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閑話 宰相閣下の長い一日
しおりを挟むガイウス・ノアを追放してから、一週間が経った。
宰相ハーヴェル・クロスは、執務室の椅子に深く沈んで、山積みの報告書を見る。
正確には、眺めていた。
正直、読む気力が今朝から出ない。
「閣下」
扉が開いて、部下の官僚が入ってきた。
三十代の、生真面目な男だ。名はロウ。
「どうしました?」
「城壁東側の防術結界なのですが——」
「それは昨日も聞きました」
「実は状況が昨日より悪化しておりまして」
ハーヴェルは目を閉じた。
防術結界というのは、城を外部の魔術攻撃から守る、王城で最も重要な魔術設備だ。
百年前に構築されて以来、定期的に補修が必要になる。
去年の秋、東側の結界に亀裂が入った。
魔術師団が補修しようとしたが、術式が複雑すぎて手が出なかった。
それを結局、ガイウスが一人でやった。
一晩で。
そのことを、ハーヴェルは知らなかった。
報告書に記録が残っていなかったからだ。
今朝、古い日誌を掘り起こして初めて知った。
「ガイウスが補修していたのは、東側だけですか」
「いいえ」
ロウが羊皮紙を広げた。
「過去三年の記録を調べたところ——東側、西側、南塔の基部、正門上の結界石、中庭の魔力遮断壁……合計11か所です」
「11箇所も‥」
「全て、ガイウス殿が単独で対処しておりました。 報告書への記載は最小限で、ほとんど誰も把握していなかったようで」
ハーヴェルは額に手を当てた。
「現在の状態は」
「東側の亀裂が再び広がっています。 このままでは、一か月以内に機能を失う可能性が」
「他の魔術師では無理なのですか」
ロウが少し間を置いた。
「団員全員の力を合わせれば……ただ、時間と費用が相当かかります」
「どのくらい」
「1箇所で半年、金貨は三千枚ほど」
ハーヴェルは黙った。
ガイウスは一晩でやっていた。 おそらく無報告で、残業代もつけずに。
「……わかりました。検討します」
ロウが退室した。
入れ替わりに、別の官僚が入ってきた。
「閣下、医療部門から緊急の連絡が」
「今度は何ですか」
「上級回復薬の在庫が底をついたそうで。 次の入荷の目処が立たないと」
ハーヴェルは眉を上げた。
「補充は薬師に発注するだけでしょう。なぜ——」
「そ、それが‥」
官僚が口ごもった。
「王城への上級品の定期供給は、三年前からガイウス殿が個人で行っていたそうで。 正規の業者より品質が高く、更には値段も安かったため、いつの間にかそちらに切り替わっていたようで」
「……いつの間か?」
「正式な契約書もなく、ガイウス殿が毎月持ってきていたものを、医療部門が受け取っていたと」
「なぜ正式な契約を——」
「ガイウス殿が『面倒なので』と断ったそうです」
ハーヴェルは返す言葉がなかった。
面倒なので。
あの男のことだから、本当にそう言ったのだろう。
「他の業者から調達できないのですか?」
「同等品を供給できる業者が、現在王都に存在しないそうで。 他の街から取り寄せると、一本あたり金貨四枚以上になるとのことです」
ハーヴェルは窓の外を見た。
王都の空が、憎らしいほど晴れていた。
「……わかりました。予算を確保します。下がっていい」
午後になった。
今度は侍女頭が来た。
ハーヴェルは顔を見ただけで頭が痛くなった。
「王妃様のご用件ですか」
「‥はい」
侍女頭が深々と頭を下げた。
「ミミのことで——」
「猫ですね」
「はい。 木の上から降りられなくなってしまって」
ハーヴェルは目を閉じた。
王妃の愛猫ミミは、月に二度は木に登って降りられなくなる。
そのたびに誰かが呼ばれるのだが、猫というのは気難しい生き物で、知らない人間が近づくと爪を立てる。
ガイウスは何かの術を使って、ミミをいつも静かに降ろしていた。
「団員に頼めますか」
「三人試みましたが、全員引っ掻かれて」
「梯子は」
「ミミが怒ってしまい、さらに高い枝に登ってしまいまして」
「……ガイウスは何をしていたのですか、具体的に」
侍女頭が少し考えた。
「何か小さな石を取り出して、猫に向けてそっと術をかけていたようで。 するとミミがうとうとして、自分から降りてくるんです。 それがもう三年……」
三年。
ハーヴェルは何も言えなかった。
「王妃様がたいそうご心配で——」
「わかりました。私が行きます」
「閣下が?」
「他に誰がいるのですか」
中庭に出ると、確かに大きなモミの木の高いところに、白い毛玉がいた。
ハーヴェルが下から見上げると、ミミも見下ろしてきた。 目が細くなった。
「……おいで」
ミミが顔を背けた。
ハーヴェルは手を伸ばしたまま、しばらく立っていた。
侍女たちが遠巻きに見ている。
結局、日が暮れるまでかかった。
最終的にミミは自分で降りてきて、ハーヴェルの横を素通りして城の中に消えた。
「‥‥」
ハーヴェルは木の下に立ったまま、空を見上げた。
夕焼けだった。
執務室に戻ると、ロウが待っていた。
「閣下、一つご報告が」
「また今度は何ですか」
「セルジオ騎士より、北部調査の報告書が届きました。 魔獣の制御問題は解決されたとのことです」
「誰が」
「……報告書に名前の記載がなく、『協力者』とだけあるのですが、 セルジオ騎士の手紙には、こう書いてあります」
ロウが手紙を読み上げた。
「『元魔術師を名乗る農家の方に助けていただきました。 遺跡の魔道具を二時間で無効化し、問題を解決されました。 なお当人は報告書への記載を辞退されました』」
ハーヴェルはしばらく黙っていた。
「……農家」
「はい」
「元魔術師」
「はい」
「辺境の」
「おそらくは」
ハーヴェルは机に肘をついて、顔を両手で覆った。
そいつは先週追放した。
自分が怒鳴り込んで、その日のうちに城から叩き出した‥ガイウスだ。
それが今、辺境の村でのんびり農業をやりながら、依頼があれば王国の問題を片付けて回っているらしい。
「閣下」
「何ですか」
「追放令の件なのですが……見直しを検討される気は——」
「全くありません」
ロウが少し首をすくめた。
「追放した手前、今さら呼び戻せるわけがない」
「はあ」
「国民に示しがつかない」
「はあ」
「何より……あの男が、戻ってくるわけがない」
ロウが黙った。
ハーヴェルも黙った。
どちらも、それが正しいとわかっていた。
ガイウス・ノアは、追放されたとき「わかりました」と言って出て行った。 怒りもなく、未練もなく、ただ淡々と。
あの顔は、解放された人間の顔だった。
ハーヴェルは十年間、それに気づかなかった。
「……防術結界の補修費用の件、明日の会議に上げてください」
「わかりました」
「上級ポーションの代替業者も、早急に探すように医療部門に伝えてください」
「はい」
「ミミの件は……また明日考えます」
「畏まりました」
ロウが退室した。
執務室に一人残されたハーヴェルは、椅子に深く沈んだ。
窓の外に、夜の王都が広がっていた。
あの男が十年間、一人で補っていたものの大きさを、いなくなってから知る。
宰相として、それは正直、情けなかった。
ただ。
「面倒なので、か……」
ハーヴェルは呟いた。
そういう男が、今ごろ辺境の村でエールでも飲んでいると思うと、腹も立てられなかった。
立てる立場でも、もはやなかった。
書類に目を落として、ため息をついた。
長い一日だった。
明日も、きっと長い。
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