婚約破棄、喜びのあまり側転してもよろしいでしょうか?

ちゅんりー

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「……カトレア様。貴女、さっきから『オホ』に艶がありませんわよ。それは高笑いではなく、喉に詰まった小骨を気にしている小市民の喘ぎですわ」


公爵邸の図書室。
私は扇子を机に叩きつけ、目の前でうなだれている弟子を叱咤した。
今日のカトレア様は明らかにおかしい。
いつもなら屋敷の天井を突き破るほどの勢いで笑う彼女が、今は消え入りそうな声で「おほ……」と呟いているだけなのだ。


「師匠……。私、もう悪役令嬢を引退しなければならないかもしれませんわ……」


「なんですって!? まだデビュー戦を終えたばかりの若手が何を仰るの! 貴女、プロの悪役としての自覚が足りなくてよ!」


私は椅子を蹴立てて立ち上がった。
折角、セドリック様を「雑草」扱いできるまで育て上げたというのに、ここで廃業されては私のプロデュース実績に傷がつく。


「理由を言いなさい。誰かに石でも投げられましたの? それとも、聖女の祈りにでも当てられて毒気が抜けましたの?」


「いいえ、その逆ですわ……。私、毒を注ぎたい相手を見つけてしまいましたの」


カトレア様が頬を赤らめ、図書室の窓の外を見つめた。
その視線の先には、公爵邸の庭の片隅で、セドリック様の絶叫(スクワット中)を無視して、静かに本を読んでいる一人の青年がいた。


「……あら。あそこにいるのは、第一王子の異母弟、ジュリアン様ではありませんか?」


ジュリアン・ド・パルマ。
派手で目立ちたがり屋の兄セドリック様とは対照的に、常に影が薄く、図書室の主のような静かな御方だ。
王位継承権こそ低いものの、その冷静な判断力と知識量は、一部の貴族から高く評価されている隠れた実力者である。


「……そうなのですわ。私、あの方の『存在感のなさ』に、私の悪意が吸い込まれていくような心地がいたしましたの。あの方を困らせて、その端正な眉間に皺を寄せさせたい……これって、恋かしら?」


「……カトレア様。それは恋というより、新たな『獲物』を見つけたハンターの台詞ですわね。でも、素晴らしいわ! 悪役令嬢たるもの、恋すらも略奪と支配のスパイスにするべきですわ!」


私はニヤリと不敵に笑い、カトレア様の肩を抱いた。
ジュリアン様、あの地味で真面目そうな青年を、この「暴走ヒロイン改め魔王候補」が狙うというのか。
これは、最高に面白い裏工作(プロデュース)ができそうだわ。


「よろしい。わたくしが、貴女の恋路を『悪の組織の首領』としてバックアップして差し上げますわ!」


「本当ですか、師匠!?」


「ええ。まずは、あの方の読書を邪魔することから始めましょう。セバスチャン! 今すぐジュリアン様が読んでいる本の『続きの巻』をすべて買い占めてきなさい!」


「畏まりました。既に書店の在庫を把握しております。五分で制圧してまいりましょう」


影から現れたセバスチャンが、音もなく消える。
相変わらず、我が家の執事は話が早くて助かるわ。


「作戦その一、飢餓作戦ですわ! 続きが読みたくて悶絶しているジュリアン様の前に、貴女がその本を持って颯爽と現れるのです。そして言うのですわ。『この本が欲しくば、私の高笑いを一時間聞き続けなさい!』と!」


「……師匠、それ、ただの拷問ではありませんか?」


いつの間にか私の背後に立っていたキース様が、呆れたように口を挟んできた。


「あら、キース様。恋の駆け引きとは、相手の弱みを握ることから始まるものですわよ? 貴方だって、私の弱みを握ってバルコニーで愛の告白(笑)をしてきたではありませんか」


「私は弱みを握ったのではなく、貴女の心の扉をこじ開けただけですよ。表現に語弊がありますね」


キース様は私の隣に座ると、ジュリアン様の方へ視線を向けた。


「ジュリアン様は兄上と違って非常に賢明な方だ。あの方を落とすには、小細工よりも『圧倒的な非日常』をぶつけるのが効果的かもしれません。……カトレア嬢、今の貴女なら、彼に一生忘れられないトラウマ……いえ、刺激を与えられるはずだ」


「キース様まで……! 私、自信が出てきましたわ!」


カトレア様が再び巨大な扇子を手に取る。
瞳には邪悪な、けれど純粋な恋の炎が宿っていた。


「さあ、作戦開始ですわ! まずはジュリアン様の周囲から、静寂を奪い取って差し上げましょう!」


私はカトレア様を連れて、庭へと降りた。
読書に没頭しているジュリアン様まで、あと十メートル。
私は彼女に耳打ちした。


「いいですか、カトレア様。最初は優雅に。でも口調は傲慢に。あの方の聖域(パーソナルスペース)を、貴女の『悪』で塗り潰すのです!」


「はいっ! ……あ、あの、ジュリアン様! そ、その本、面白そうですわね! でも、その続きは世界中のどこを探しても見つかりませんわよ! なぜなら、この私が全て焼き捨て……あ、いえ、買い占めましたから!」


カトレア様がジュリアン様の前に立ちはだかり、バサリと扇子を広げた。
ジュリアン様はゆっくりと顔を上げ、無表情のまま彼女を見つめた。


「……カトレア嬢ですか。お久しぶりです。本の続きを買い占めた、とは……。一体何の目的でそのような非効率な真似を?」


「お、目的……!? それは……貴方のその冷静な顔が、驚きで歪むところが見たいからですわ! オホ、オホホホホホ!」


カトレア様が、顔を真っ赤にしながら高笑いを上げた。
ジュリアン様はしばらく沈黙した後、ふっと口角をわずかに上げた。


「……驚きで歪む、ですか。確かに、今の貴女の姿には驚かされました。以前の『借りてきた猫』のような貴女よりも、今の……そうですね、『獲物を狙う山猫』のような貴女の方が、幾分か興味を惹かれます」


「えっ……? きょ、興味……?」


「続きの本、もしよろしければ、貴女の解説付きで貸していただけませんか? 他人の視点が入った読書も、たまには悪くない」


ジュリアン様は、驚くほど自然な手つきで、カトレア様の扇子を持つ手を取った。


「ひゃ、ひゃいっ! よ、喜んでえええ!」


カトレア様は「悪役」のキャラを完全に崩し、ただの恋する乙女の顔で叫んだ。


「……あら。あの方、天然の女たらし(タラシ)ですわね」


生垣の陰から見守っていた私は、扇子をパタパタと仰いだ。
キース様も同意するように頷く。


「ええ。ジュリアン様は、自分から攻めるよりも、こうして翻弄される状況を面白がるタイプです。……カトレア嬢、本人は悪役を演じているつもりでしょうが、彼から見れば『面白い生き物』が懐いてきたように見えているのでしょう」


「ふん、まあいいわ。結果的に二人の距離が縮まったのですから、私の裏工作は大成功ですわね!」


私は満足げに胸を張った。
カトレア様の恋路。それは、王室に新たな波乱(と、さらなる高笑い)を巻き起こす予感がした。


「さあ、キース様。次はお二人の初デートを、私たちが影から『悪の組織』っぽく演出しにいきますわよ!」


「……デートの尾行ですね。承知いたしました、ボス」


キース様は苦笑しながらも、私の手を取った。
私のプロデュース業は、どうやらまだまだ休業できそうにない。
公爵邸の庭に、幸せそうな(?)叫び声と、微かな高笑いが溶けていった。
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