「戻ってきてもいいぞ?」という傲慢――許せませんわ。

ちゅんりー

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王宮の厨房へと滑り込んだ私は、迷わず奥にある専用の作業台へと向かった。
そこでは、大きな銅鍋の中でオレンジ色の液体が、とろりとした輝きを放ちながら出番を待っている。

「ああ、よかった。まだ焦げていないわ。私の愛しいマーマレードちゃん、今すぐ救い出してあげますからね」

私が手際よく瓶詰めを始めようとすると、背後から荒々しい足音が聞こえてきた。

「待て! そこを動くな、マーマレード・オレンジ!」

振り返ると、そこには息を切らしたレモン殿下の側近、騎士のミント様が立っていた。
彼は私を睨みつけながら、鼻をひくつかせた。

「やはり、ここか。厨房全体にこの忌々しいオレンジの香りが充満している……。これが何よりの証拠だ!」

私は瓶に蓋を閉めながら、首を傾げた。

「証拠? 何の証拠ですの、ミント様。ここが厨房で、私がジャムを煮ているという証拠でしたら、今さら提示されるまでもないことですが」

「とぼけるな! シュガー様が襲撃された際、現場には強い『柑橘の香り』が残っていたのだ。王宮内でオレンジをこれほど大量に扱っているのは貴様だけだ。言い逃れはできんぞ!」

ミント様は勝ち誇ったように胸を張った。
私は彼の手元にある「捜査資料」らしき紙束を、横目でちらりと眺める。

「……ミント様。一つお伺いしてもよろしいかしら」

「なんだ。今さら命乞いか?」

「いいえ。その『柑橘の香り』というのは、具体的にどのような香りでしたの? ベルガモットのような気品ある苦味を伴う香り? それとも、バレンシアオレンジのような弾けるような陽気な甘さ? あるいは、マンダリンのような少し野性味のある芳香かしら?」

「……は? なにを言っている。柑橘は柑橘だろう。オレンジの匂いだ!」

私は深く、本当に深く、心からの溜め息をついた。

「これだから素人は困りますのよ。ミント様、あなたのお名前である『ミント』だって、スペアミントとペパーミントでは全く性質が異なりますでしょう? それと同じですわ」

私は作業台の上に置いてあった、シュガー様が「証拠」として提出したというハンカチを指差した。

「そのハンカチから漂っているのは、柑橘の香りなどではありません。……これは、ただの『クエン酸』と『安価な芳香剤』を混ぜた、工業的な代物ですわね」

「なっ……馬鹿なことを言うな! シュガー様がわざわざ偽装するなどと!」

「偽装したとは言っていませんわ。ただ、本物のオレンジを愛する私から言わせれば、その香りはオレンジに対する冒涜であり、もはや悪臭の類ですの。もし私が犯人なら、もっとこう……嗅いだ瞬間にヨダレが止まらなくなるような、最高級の香料を使いますわよ」

私が鼻を鳴らすと、ミント様は顔を引きつらせた。

「貴様……どこまでも不遜な女だ。殿下がおっしゃる通り、反省のいろが全くない!」

「反省なら、さっきジャムのアクを取りながら済ませましたわ。煮詰めすぎたかしら、という反省ですけれど」

「もういい! その鍋も、その瓶も、すべて証拠品として没収する!」

ミント様が鍋に手を伸ばそうとした瞬間。
厨房の入り口から、低く、冷ややかな声が響いた。

「……よせ。見苦しいぞ、騎士公」

現れたのは、夜会の会場にもいた隣国の公爵、アールグレイ様だった。
彼は無表情のままゆっくりとこちらへ歩いてくると、私の煮上げたジャムをじっと見つめた。

「ア、アールグレイ公爵閣下! なぜこのような場所に……。ここは今、犯罪捜査の真っ最中でして」

「捜査? 私には、無知な騎士が淑女の調理を邪魔しているようにしか見えないが。……ミント卿、君は鼻が詰まっているのか?」

アールグレイ様は、シュガー様のハンカチを指先でつまみ上げると、忌々しそうに顔をしかめた。

「これは粗悪な薬品の臭いだ。オレンジの香りではない。それに比べて、この鍋から漂う香りは……」

彼はふっと目を閉じ、深く息を吸い込んだ。

「……完璧だ。皮の苦味と果肉の甘みが、絶妙な比率で結晶化している。これを犯罪の証拠などと呼ぶのは、料理という文化に対する宣戦布告と受け取っていいのか?」

「そ、そんな大げさな……!」

ミント様は、公爵の放つ圧倒的なプレッシャーに冷や汗を流している。
アールグレイ様は私に視線を戻すと、わずかに眉を動かした。

「マーマレード嬢。このジャム、すべて君が一人で?」

「ええ。オレンジの皮を剥くところから、火加減の調整まで。誰の手も借りておりませんわ。……もっとも、これからはこのジャムを味わってくださる婚約者(レモン)もいなくなりましたけれど」

私が自虐的に笑うと、公爵は真顔で私を見つめ返した。

「……そうか。ならば、そのジャム。私に売ってもらえないだろうか」

「え?」

「値段は君の言い値で構わない。いや、むしろ私がお抱えの料理人として君を雇用したいぐらいだ。この香りを、王宮の腐った空気の中に放置しておくのは国家的な損失だ」

アールグレイ様の言葉に、厨房の料理人たちがざわめき出した。
婚約破棄されたばかりの「悪役令嬢」に対し、隣国の最高権力者がまさかのスカウト。

ミント様は呆然と立ち尽くし、私は手に持ったおたまを握りしめた。

「……お言葉ですが、公爵閣下。私は今、実家からも勘当され、文字通りの一文無しになる予定なのです。公爵家のお抱えになるのは魅力的ですが、私は自分のジャムを、もっと自由に、世界中のパンに塗って広めたいという野望がございますの」

「野望、か。面白い」

公爵は口角をわずかに上げた。それが彼なりの微笑みだと気づくのに、数秒かかった。

「では、こうしよう。私は君の『パトロン』になる。君がどこへ行こうと、その活動を支援しよう。その代わり、最初に出来たジャムは必ず私に献上すること。……どうだ?」

「……条件は、それだけですか?」

「ああ。それと、今すぐその鍋の中身を一口、試食させてほしい。私は今、空腹で死にそうなんだ」

公爵のあまりにも切実な(そして少しズレた)要望に、私は思わず吹き出してしまった。

「ふふっ……。いいでしょう。婚約破棄のお祝いに、毒味役をお願いいたしますわ、閣下」

私は瓶に残ったジャムをスプーンですくい、彼の前に差し出した。
公爵はそれを躊躇いなく口に含む。

次の瞬間、彼の瞳が驚愕に見開かれた。

「…………っ!!」

「いかがですか?」

「……苦い。だが、その後に来る甘みが、まるで初夏の太陽のように……。マーマレード嬢、君は天才か?」

「いいえ。ただのオレンジ愛好家ですわ」

私はミント様を無視して、テキパキと片付けを始めた。
婚約破棄、追放、結構なことですわ。
私の隣には、今、世界で一番私のジャムを理解してくれる(かもしれない)最高のお客様がいるのだから。

「さあ、閣下。王宮の門が閉まる前に出発しましょう。私の新しい厨房を探しに!」

私は、空になった銅鍋を抱え、公爵を従えて厨房を後にした。
背後でミント様が「待て! まだ話は終わって……!」と叫んでいたが、私の耳にはもう、新しいオレンジが弾ける音しか聞こえていなかった。
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