17 / 28
17
しおりを挟む
王都が砂糖の地獄に沈んでいる頃。
「ビターオレンジの森」には、穏やかな夕暮れ時が訪れていた。
私は工房の裏にあるベンチに腰掛け、新作の『オレンジの花のハーブティー』を淹れていた。
お湯を注ぐと、柑橘の清涼感と花の甘い香りが、夕闇に溶け出していく。
「……良い香りだ。心が洗われるような気がする」
いつの間にか隣に立っていたアールグレイ公爵が、静かに腰を下ろした。
彼はいつも私の横でパンを頬張っているが、今夜の彼は少しだけ雰囲気が違っていた。
「閣下、お疲れ様です。……何か召し上がりますか? ちょうど、試作中の『オレンジピール入りのショコラ』がありますけれど」
私が小皿を差し出すと、公爵はそれを一瞥しただけで、私をじっと見つめ返した。
「……いや。今は食べ物の話ではないのだ」
「あら、珍しい。閣下が食欲以外の理由で私を訪ねてくるなんて。……さては、どこか体調が悪いのですか? ビタミン不足かしら」
「……マーマレード。君は、私のことをどう思っている?」
あまりにも唐突な問いに、私はカップを持つ手を止めた。
「どう、と言われましても。……最高のパトロンであり、私のジャムの価値を誰よりも理解してくれる、大切なお客様……。あ、あと、時々下僕になってくださる頼もしい公爵様、ですわね」
私が茶目っ気たっぷりに笑うと、公爵は深い溜め息をついた。
「やはり、そうなのだな。……私の言い方が悪かった。君にとって、私は『餌をくれる便利な装置』でしかないのか?」
「装置なんて、そんな! 閣下は、私が婚約破棄されて路頭に迷っていた時に、救い出してくださった恩人ですわ。感謝してもしきれません」
「……感謝、か」
公爵は視線を遠くへ向けた。夕陽に照らされた彼の横顔は、彫刻のように美しく、そしてどこか寂しげだった。
「私は今まで、甘いものさえあれば人生は満たされていると思っていた。……だが、君と出会って、この森で君がパンを捏ねる音を聞き、君が煤だらけの顔で笑うのを見るたびに、別の『飢え』を感じるようになったのだ」
「飢え……? やっぱりお腹が空いているじゃありませんか! 今すぐサンドイッチを作りますわ!」
私が立ち上がろうとしたその時、公爵が私の手首をそっと掴んだ。
その掌は驚くほど熱く、力強い。
「座れ。……話を聞けと言っているだろう」
公爵の瞳が、射抜くような鋭さで私を捉える。
私は心臓が跳ね上がるのを感じ、大人しくベンチに戻った。
「……私が欲しているのは、君の作るジャムではない。……いや、ジャムも欲しいが。……それ以上に、君という存在そのものが欲しいのだ」
「……え?」
「マーマレード・オレンジ。私は、君を愛している」
心臓が、耳元で鐘を打ち鳴らすような音を立てた。
あまりに直球な言葉。冗談のようには聞こえない。
「……閣下。それは、その……『食べちゃいたいほど好き』という、食欲の比喩ではなくて?」
「……本気だ。君を、私の公爵夫人として迎えたい。……君の才能も、君の気の強さも、君のオレンジに対する異常な情熱も。そのすべてを、私の隣で、一生見守らせてほしい」
公爵の手が私の頬に触れた。
指先の熱が伝わってきて、顔がカッと熱くなるのがわかる。
「私は不器用な男だ。……これまで、君を繋ぎ止めるために『食欲』という口実を使ってきた。だが、もう限界だ。……君を、一人の女性として、心から求めている」
「………………」
私は言葉を失った。
これまでの人生、レモン殿下からは「実用性」しか求められず、実家からは「経費」として扱われてきた。
そんな私を、一人の人間として、これほど熱烈に愛してくれる人がいるなんて。
「……公爵夫人、だなんて。私、ジャムのことしか頭にない女ですわよ? 社交界のルールより、酵母の発酵具合の方が気になりますし……」
