌がらせではなく、補習のつもりだったというのか?」


「嫌がらせですわよ。あんな大量の付箋、剥がすだけで一苦労でしょう? さあ、今の私の『言い訳』に対して、もっと厳しい罵倒をくださいませ! 先ほどの北の海の魔物レベルのやつを!」


私は期待に胸を膨らませ、セドリック様をじっと見つめた。
セドリック様は、まるで未知の生物を見るような目で私を見つめ、やがて顔を覆って天を仰いだ。


「キース……。この女を、今すぐ私の視界から消せ。物理的にだ」


「御意」


控えていたキース様が、一歩前に出る。
彼は私の腕を掴むのではなく、そっと背中に手を添えるようにして出口へ促した。


「ベルベット嬢、延長戦は終了です。貴女の演技は、観客の許容量を超えています」


「なんですって? キース様、貴方まで私の芸術を否定するのですか? 今の私の表情、絶望と狂気が入り混じった最高の出来でしたわよ?」


「ええ、確かに。狂気に関しては、百点満点中、五万点くらいでした。ですから、もう帰りましょう」


キース様の口調は淡々としているが、どこか宥めるような優しさがある。
私は渋々、彼に従って歩き出した。


すると、今まで黙って見ていたカトレア様が、スカートを翻して駆け寄ってきた。


「ベルベット様! あ、あのっ!」


「あら、カトレア様。私に何か呪いの言葉でも残っているかしら?」


私がニヤリと笑うと、カトレア様は頬を紅潮させ、私の両手をぎゅっと握りしめた。


「凄いです! 戻ってきてまでダメ出しをするなんて! その、圧倒的な……『我が道を行く感』! 私、感動して言葉になりません!」


「……は?」


「私、今日からベルベット様のことを『師匠』と呼ばせていただいてもよろしいでしょうか!?」


「お断りしますわ」


私は即答した。
なぜヒロインが、悪役令嬢に弟子入り志願をしているのか。
これでは台無しではないか。


「カトレア嬢、落ち着け。君は彼女の毒気に当てられただけだ。さあ、離れるんだ」


セドリック様が慌ててカトレア様を引き離そうとするが、彼女は私の手を離さない。
むしろ、より強く握りしめてくる。


「いいえ、殿下! 私は、ベルベット様のような強くて美しい女性になりたいのです! たとえ世界中を敵に回しても、自分の美学を貫く……そんな悪役令嬢に、私はなりたい!」


「……カトレア、君はヒロインなんだぞ? 守られる側の清楚な可憐な……」


「そんなの退屈ですわ! 私はベルベット様のように、高笑いしながら去っていきたいんです!」


会場は再び、異様な熱気に包まれた。
貴族たちのヒソヒソ声が、いつの間にか「……ベルベット様、実はかっこいいのでは?」「あの折れない心、見習いたいわね」という好意的なものに変わりつつある。


(マズいわ……。これじゃ『悪役』じゃなくて『カリスマ』になってしまう!)


私の計画が、音を立てて崩れていく。
私が望んでいたのは、冷ややかな視線を浴びながら孤独に去る、美しい悪の華だったはずだ。


「キース様! 早く、早く私を馬車に放り込んでくださいませ! 今すぐに!」


私はキース様の腕を掴み、必死に訴えた。


「……今度は自分から帰りたがるとは。貴女は本当に、忙しい方だ」


キース様はわずかに口角を上げると、今度こそ私の肩を抱き寄せ、足早に会場を連れ出した。


扉が閉まる直前、セドリック様の「待て、まだ話は終わっていない!」という絶叫と、カトレア様の「師匠ー! 明日お屋敷に伺いますー!」という元気な声が聞こえてきた。


馬車に押し込まれた私は、ふかふかの座席に倒れ込んだ。


「……なんなの。なんなのよ、もう」


扇子をバタバタと仰ぎながら、私は大きく息を吐いた。
完璧な千秋楽のはずが、なんだか奇妙なアンコールになってしまった。


馬車の窓から外を見ると、キース様がまだそこに立っていた。
彼は私の視線に気づくと、小さく頷いた。


「お疲れ様でした、ベルベット嬢。貴女の『舞台』は、多くの人の心に深く刻まれたようですよ」


「……皮肉かしら?」


「いいえ。本心です」


馬車がゆっくりと動き出す。
遠ざかっていく王宮の明かりを眺めながら、私は嫌な予感に襲われていた。


(……明日、カトレア様が本当に来たらどうしましょう)


自由を手に入れたはずなのに、なんだか前よりも賑やかな未来が待っているような気がして。
私はそっと、自分の顔を両手で覆った。
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