婚約破棄、喜びのあまり側転してもよろしいでしょうか?

ちゅんりー

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「失礼する、ベルベット・ローズウッド嬢。殿下のご命令により、貴女の荷物の搬出を――」


王宮の離れ、私が三年間過ごした自室の扉が勢いよく開かれた。
現れたのは、近衛騎士団の副団長を務める生真面目な青年、エドワード様だ。


その後ろには、大きな荷物を持って行こうと身構えている数人の騎士たちの姿がある。
おそらく、婚約破棄されて絶望し、部屋に引きこもって泣いている私を引きずり出す……という「汚れ仕事」を覚悟してきたのだろう。


しかし、彼らが見たのは、想像とはかけ離れた光景だったはずだ。


「……遅いですわ、エドワード様! もう準備は整っておりますわよ!」


私は部屋の中央で、ハチマキ(の代わりのシルクのリボン)を額に巻き、腕まくりをして仁王立ちしていた。


部屋の中には、整然と並べられた二十個以上の巨大なトランク。
壁に掛かっていた絵画も、棚に並んでいた高価な置物も、すべて緩衝材に包まれて梱包済みだ。


「なっ……。これは一体、どういうことだ。昨夜、婚約破棄を言い渡されたばかりだろう?」


「ええ、ですから! 鉄は熱いうちに打て、退去は命じられた瞬間に済ませろ、ですわ! さあ、騎士の皆様、ぼさっとしていないで運んでちょうだい!」


私は扇子を指揮棒のように振り回し、テキパキと指示を出した。


「そちらのトランクは壊れ物ですわ、丁寧に! そっちの重いのは私の『悪役令嬢・秘蔵コレクション』ですから、絶対に中を見ないで運びなさい! いいかしら、絶対に、よ!」


「は、はあ……。コレクション?」


騎士の一人が恐る恐るトランクを持ち上げる。
中身は、私が夜な夜な研究した「いかにして嫌味を優雅に言うか」という自作の教本や、怪しげな色のハーブティー(ただの健康茶)の瓶詰めなのだが、彼らの目には「呪いの道具」か何かに見えているに違いない。


「……ベルベット嬢。貴女、本当にショックを受けていないのか? 普通、公爵令嬢ともあろうお方が、これほどの荷物を一晩で一人でまとめるなど……」


エドワード様が、信じられないものを見るような目で私を見つめる。


「ショック? あら、とんでもない。むしろ指先が軽やかで、梱包作業が捗って仕方がありませんでしたわ! 見てくださいませ、この箱の角。完璧な直角でしょう?」


私は、ビシッと整った箱の角を自慢げに指差した。
快感だ。自分の所有物をすべて把握し、箱に詰め込み、過去を清算していくこの作業。
デトックスという言葉があるけれど、まさに今の私は魂が洗浄されている気分だった。


「それに、セドリック様が『速やかに』と仰ったのですもの。その期待に応えるのが、元婚約者としての最後の務めというやつですわ。オホホホホ!」


「……速やかにも限度があるだろう。まだ朝の六時だぞ」


エドワード様がこめかみを押さえた。
確かに、王宮の朝は早いけれど、これほど早い出発は前代未聞かもしれない。


「さあ、早く! この部屋の空気、もう私には甘酸っぱすぎて耐えられませんの! 早く公爵家の、あの古臭くて落ち着く実家へ帰らせて!」


私は騎士たちの背中を押し、次々とトランクを運び出させた。


その時、廊下の向こうから騒がしい足音が聞こえてきた。


「ベルベット様! ベルベット様ぁーっ!」


聞き覚えのある、高揚した声。
まさかと思って振り返ると、そこには昨夜の「ヒロイン」ことカトレア様が、髪を振り乱して走ってくる姿があった。


「あら、カトレア様。朝から随分と元気ですわね」


「はあ、はあ……っ! お、お引越しと聞いて! これ、差し入れです!」


カトレア様が差し出してきたのは、包みたてのサンドイッチだった。
まだ温かい。わざわざ厨房で作らせてきたのだろうか。


「……毒でも入っているのかしら?」


「まさか! 私が丹精込めて……いえ、料理長を脅して作らせた、最高級のハムサンドです! ベルベット様の門出を祝して!」


カトレア様の瞳は、相変わらずキラキラと輝いている。
嫌がらせを受けていた相手の門出を祝うヒロインがどこにいる。


「……いただいておきますわ。馬車の中で退屈した時にでも食べてあげます」


「はい! あ、あの、ベルベット様。落ち着いたら、お屋敷の方に遊びに行ってもよろしいでしょうか?」


「お断りしますと言ったはずですわ。私はこれから、自由を謳歌するのに忙しいのです」


「ええっ、そんなあ! あ、そうだ。これ、私の連絡先です! 何か悪巧みをする際は、ぜひ私をメンバーに入れてください!」


手渡された紙片には、男爵家の紋章と共に彼女の直筆らしき文字が躍っていた。
悪巧みにメンバー入りしたがるヒロイン。
この国、ちょっと末期かもしれない。


「ベルベット嬢、準備ができた。馬車の用意も整っている」


エドワード様が苦笑いしながら告げた。
部屋はすっかり空っぽになり、私がここにいた痕跡は、わずかな香水の残り香だけとなった。


私は一度だけ、ガランとした部屋を見渡した。
辛いこともあった。
完璧な悪役を演じるために、大好きな激辛料理を我慢してお淑やかに振る舞ったこともあった。


でも、それも今日で終わり。


「さようなら、私の窮屈な三年間の舞台!」


私はカトレア様から受け取った紙片をポケットにねじ込むと、颯爽と歩き出した。
王宮の長い廊下を進む私の足取りは、羽が生えたように軽い。


玄関ホールには、驚くことにセドリック様とキース様も姿を見せていた。
見送り……というよりは、本当に私が去るのかを確認しに来た、という風情だが。


「本当に行くのだな、ベルベット」


セドリック様が、どこか複雑そうな表情で口を開いた。


「ええ。もう二度と、この敷居を跨ぐことはありませんわ。セドリック様、どうぞお幸せに。カトレア様との素晴らしい未来、期待しておりますわよ。せいぜい、花壇を荒らされないように気をつけることですわね」


私は最後のアドバイス(皮肉)を投げかけると、深々と頭を下げた。


「キース様。殿下のこと、くれぐれもよろしく。……たまには、面白い冗談のひとつでも言って差し上げて?」


「……善処します。ベルベット嬢、貴女のこれからの人生が、その……騒がしいものであることを願っています」


キース様が、ほんの少しだけ口角を上げた。
呪いのような、でも温かいような、不思議な激励だ。


私は馬車に乗り込み、扉を閉めた。
御者が鞭を打つ。


窓の外を流れていく王宮の景色を見ながら、私はカトレア様のサンドイッチを一口頬張った。


「……あら。案外、美味しいじゃない」


マスタードの効いた刺激的な味が、今の私の気分にぴったりだった。
馬車は、私の新しい自由へと向かって、力強く走り出したのである。
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