「構わん。私の城を、君の巨大な工房に作り替えてもいい。君が望むなら、世界中のオレンジを私の庭に植えよう。……私の人生には、君という『輝き』が必要なんだ」
公爵の真剣な眼差しに、私の胸の奥がキュンと締め付けられた。
それは、オレンジの酸味よりも鋭く、そしてどんな砂糖よりも甘い感覚だった。
「……閣下。……私、狡いですわよ? あなたの愛をたっぷり吸い込んで、それをジャムに変えて、さらに高い値段であなたに売りつけますわよ?」
「……ふ。望むところだ。いくらでも払おう」
公爵が、ようやくいつものような余裕のある笑みを浮かべた。
彼は私の手を引き、その指先の一つ一つに、愛おしそうに唇を寄せた。
「……返事は、今すぐでなくてもいい。……だが、覚悟はしておけ。私は、一度狙った獲物は絶対に逃さない。……君の心も、君のジャムも。すべて私のものにする」
「……強引ですわね、公爵様」
私は照れ隠しに、彼の胸をぽんと叩いた。
そこには、力強い鼓動が刻まれていて、私への想いが嘘ではないことを証明していた。
夕闇が二人を包み込んでいく。
甘酸っぱいオレンジの香りと、初めて知る恋の予感。
私の「リベンジ」の物語は、いつの間にか、自分でも予想していなかった「最高のハッピーエンド」へと向かって走り出していた。
「……さあ、閣下。告白の報酬に、とっておきの新作を召し上がれ」
「……ああ。……毒味(くちづけ)の代わりにな」
「……もう! 閣下ったら!」
笑い合う私たちの声が、静かな森に響く。
この夜、私の世界はオレンジ色から、さらに深い、愛の黄金色へと染まっていったのである。
「ビターオレンジの森」には、穏やかな夕暮れ時が訪れていた。
私は工房の裏にあるベンチに腰掛け、新作の『オレンジの花のハーブティー』を淹れていた。
お湯を注ぐと、柑橘の清涼感と花の甘い香りが、夕闇に溶け出していく。
「……良い香りだ。心が洗われるような気がする」
いつの間にか隣に立っていたアールグレイ公爵が、静かに腰を下ろした。
彼はいつも私の横でパンを頬張っているが、今夜の彼は少しだけ雰囲気が違っていた。
「閣下、お疲れ様です。……何か召し上がりますか? ちょうど、試作中の『オレンジピール入りのショコラ』がありますけれど」
私が小皿を差し出すと、公爵はそれを一瞥しただけで、私をじっと見つめ返した。
「……いや。今は食べ物の話ではないのだ」
「あら、珍しい。閣下が食欲以外の理由で私を訪ねてくるなんて。……さては、どこか体調が悪いのですか? ビタミン不足かしら」
「……マーマレード。君は、私のことをどう思っている?」
あまりにも唐突な問いに、私はカップを持つ手を止めた。
「どう、と言われましても。……最高のパトロンであり、私のジャムの価値を誰よりも理解してくれる、大切なお客様……。あ、あと、時々下僕になってくださる頼もしい公爵様、ですわね」
私が茶目っ気たっぷりに笑うと、公爵は深い溜め息をついた。
「やはり、そうなのだな。……私の言い方が悪かった。君にとって、私は『餌をくれる便利な装置』でしかないのか?」
「装置なんて、そんな! 閣下は、私が婚約破棄されて路頭に迷っていた時に、救い出してくださった恩人ですわ。感謝してもしきれません」
「……感謝、か」
公爵は視線を遠くへ向けた。夕陽に照らされた彼の横顔は、彫刻のように美しく、そしてどこか寂しげだった。
「私は今まで、甘いものさえあれば人生は満たされていると思っていた。……だが、君と出会って、この森で君がパンを捏ねる音を聞き、君が煤だらけの顔で笑うのを見るたびに、別の『飢え』を感じるようになったのだ」
「飢え……? やっぱりお腹が空いているじゃありませんか! 今すぐサンドイッチを作りますわ!」
私が立ち上がろうとしたその時、公爵が私の手首をそっと掴んだ。
その掌は驚くほど熱く、力強い。
「座れ。……話を聞けと言っているだろう」
公爵の瞳が、射抜くような鋭さで私を捉える。
私は心臓が跳ね上がるのを感じ、大人しくベンチに戻った。
「……私が欲しているのは、君の作るジャムではない。……いや、ジャムも欲しいが。……それ以上に、君という存在そのものが欲しいのだ」
「……え?」
「マーマレード・オレンジ。私は、君を愛している」
心臓が、耳元で鐘を打ち鳴らすような音を立てた。
あまりに直球な言葉。冗談のようには聞こえない。
「……閣下。それは、その……『食べちゃいたいほど好き』という、食欲の比喩ではなくて?」
「……本気だ。君を、私の公爵夫人として迎えたい。……君の才能も、君の気の強さも、君のオレンジに対する異常な情熱も。そのすべてを、私の隣で、一生見守らせてほしい」
公爵の手が私の頬に触れた。
指先の熱が伝わってきて、顔がカッと熱くなるのがわかる。
「私は不器用な男だ。……これまで、君を繋ぎ止めるために『食欲』という口実を使ってきた。だが、もう限界だ。……君を、一人の女性として、心から求めている」
「………………」
私は言葉を失った。
これまでの人生、レモン殿下からは「実用性」しか求められず、実家からは「経費」として扱われてきた。
そんな私を、一人の人間として、これほど熱烈に愛してくれる人がいるなんて。
「……公爵夫人、だなんて。私、ジャムのことしか頭にない女ですわよ? 社交界のルールより、酵母の発酵具合の方が気になりますし……」
「構わん。私の城を、君の巨大な工房に作り替えてもいい。君が望むなら、世界中のオレンジを私の庭に植えよう。……私の人生には、君という『輝き』が必要なんだ」
公爵の真剣な眼差しに、私の胸の奥がキュンと締め付けられた。
それは、オレンジの酸味よりも鋭く、そしてどんな砂糖よりも甘い感覚だった。
「……閣下。……私、狡いですわよ? あなたの愛をたっぷり吸い込んで、それをジャムに変えて、さらに高い値段であなたに売りつけますわよ?」
「……ふ。望むところだ。いくらでも払おう」
公爵が、ようやくいつものような余裕のある笑みを浮かべた。
彼は私の手を引き、その指先の一つ一つに、愛おしそうに唇を寄せた。
「……返事は、今すぐでなくてもいい。……だが、覚悟はしておけ。私は、一度狙った獲物は絶対に逃さない。……君の心も、君のジャムも。すべて私のものにする」
「……強引ですわね、公爵様」
私は照れ隠しに、彼の胸をぽんと叩いた。
そこには、力強い鼓動が刻まれていて、私への想いが嘘ではないことを証明していた。
夕闇が二人を包み込んでいく。
甘酸っぱいオレンジの香りと、初めて知る恋の予感。
私の「リベンジ」の物語は、いつの間にか、自分でも予想していなかった「最高のハッピーエンド」へと向かって走り出していた。
「……さあ、閣下。告白の報酬に、とっておきの新作を召し上がれ」
「……ああ。……毒味(くちづけ)の代わりにな」
「……もう! 閣下ったら!」
笑い合う私たちの声が、静かな森に響く。
この夜、私の世界はオレンジ色から、さらに深い、愛の黄金色へと染まっていったのである。
1
あなたにおすすめの小説
「お幸せに」と微笑んだ悪役令嬢は、二度と戻らなかった。
パリパリかぷちーの
恋愛
王太子から婚約破棄を告げられたその日、
クラリーチェ=ヴァレンティナは微笑んでこう言った。
「どうか、お幸せに」──そして姿を消した。
完璧すぎる令嬢。誰にも本心を明かさなかった彼女が、
“何も持たずに”去ったその先にあったものとは。
これは誰かのために生きることをやめ、
「私自身の幸せ」を選びなおした、
ひとりの元・悪役令嬢の再生と静かな愛の物語。
悪役令嬢は永眠しました
詩海猫(8/29書籍発売)
ファンタジー
「お前のような女との婚約は破棄だっ、ロザリンダ・ラクシエル!だがお前のような女でも使い道はある、ジルデ公との縁談を調えてやった!感謝して公との間に沢山の子を産むがいい!」
長年の婚約者であった王太子のこの言葉に気を失った公爵令嬢・ロザリンダ。
だが、次に目覚めた時のロザリンダの魂は別人だった。
ロザリンダとして目覚めた木の葉サツキは、ロザリンダの意識がショックのあまり永遠の眠りについてしまったことを知り、「なぜロザリンダはこんなに努力してるのに周りはクズばっかりなの?まかせてロザリンダ!きっちりお返ししてあげるからね!」
*思いつきでプロットなしで書き始めましたが結末は決めています。暗い展開の話を書いているとメンタルにもろに影響して生活に支障が出ることに気付きました。定期的に強気主人公を暴れさせないと(?)書き続けるのは不可能なようなのでメンタル状態に合わせて書けるものから書いていくことにします、ご了承下さいm(_ _)m
婚約破棄ですか???実家からちょうど帰ってこいと言われたので好都合です!!!これからは復讐をします!!!~どこにでもある普通の令嬢物語~
tartan321
恋愛
婚約破棄とはなかなか考えたものでございますね。しかしながら、私はもう帰って来いと言われてしまいました。ですから、帰ることにします。これで、あなた様の口うるさい両親や、その他の家族の皆様とも顔を合わせることがないのですね。ラッキーです!!!
壮大なストーリーで奏でる、感動的なファンタジーアドベンチャーです!!!!!最後の涙の理由とは???
一度完結といたしました。続編は引き続き書きたいと思いますので、よろしくお願いいたします。
婚約破棄に、承知いたしました。と返したら爆笑されました。
パリパリかぷちーの
恋愛
公爵令嬢カルルは、ある夜会で王太子ジェラールから婚約破棄を言い渡される。しかし、カルルは泣くどころか、これまで立て替えていた経費や労働対価の「莫大な請求書」をその場で叩きつけた。
【完結】婚約破棄され毒杯処分された悪役令嬢は影から王子の愛と後悔を見届ける
堀 和三盆
恋愛
「クアリフィカ・アートルム公爵令嬢! 貴様との婚約は破棄する」
王太子との結婚を半年後に控え、卒業パーティーで婚約を破棄されてしまったクアリフィカ。目の前でクアリフィカの婚約者に寄り添い、歪んだ嗤いを浮かべているのは異母妹のルシクラージュだ。
クアリフィカは既に王妃教育を終えているため、このタイミングでの婚約破棄は未来を奪われるも同然。こうなるとクアリフィカにとれる選択肢は多くない。
せめてこれまで努力してきた王妃教育の成果を見てもらいたくて。
キレイな姿を婚約者の記憶にとどめてほしくて。
クアリフィカは荒れ狂う感情をしっかりと覆い隠し、この場で最後の公務に臨む。
卒業パーティー会場に響き渡る悲鳴。
目にした惨状にバタバタと倒れるパーティー参加者達。
淑女の鑑とまで言われたクアリフィカの最期の姿は、良くも悪くも多くの者の記憶に刻まれることになる。
そうして――王太子とルシクラージュの、後悔と懺悔の日々が始まった。
あの日々に戻りたくない!自称聖女の義妹に夫と娘を奪われた妃は、死に戻り聖女の力で復讐を果たす
青の雀
恋愛
公爵令嬢スカーレット・ロッテンマイヤーには、前世の記憶がある。
幼いときに政略で結ばれたジェミニ王国の第1王子ロベルトと20歳の時に結婚した。
スカーレットには、7歳年下の義妹リリアーヌがいるが、なぜかリリアーヌは、ロッテンマイヤー家に来た時から聖女様を名乗っている。
ロッテンマイヤーは、代々異能を輩出している家柄で、元は王族
物語は、前世、夫に殺されたところから始まる。
公爵令嬢を虐げた自称ヒロインの末路
八代奏多
恋愛
公爵令嬢のレシアはヒロインを自称する伯爵令嬢のセラフィから毎日のように嫌がらせを受けていた。
王子殿下の婚約者はレシアではなく私が相応しいとセラフィは言うが……
……そんなこと、絶対にさせませんわよ?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる