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月に吠えろ
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「もうだめ……我慢、できない」
ぷるんと柔らかそうな唇から切な気に零れ落ちる熱い吐息。長い睫毛に縁取られた大きな琥珀色の瞳は金色に輝き、ふっくらとした頬は上気して薄桃色に染まっていた。
妖しげに輝く満月を背にした彼女はとても蠱惑的で、そして絶対的だった。俺は蛇に睨まれた蛙のように身動き一つできず、ゆっくりと近づいてくる彼女のやたらきれいな顔をただぼうっと眺めていた。
色素の薄い、瞳と同じ琥珀色の柔らかな髪がふわりと俺の顔をなでていく。シャンプーの香りだろうか、甘い匂いが鼻孔をくすぐった。
そして耳元におとされたのは、蜂蜜のようなとろりとした甘い囁き。
「ちょうだい、あなたの全部を」
※ ※ ※ ※ ※
雑踏を歩けば俺の前にだけ道ができ、泣く子は俺を見てさらに泣き叫び、犬はしっぽを丸め一目散に逃げていく。だってのに、ガラの悪い奴らだけはなぜかやたらと寄ってくる。それがあまりに鬱陶しいんで全員返り討ちにしてたら、いつの間にか『千疋高の狂犬』なんて恥ずかしいあだ名を付けられていた。
不本意だ。ものすっっっごく、不本意だ。
そもそも、俺から手を出したことなんて一回もない。それなのに毎回毎回、わらわら湧いてきてはアホみたいに絡んできやがって。本当にどっから湧いてきやがるんだよ、こいつらは。
「くそっ……! なんで俺の周りには、こんな野郎どもしか寄ってこねえんだよ‼」
返り討ちにしたバカどもの山のてっぺんで、俺は腹の底からため息を吐き出す。
もう嫌だ。毎日毎日、なんで俺はこんなバカどもの相手をしなけりゃならないんだ? 俺、何か悪いことしたか? ちょっと人より見た目がいかついだけじゃねえか。
だいたい俺だって、好きでこんなにでかくなったわけじゃねえし。仕方ねえだろ、中一の時にゃもう180越えちまってたんだよ。最近やっと190で止まったんだぞ。
それと、三白眼で目つき悪いのは生まれつきのもんだ! ガン飛ばしてるわけじゃねぇ‼ 日本人じゃあんま見ねえこの琥珀色の目だって生まれつきなんだから仕方ねえだろうが。
なのになんで毎日毎日、俺はこんなバカどもとどつきあいしなきゃなんねぇんだよ!
この真神伊織、これまでお天道様に顔向け出来ねえようなこたぁ一切やっちゃいねえ。授業だってサボったことねえし、成績だって別に悪かねえ。煙草や酒はもちろん、女にだって手を出したことねえしな!
「こんな野郎どもとどつきあうより、俺はかわいい女の子とお付きあいしてぇんだよ!!」
※ ※ ※ ※ ※
最近、やたら視線を感じる。
まあ、それなりに有名人になっちまってるんで、見られるのは日常茶飯事っちゃ日常茶飯事なんだが……ただ、なんつーか最近感じる視線は、そういうのとはまた違うっつーか。
――またか!
例の視線を感じて即座に振り返ると、そこにいたのはいつもの女。慌てて目を逸らしやがったが、間違いなく今も俺のことを見てた。
日野 苑眞
視線を感じて振り返ると、いつもこいつがいる。で、俺に気づかれるとソッコー逃げる。一体なんだってんだよ!
「よっ、この色男」
この完全に人をおちょくってるムカつく声、見なくてもわかる。
「うるせえ、バカ信」
葛葉忠信。
小学校の頃からの腐れ縁で、唯一初対面から俺に普通に接してきた変わりもん。
「えー。でも日野ってさ、いっつもお前のこと見てんじゃん。アレ、絶対お前に気ぃあるんだって!」
「はぁ⁉ あるわけねえだろ。バカじゃねえの、オマエ」
俺の大声に周りのやつらが一斉に飛び退いた。さっきまであんなに賑やかだった昼休みの廊下が一転、試験中のような静けさに。
そんな中、空気を読まない忠信は口をとがらせながら文句を言い始めた。
「なんでだよ、あるわけなくないだろ。わかってないのは伊織の方だよ。……よし、わかった」
何がわかったのか、忠信は突然走り出した。
――激しく嫌な予感しかしねえ‼
俺はすぐに忠信の後を追いかけたが、やつとの距離はまったく縮まらない。くそっ、あいつ足だけは無駄に早えんだよな、畜生!
「待てやゴラァァァァァ‼」
俺が怒号をあげた瞬間、忠信まで一直線に道が出来た。壁際から送られてくる恐怖におののく視線が多少痛いが、今はそんなこと気にしてる場合じゃねえ。とにかく、今はあのバカを捕まえる方が重要だ。
やっとのことで忠信に追いつくと、ヤツはちょうど日野に話しかけるところだった。
「日野さんさぁ、伊織のこといっつも見てるよね。もしかしてあいつのこと、好きなの?」
アホか‼ 何聞いてくれてんだテメエは!
即座に忠信の後頭部へ一発入れて黙らせ、日野を見た。
ニキビなんて無縁そうな色白の肌に、薄茶色の柔らかそうな髪とやたらでかい目。まつげも長くてバサバサだ。そんで不安そうに俺を見上げてくるその姿は、なんつうか小動物《ハムスター》みてえで。庇護欲ってやつを無性に刺激される。さすが学校一の美少女。
あんなむさくるしいバカどもじゃなくて、こういう美少女に追っかけられてえ……なんてアホなことを考えてたら、その目の前の美少女が震えながら口をぱくぱくさせ始めた。
「あの……わ、私、その……」
やべ、ついガン見しちまった。おいおい、日野、涙目になってんじゃねえか。これ、絶対睨んだって思われただろ。クソッ、またやっちまった。
「ち、違う! 今のは睨んでたわけじゃねえ‼」
俺のバカでかい声に日野の肩がびくりと揺れた。しかもでっかい目には、今にも零れ落ちそうなくらい涙がたまってる。
「いや、だから、その……」
完全にお手上げだ。バカども相手なら殴って黙らせるんだが、女相手だとどうしていいかわかんねえ。
「痛たたた……あのなぁ、いきなり殴ることないだろ。いいか伊織、人には言葉という便利なものがあってだな」
後頭部をさすりながら立ちあがったのはこの状況を作り出した元凶、忠信。
そうだ。そもそもこいつがわけわかんねぇこと言いださなきゃ、こんなことにならなかったんだ。毎度毎度毎度、なんでこいつはわざわざ面倒事を作り出すんだ?
「うるせえ! いいから教室帰んぞ。昼休み終わっちまうだろうが」
俺は忠信の襟首を掴むと、その場から逃げだすように歩き出した――
「待って!」
はずだった。
のに、なぜか手首を掴まれてた。日野に。しかもがっちりと。ビクともしねぇ。
「そ、その……実は、君に話したいことが……って、えぇ⁉」
「うわっ、伊織⁉ ちょっ、お前どうしたんだよ。鼻血、鼻血!」
忠信の声で慌てて鼻の下に手を当ててみると、確かにぬるっとした感触がして。
おいおい、嘘だろ……。高校生にもなって、女に手ぇ握られただけで鼻血って。そりゃありえねぇだろ、俺。
慌てて拳で鼻をこすったその時、突如謎の浮遊感が俺を襲った。
「…………は?」
そしてなぜか、至近距離から日野に見下ろされていた。
おかしい。ついさっきまでは俺が見下ろしてたはずなのに、なんで今、しかもこんな近くから俺が見下ろされてんだ?
「このまま保健室行くね」
いや、待て待て待て! なんだこの状況⁉
なんでこんな華奢でいかにも女の子な日野が、俺みたいなごっつい大男を“お姫様抱っこ”で軽々と抱えてんだ⁉
「ちょっ、下ろせ! いや、すみません、下ろしてください‼」
「大丈夫。私こう見えても、けっこう力持ちだから」
そういう問題じゃねぇ! 違うんだ、これは俺の男の沽券ってやつの問題なんだ‼
「頼む、下ろしてくれぇぇぇぇぇ‼」
人生初、女子にお姫様抱っこをされて保健室に連れていかれた。
※ ※ ※ ※
そして今、俺と日野は保健室にいた。
そんでなんでか間が悪いことに、先生がいねぇときた。どこ行きやがった。なんで肝心な時にいねぇんだよ!
心の中で先生への文句を並べていると、ベッドがぎしっと軋んだ。見ると、なぜか日野がベッドに腰掛けてこちらを見ている。光の角度かなんかなのか、いつもは琥珀色の日野の目が金色に見えた。
そういやこいつも俺と同じ、珍しい目の色だったな。
「先生、戻ってこないね」
そう言いながら、なぜか日野はベッドに上がってきた。そして四つん這いになって、じりじりと俺の方に近づいてくる。ちなみに俺はといえば、気圧されてただただ後退るのみ。
「あ、ああ。じゃあ、鼻血も止まったことだし、俺はこれで……」
迫りくる日野から逃げようとベッドから降りようとした瞬間、目の前を白く細い腕に阻まれた。
「どこ、行くの?」
ベッドの上――背中には壁、脚の上には日野。なんだ? 俺は今、いったいどういう状況なんだ? なんで俺は、ベッドの上で日野に壁ドンされてんだ⁉
「だーめ。逃がしてなんてあげない」
これ、普通は男と女の位置逆じゃねぇの? だいたいさっきみたいなお姫様抱っこだって、男の俺はする方で、断じてされる方じゃねえ!
追い詰められて焦る俺とは対照的に、日野は余裕の笑みを浮かべていた。いや、余裕っつーか、獲物を前にした狼っつーか……
くすりと笑うと、日野はいきなりぐっと顔を近づけてきた。
「私ね、もう……我慢、できない」
何を? と、聞きたいのに。日野の甘い香りが、俺の脳髄を麻痺させる。
「だから、ちょうだい」
耳元で囁かれる甘い声に、俺の本能が支配される。押し付けられた柔らかい感触が、首にかかる湿った温かな吐息が、俺の体の自由を奪っていく。
「あなたの――」
「いーおり…………って、え?」
乱入者の登場に日野の動きが止まった。
ナイスタイミング、忠信! お前の空気の読めなさと間の悪さは天下一品だ‼ 今回だけはマジで助かった。
「あれ? 私、何して…………って、え?」
きょとんとした日野と、鼻と鼻がぶつかりそうなほどの超至近距離で目があった。
そして見つめ合うこと数秒――――次の瞬間、保健室には絹を裂くような悲鳴ってやつと、ばっちぃぃんという大きな音が響き渡った。
結局あの後、日野は半泣きで飛び出していった。
いやいや、泣きたいのは俺の方だ。これ、絶対にろくでもない噂が流れるやつだろ。で、俺の恥ずかしい二つ名は、さらに恥ずかしい名前にレベルアップするかもしれない。
「学校の中で堂々とエロいことしようとするなんて……お母さん、そんな子に育てた覚えありません!」
「うるせえ黙れバカ信。お前に育てられた記憶なんざ微塵もねえ」
睨みつけてやったが、やつはそんな俺の視線なんぞ気にとめることもなく好き勝手喋り続ける。
「しっかし意外だったなぁ。おとなしそうに見えて、日野さんってがっつり肉食系だったんだ。まさか千疋高の狂犬を襲う女子がいるなんて思わんかった。いやいや、本当いいもん見せてもらったよ。顔真っ赤にして壁ドンされてる乙女な伊織を見られるなん――イテッ」
ぺらぺらとうるさい忠信の頭を軽くはたくと、真っ赤な手形がついた左頬をさする。
しっかし、どうしてくれんだよ、これ。こんな顔で教室なんて戻れねぇだろうが。なんだったんだよ、あの怪力女。意味わかんねぇ。
さっきまでの嵐のみてぇな一連の出来事を改めて思い起こしてみると段々と腹が立ってきた。これ、俺の方が完全に被害者じゃねえか。
壁にかかっている時計を見ると、もう五時間目がとっくに始まっている時間だった。
今更授業に出る気にもなれず、とりあえずベッドの上であぐらをかく。不機嫌丸出しで頬杖をつく俺の前で、忠信はまた軽口をたたき始めた。
「でさぁ、結局のとこどうなのよ。さっきの雰囲気だとちゅーくらいはしたの?」
「するわけねぇだろうが! だいたいなぁ、あの女とは今日初めて話したんだぞ。いきなりそんなことするかっつーの」
忠信のアホみたいな質問に思いっきり動揺した俺の声は、我ながら悲しいくらい裏返っていた。
「だよねぇ。伊織ってばそんな野獣みたいな見た目してるくせに、中身は夢見る乙女顔負けの純情奥手さんだもんな。むこうはがっつり肉食系だったみたいだけど」
「うっせぇわ‼ ほんとムカつくな、お前」
ベッド脇のパイプ椅子に座っていた忠信の頭を抱え込むと、頭のてっぺんを拳でごりごりと圧迫してやった。ヤツはそれに大げさな悲鳴をあげ「ギブアップ」とか叫んでいたが、無視して気のすむまで制裁を与えてやった。
しばらくして解放してやると、忠信は頭をさすりながら涙目で恨みがましくねめつけてきやがった。自業自得だっつの。
「俺の繊細な頭が壊れたらどうしてくれんだよ。って、まあいいや。でもさぁ、あんだけ熱烈に迫ってきたくらいなんだから、やっぱあの子、お前のこと好きなんじゃね?」
何がなんでも日野俺好き説を推してくる忠信。俺はため息を吐き出した後、頭を抱えた。
好き? 学校一の美少女と名高い日野が、この俺を?
女に逃げられ避けられ泣かれることはあっても、好意を向けられたことなんて一度もない。そもそも今までの人生で女となんて会話さえろくにしたことねえのに、いきなりそんなこと言われて信じられるかっての。
そもそも本人の口から好きとか、そういう言葉聞いてねぇしな。我慢できないって言われただけだ。
そういやあの時、日野は俺の何に我慢ならなかったんだ? いや、その前になんか話したいことがあるって言ってたような……
「さっぱりわかんねえ」
そんな俺の呟きを耳聡く拾い上げた忠信は、「だから俺が聞いてやろうとしたのに」と文句を言ってきやがった。だから余計なことすんなっての。
「いいか、伊織。あんなストライクゾーンがずれてる子逃したら、お前この先一生彼女なんてできないかもしれないんだぞ」
「一般のストライクゾーンから外れてて悪かったな。あと俺に彼女が出来ないかどうかなんてわかんねぇだろうが。お前、本当にムカつくな」
「俺は嘘がつけないだけなの。そもそも目が合っただけで女子どもに逃げられるような凶暴なツラなんだから、出来る可能性の方が圧倒的に少ないだろうが。とにかく! 放課後、今度こそ日野ちゃん捕まえるぞ」
こうなった忠信はもはや何を言っても聞かない。しばらく時間をおかねぇと、今は何を言っても無駄だろう。もうどうにでもなれって感じで盛大にため息を吐き出した。
※ ※ ※ ※ ※
五時間目が終わる頃、やっと保健の先生が戻ってきた。
なんでも腹を壊してトイレにこもってたとか。緊急事態だったらしく、戻ってくるなり平謝りしてきた。そのあまりの平身低頭ぶりにいたたまれなくなり、頬の手当てをしてもらう前に保健室から逃げ出してきてしまった。
そして今――
教室に戻った俺の顔には、ちらちらと窺うような視線が教室のあちらこちらから投げかけられていた。
昼休みに学校一の強面男が学校一の美少女にいきなり絡んだかと思えば、なぜか鼻血を出しながらその美少女にお姫様抱っこされ保健室に運ばれ、挙句頬を腫らせて教室に戻ってきた。
そりゃ気にすんなって方が無理だろう。だからクラスの奴らの気持ちもわからんでもない……が、正直うぜぇ。果てしなくうぜぇ。
なんで、とりあえずホームルームが終わると同時に教室を飛び出した。
クラスの奴ら、たぶん好き勝手に喋ってんだろな。ま、今更俺の評判なんかどうでもいいけどよ。ただ、日野には悪《わり》ぃことしちまったとは思う。そもそも俺たちが関わんなきゃ変な噂がたつこともなかったんだから。
「伊織! 日野さん、どこで待ち伏せしようか?」
俺の後ろを意気揚々とついてきた忠信は、隣に並ぶと目をキラキラさせて話しかけてきた。そんな生き生きとした悪友の姿に深いため息しか出ねぇ。
「忠信。もうこれ以上、日野に関わるのはやめよう。ただでさえ日野は、あの見た目のせいで注目浴びやすいんだ。ここでまた俺が顔出したら、おさまる噂もおさまんなくなる」
「えー、でもさぁ」
不満気な忠信の言葉に被せるように「頼む」と一言えば、ヤツは少し困ったような顔をしてから「……わかった」と了承してくれた。なんだかんだでこいつは、俺の本気の頼みは断らない。基本的にはいいヤツなんだよな。
俺は、日野のことを傷つけたくなかった。
同病相憐れむって言ったらあいつに失礼かもしれないが、たぶんそんな感じだと思う。俺もあいつも、望むと望まざるとにかかわらず、常に人から注目を浴びるタイプの人間だ。
だから噂されるのには慣れてる。でもだからって、それに傷つかないわけじゃない。俺たちにだって心はある。ただ慣れて、我慢して、やり過ごしているだけだ。
そんなことを考えながら歩いていたら、小さな影が突然俺たちの前に立ち塞がった。
「君と……その、ふ、二人きりで…………話したいことがあるの!」
ここは校門だ。当然周りには大勢の帰宅途中の生徒がいた。
そんな中で大声でそんなことを言えば、注目されるに決まっている。思わず頭を抱えてしゃがみこんだ俺は悪くない。
さっきまでの俺の気遣いは一体なんだったんだよ! これじゃ一人で勝手にシンパシー感じてた俺がバカみてえじゃねえか‼
目の前で不思議そうな顔をして立っている日野は、周囲の大勢の視線にさらされながらもそれらを全く気した様子がない。こいつ、心臓に毛でも生えてんじゃねえか?
ぽんっと、誰かの手が肩に置かれた。見上げれば、そこには満面の笑みの忠信。
「グッドラック」
それだけ言い残すとヤツは俺の制止の声も聞かず、颯爽と去っていった。そして残ったのは、目の前でもじもじする日野と興味津々の野次馬。
突き刺さる視線にいたたまれなくなった俺は勢いよく立ちあがると、そのまま日野の手を掴んで逃げるように学校を後にした。
しばらく歩いたところで、後ろから「あっ」という小さな声が聞こえた。振り向くと、まさに日野が転ぶ瞬間。
「危ねぇ!」
とっさに掴んでいた日野の手を思いきり引っ張り上げちまった。間一髪で日野が転ぶのは防げた。防げたんだが……
今、俺の目の前には、ぽかんとした日野の顔がある。
普通ならありえない。190ある俺に対して、日野は精々が160ってとこだ。だから視線が同じ高さになるなんてこと、相手が台に乗っているとかじゃなきゃありえねぇ。なのに今、俺と日野の視線は同じ高さにある。
「えーと……下ろしてくれると嬉しいんだけどな」
日野は困ったような笑みを浮かべてた。
慌てた俺が勢いよく腕を上げちまったせいで、日野は宙吊り状態になっていた。片腕を掴まれたまま困ったように笑う彼女を見て、俺はようやく我に返った。大慌てで彼女をを下ろすと、掴んでいた手を離す。
「わ、悪い! 腕、つーか肩も大丈夫か?」
苦笑いしながら手首をさする日野に、俺は勢いよく90度に腰を折って謝罪した。
「悪かった。力加減も考えねぇで……」
「えっと、私は大丈夫だから。ねっ、だから顔、上げて」
後頭部に日野の焦ったような声が降り注ぐ。だが俺は自分の馬鹿さ加減が許せなくて、顔を上げることができなかった。悪気がなかったからって、世の中全てが許されるわけじゃねぇ。
「あのね、私、こう見えてもかなり丈夫なんだよ。それに今のは、私を助けようとしてくれただけでしょ? 私が転ばなかったのは君のおかげだよ。ね、だから顔上げて。それにね……」
日野はなんでか、困ったように言葉を詰まらせた。
「このままだと私たちね、いつまでも注目の的のままだよ」
日野に言われ辺りを見渡すと、今まで俺たちを見ていたであろう野次馬が俺の顔を見て一斉に目をそらした。そして、蜘蛛の子を散らすように逃げてった。
「ね? とりあえずさ、どっかお店にでも入ろうよ」
「あ、ああ。でもよ、本当に手ぇ大丈夫なのか? 俺、さっき結構強く握っちまったから……。なぁ、ほんとに無理とかすんなよ。なんなら今から病院行くか?」
心配する俺をよそに、日野は何がおかしいのかくすくすと笑いだした。
「本当に大丈夫だって。君、見かけによらず優しいよね。……それにさ、私もさっき君のこと叩いちゃったから。ごめんね、いきなり叩いたりなんかして」
「あ、いや……その、別に気にしちゃいねえよ。もうなんともねえしな」
実際はまだちょっと痛かったが、まさかこの状況でそんなカッコ悪いこと言えるわけねぇしな。でもそんな俺のやせ我慢はバレバレだったのか、日野は「ありがとう」って笑った。
瞬間――心臓に今まで経験したこともねぇような衝撃がきた。おかげでただ一言、「おう」って答えるのが精一杯だった。なんだこれ、なんだこれ、なんだこれ⁉
「そういえば自己紹介まだだったよね? 私は日野、日野苑眞。君――、えっと、いつまでも君じゃなんだから、名前、教えてくれると嬉しいな」
※ ※ ※ ※ ※
それから俺たちは簡単に自己紹介して、とりあえず近くにあったコーヒーショップに入ることにした。店に入った瞬間、店内の客は俺を見て顔を引きつらせた。と、ここまではまあ、いつも通りだった。
ただ、今日は隣に日野がいた。たったそれだけのことだったのに……
あれだけ俺に注がれていた視線が、一瞬で全部日野に持ってかれた。男女問わず、あっという間に魅了していく。それはちょっと怖いくらいだった。
無数の視線の中、日野はなんのためらいもなく俺に話しかける。けど、日野が俺に笑いかけるたび、周りからちくちくとした敵意のようなものが飛んできて。
もしかしてこれ、嫉妬ってやつか? そう思ったら、なんかちょっとした優越感がわいてきた。
飲み物を受け取って、空いている席に座った。
相変わらず周りからは窺うような視線がちらちらと投げかけられていたが、日野は全く気にしてない。そんな落ち着かない雰囲気の中、日野は突然変なことを言いだした。
「真神くん。君さ……吸血鬼とか狼男とか、いわゆる怪物の存在って、信じる?」
俺には日野の質問の意図が掴めなかったが、とりあえず正直に首を横に振った。
この世に化け物がいるのを信じてるかってことだろ? そんなもん、普通は信じねぇだろ。いるって答えんなら、そいつはとんでもないロマンチストだと思う。
日野は俺の答えにひどく落胆した様子を見せると、しょんぼりとうつむいてしまった。けど、しばらくしたらまた顔を上げて、「絶対内緒にするから、正直に言って」と迫ってきた。
「いや、だから……日野が俺に何を求めてんのか知んねえけど、俺は化け物の存在なんて信じちゃいねぇし」
「でも真神くん、君は…………」
日野は何かを言いかけて、途中で口を閉じた。なんでか、今にも泣きだしそうな顔で。
そんな日野になんて言えばいいのかわかんなくて、結局その日は気まずい雰囲気のまま別れることになった。
※ ※ ※ ※ ※
「辛気臭いわよ、伊織。あんたねぇ、ため息つくのかごはん食べるのか、どっちかにしなさいよ」
向かいに座っている母親は鼻風邪をひいたらしく、さっきから派手に鼻をかんでいる。そんでその合間に鬱陶しそうな目で俺を見てた。どうやら自分でも気づかないうちに何回もため息をついてたらしい。
でもよ、仕方ねえだろ。日野《あいつ》の顔が頭ん中よぎるたび、なんかこうもやもやして、自分でも気づかねぇうちにため息ついちまうんだよ。
「悪ぃ。飯、もういいや」
「え⁉ だってあんた、まだどんぶり3杯しか食べてないじゃない。どうしたの? バカのくせにあたしの風邪うつっちゃったの?」
「うるせえな! 俺だって食欲ない時くらいあんだよ。んじゃ、ごちそうさん」
驚く母親を食卓に残し、俺は食器を流しに置くと部屋に戻った。
部屋に戻り、そのままベッドに倒れこむ。
目を閉じると浮かんでくるのは、最後に見た泣きそうな日野の顔。
やべぇ。なんかよくわかんねぇけど、すっげーイライラする。イライラ? そわそわ? なんつーか、とにかく落ち着かねぇ。しかも気にしないようにすればするほど、より鮮明にあいつの顔が浮かんでくる。
結局じっとしてられなくなって、のろのろと起き上がるとベッドに腰かけなおした。ふと顔を上げれば窓の向こう、すっかり暗くなった空には満月が浮かんでいた。
「――ぅあ⁉」
瞬間、心臓が大きく跳ねあがった。
わけわかんねぇ衝動が湧き上がってくる。どうしていいかわからなくて、かきむしるように胸を抑えてベッドに倒れ込んだ。けど謎の動悸も衝動も治まるどころか、どんどん激しくなっていく。
息が出来ない。体が燃えるみてぇに熱くて、しかもめちゃくちゃ痛ぇ。骨が引き伸ばされてるような縮められてるような、ぎしぎし軋む感触が気持ちわりぃ!
熱い、痛い……心臓が、破裂しそうだ‼
やっべぇ。これ、俺、死ぬかも?
さすがに生命の危機を感じて、下にいる母親に助けを求めるための叫びをあげた。
「アォーーーン」
…………は?
って、なんで俺の部屋の中で犬の遠吠えが⁉ いや、待て待て待て! その前に今、俺は母さんを呼んだはずだ。なんでその俺の声がしなくて、いないはずの犬の遠吠えが聞こえんだ?
ベッドから跳ね起きて慌てて部屋の中を見る。
犬なんていねぇ。いるわけねえんだよ。じゃあ、今の犬の声はどっから聞こえたんだ? そもそも、この部屋には俺しかいない…………俺《・》、しか。
そんなわけあるかって思いながら、恐る恐る自分の手を見る。
「ガウォ⁉」
そこにあったのは、明らかに人間じゃねぇ毛むくじゃらの手。その変わり果てた手で恐る恐る自分の顔を触ってみると……
感じたのは、ごわごわとした感触。最初は手の方のもさもさ感かとも思ったが、そっちとはあきらかに感触が全然違う。それは、俺が俺じゃないナニかになっているという、絶対に認めたくない事実を突きつけてきた。
立ち上がり、窓を見る。そこに映っていた姿は、まるで――
オオカミ……おと、こ?
その姿はフィクションではお馴染みのモンスター――狼男――だった。
茶色の毛に覆われた筋肉質な腕や足、指先には鋭い爪。しかもさっきからケツの辺りがもぞもぞするんで手を突っ込んでみたら、ご丁寧に尻尾まで出てきやがった!
ただこれ、顔はなんか犬っぽくねぇか? 耳も小せぇし、俺の知ってるオオカミとは若干違う気がするんだが。
って、どうすりゃいいんだよ、コレ‼
自分の身に起きたありえない出来事に一人混乱していると、いきなり部屋のドアが開いた。
「伊織! あんたさっきから何一人でバタバタ騒いで……ん、の⁉」
勢いよく怒鳴りこんできたのは、さっきまで下に居たはずの母親だった。
ババア、俺の部屋に入る時はノックしろっていつも言ってんだろうが! って、今はそんな場合じゃねぇ。どうすりゃいいんだ、この最悪な状況。
「ちょっ、あんた……」
母さんがなんか言いかけていたがその先の言葉を聞くのが怖くて、気がついた時には窓から飛び出してた。ここ、二階だったけどな。
てっきり庭に落ちるんだと思ってた俺の体は、なぜか空を飛んでいた。
いや、正確には跳んでた、だ。二階の自分の部屋から飛び出した俺は下に落ちることなく、道を挟んだ向かいの家の屋根まで跳んでた。信じらんねぇ……こんなの、人間の跳躍力じゃねえ。
とりあえず母さんから逃げるように、近所の家の屋根の上を駆け抜けていった。この先どうすりゃいいのかわかんなかったけど、とにかく今は立ち止まってられなかった。
そして気がつくと、学校の屋上にいた。
なんで、こんなことに……
空に浮かぶ満月を見上げ、あらん限りの声をあげる。
けど響き渡るのは、物悲しい遠吠えだけ。どんなに喋りたくても、もう俺の口からは人の言葉が出てくることはないのかもしれない。
って、一体どうすりゃいいんだよ! もしこの先、ずっとこのままの姿なんてことになっちまったら……
脳裏をよぎった恐ろしい可能性を振り払うように頭を振って、再び夜空を見上げた。
どうにかして人間の姿に戻らなきゃならない。でもどうやって? この姿になった原因さえわかんねぇのに。一体何があって、どんな理由で俺はこんな姿になったんだ?
今朝までは普通だった。ほんとになんの変哲もない、いつも通りの朝だった。じゃあ、なんだ? 変わったことってぇと…………
――日野 苑眞。
あいつと関わりを持ったこと。
確かに昼休みからは、いつもとはかけ離れた時間だった。あいつと知り合った途端、次々とありえないことが起きて。そのせいなのか常に気持ちが落ち着かねぇしで、本当に散々だった。もしかしてこうなった原因の一端は、日野に関係あるんじゃねえか? それにあいつ、最後なんか変なこと言ってたよな。
日野に会う。
とりあえずの目的は決まったものの、問題はどうやってそれを決行するかだ。まず、俺はあいつの家を知らねぇ。それにこの姿で行ったって会話できねえし、第一逃げられるだろ。悲鳴でもあげられて、人なんて呼ばれたら最悪だ。くそっ、本気でどうすりゃいいんだよ!
誰もいない学校の屋上で、一人頭を抱えるしかなかった。
なんの解決策も浮かばずひたすらコンクリ床を見つめていた俺の灰色一色の視界に、すっと差し込んできたのは黒い影。反射的に上げた視線の先に飛び込んできたのは、さっきまで誰もいなかった場所にたたずむ小柄なシルエット。
月明かりを背に受け、俺を見つめるその影は……今まさに会いたいと願っていた人物だった。
「が……」
そうだった。俺、今喋れねぇんだった。どうする? あ、筆談なら……って、書くもんがねぇ! どうしようもねぇ‼
「やっぱり」
焦る俺とは対照的に、目の前に立つ影――日野は笑ってた。
パステルカラーのもこもこしたパーカー、その揃いの短パンからのぞくのはすらりとした健康的な脚。これは……正直、目のやり場に困る。
でも、なんでこんな時間、こんな場所に日野が? しかもこいつ、これ、明らかに部屋着じゃねぇか。靴も履いてねえし。そもそも、さっきまでここには俺しかいなかったはず。
それに……こんな化け物を前にして、怯えるどころか笑ってるって、ちょっとどころじゃなくおかしくねぇか?
「ほら、やっぱり。ねえ、なんでさっきは教えてくれなかったの?」
日野は意味のわかんねえことを呟きながら、ゆっくりと近づいてきた。この雰囲気、保健室の時の日野と同じ。そう思った直後、背中を悪寒がものすごい勢いで走り抜けた。
気づくと俺の体はいつの間にか身構えるような体勢になってて、口からは低いうなり声が漏れていた。
「警戒しちゃって……ふふ、かーわいい。大丈夫、怖くないから。ね?」
日野が一歩近づく。俺は一歩後さがる。
でもそのじりじりとした攻防は、あっという間に終わっちまった。
後頭部と背中に痛みを感じた時には、もう日野に押し倒されていた。
あっという間に両腕を押さえつけられ、見上げることしかできない俺の上に――あいつ、乗ってきやがった! なんとか振りほどこうと身体をよじるが、あいつの細い腕は微動だにしない。
自分よりはるかに華奢で小さな相手に手も足も出ず、俺は今、人生初の敗北の危機に瀕していた。俺が焦れば焦るほど、日野は楽しそうにくすくすと笑う。
「無駄だよ。今の真神くんじゃ、私には勝てない」
ムカつくほど余裕じゃねぇか。
化け物の俺を一発で見抜くわ、見ても驚かねぇわ、信じらんねぇ怪力ふるうわ。しかもこの性格の変わりよう……もしかしてこいつ、二重人格ってやつなのか?
そんな俺の心を読んだかのように、「私のことが気になる?」と日野は笑うと、ちょこんと首をかしげた。
「いいよ、特別。君だから教えてあげる。そのかわり――」
日野は言葉の途中で急に体を強張らせると、胸を抑えて苦しみ始めた。
今こそ逃げるチャンス。そう思ったのに、なんでか俺は動けなかった。
目の前で苦しんでる女を放っておけないから? いや、違う。日野《・・》だから放っておけなかった。なんかわかんねぇけど、俺はこいつが苦しむのが嫌だって思った。
でも、どうしたら日野を助けられるかなんてわかんなくて、背中をさすってやるくらいしかできない。どうしたら日野を助けられるか、そればかり考えてたせいで気づくのが遅れた。唐突に視界がぐるりと回ると、俺は再び押し倒されていた。
「もうだめ……我慢、できない」
ぷるんと柔らかそうな唇から切な気に零れ落ちる熱い吐息。長い睫毛に縁取られた大きな琥珀色の瞳は金色に輝き、ふっくらとした頬は上気して薄桃色に染まっていた。
妖しげに輝く満月を背にした彼女はとても蠱惑的で、そして絶対的だった。俺は蛇に睨まれた蛙のように身動き一つできず、ゆっくりと近づいてくる彼女のやたらきれいな顔をただぼうっと眺めていた。
色素の薄い、瞳と同じ琥珀色の柔らかな髪がふわりと俺の顔をなでていく。シャンプーの香りだろうか、甘い匂いが鼻孔をくすぐった。
そして耳元におとされたのは、蜂蜜のようなとろりとした甘い囁き。
「ちょうだい、あなたの全部を」
次の瞬間、首筋に痛みがはしった。けど、痛かったのは一瞬。それはたいしたことなかったんだが……次がヤバかった!
なんだこれ⁉ やっべぇ、脳みそ溶ける。気持ちよすぎてやべぇ‼
本当にヤバい。体中の血が下半身の一か所に集結しつつあり、このままだと非っ常にまずいことになる。ここで日野が正気に戻ったら、今度は平手打ちなんかじゃ済まねぇ。もう二度と口きいてもらえねぇかも。あー、なんかよくわかんねぇけど、それは嫌だ!
ああ、でも気持ち良すぎて……なんかもう、なんも考えたくなくなってきた。やべぇ、これ以上もたねえ…………
いよいよ理性が溶けてなくなりそうになったその時、ようやく日野が首から離れた。同時にあのバカみてぇな気持ちよさは消えて、代わりにアホみたいな倦怠感が襲ってきた。
疲れ果てて指一本動かせない俺に、血みてぇな真っ赤な目になった日野が舌なめずりしながら顔を近づけてきた。そして一言、
「ごちそうさま」
と、やたら色っぽい囁きを投下してきやがった。そして、頬に何か柔らかいものが触れた。そのまま悪戯っぽく微笑むと、血色の目の日野は、「またね」と言い残して消えてしまった。
後に残されたのは、俺の腰にまたがったまま放心している小動物のような方の日野。
そして今、俺は新たなピンチを迎えていた。
誰もいない夜の学校の屋上で美少女と二人きり、しかも相手は俺の腰に馬乗りって……なんの試練だよ! ヤバい、ヤバいヤバいヤバい!! なんか温《あった》けぇし柔いしいい匂いするし。しかもさっきのアレの名残か、疲れてるはずなのに一か所だけ元気いっぱいなんだが⁉
これは、どかしていいんだろうか? いいよな? てか、いいに決まってる。別にヤラシイ気持ちとかで触るわけじゃないからな。あくまでもどけるために、ちょっと触るだけだからな。
心の中で一人、誰に向かってかわからない言い訳を並べながら、恐る恐る日野に手を伸ばした。本当は一言、「どいてくれ」って言えれば一番手っとり早かったんだけどな。
そうっと伸ばした俺の手が華奢な肩に触れた瞬間、日野の琥珀色の瞳に生気が戻った。
「ご、ごごご、ごめんなさい‼」
「がっ⁉」
勢いよく下げられた日野の頭は、ゴスッという鈍い音と共に俺の顔面を直撃した。
あまりの痛さに俺はおもわず鼻を押さえ悶える。しかし当然、日野にもそれなりのダメージがあったらしく、ぶつかった衝撃でのけぞりそうになった身体を片手をついて支えたらしい。しかしそれは、さらなるピンチの始まりだった。
「いったぁ……って、え?」
そう。その手をついた場所が、最悪の場所だったわけで。
しかも間の悪いことにそこは……その、ちょっと活動的になっていて。
日野の顔が見る見るうちに赤くなってく。そして日野はそうっと振り返ると、自分が手を置いた場所を見た。
「あ……や、いやぁぁぁぁ‼」
日野の絶叫と共に、俺の頬に凄まじい衝撃が襲い掛かった。
あーあ、やっと少し腫れが引いてきたってのに。こりゃ、また腫れるな。
ぐらぐらと揺れる脳みそでそんなことを考えながら、俺は意識を手放した。
※ ※ ※ ※ ※
――きて
誰かが泣いている声が聞こえた。
でも誰だ? なんかすっげえ聞き覚えがあるような気がすんだけど。
――なさい、ごめんなさい
なんで謝ってるんだ? なあ、一体何があったんだ?
――お願い。なんでもするから、だから
「目を開けて、真神くん!」
目を開けると、目の前に日野の顔があった。
なんでか知らねえが泣いてたみたいで、目が真っ赤だった。
「よかったぁ! 君が目を覚まさなかったらって、私……怖かった」
そう言うと日野は俺の腹に突っ伏して、子どもみたいにわんわん泣き出した。
え、俺か? 俺のせいなのか? つか、どうすりゃいんだ、この状況⁉
「お、おい。一体どうしたんだよ。もしかして俺、お前になんかしたのか?」
日野は泣いてるせいか言ってることが支離滅裂で、全く要領を得ない。ただ「ごめんなさい」ってのをひたすら繰り返してる。
そもそも何を謝られてるんだかがわかんねぇ。俺、女に泣きながら謝られるようなことされたのか?
「ちょっと落ち着け、日野。……すまん、いったん状況を整理させてくれ」
「うん。ごめん、迷惑、かけちゃって」
鼻声でまだ時々しゃくりあげてはいたが、ようやく泣きやんでくれた。
正直助かった。実はさっきから、なぜか日野の泣き顔を見てると微妙にムラムラしてきて困ってたんだよ。こんな時に不謹慎かもしれねぇけど、反応しちまうもんは仕方ねぇ。が、自分が女の泣き顔に欲情する変態だったなんて、できれば知りたくなかった。
ふと、よぎったのは違和感。
なんかおかしい。俺は何か、大切なことを忘れてやしねえか?
急に黙り込んだ俺に不安になったのか、日野は恐る恐るという風に声をかけてきた。
「もしかして、まだ痛い?」
「ああ、いや……って、ああ!」
急に大声で叫んだ俺にびっくりしたのか、日野は座ったまま飛び上がった。器用だな。
って、今はそれどころじゃないんだよ。わかった、違和感の正体が。
「喋れてんじゃねえか、俺!」
改めて自分の体を確認してみる。
そこにあったのは、17年間毎日見てきた俺の体だった。ありえないほどの剛毛も生えてないし、爪も伸びてない普通の人間の手足。鏡がないからわかんねぇけど、触ってみた感じじゃ顔も戻ってるっぽい。少なくとも、あの顔面を埋め尽くしてた毛はなかった。
「日野。俺、人間……だよな?」
「え、あぁ、うん。そうだね、人間だね」
日野に確認を取り、ガッツポーズを決める。
なんだかわかんねぇけど戻れた。てことは、後は日野だけだ。
覚悟を決めて日野を見ると丁度目が合った。どうやら向こうも俺に話があるらしい。日野の正面に腰を下ろすと、早速本題を切り出した。
※ ※ ※ ※ ※
端的に言うと、日野の話はかなり荒唐無稽だった。
普通だったら到底信じらんねぇ、ありえない話。今夜の経験がなかったら、俺は絶対信じてなかった。それくらい、ありえない話だった。
日野は吸血鬼――いや、正確には吸血鬼の末裔とか。
日野は力を失くした一族の中で、一人だけ運悪く先祖返りになっちまったらしい。普段はほとんど人間と変わらねぇが、満月の日だけは――特に夜は――吸血鬼の性質が強く出てしまい、力が制御できなくなってしまう。そうやって暴走したのが、金色の目をしたもう一人の日野。
「本当にごめんなさい。いつもはなんとかやり過ごせてたんだけど……。今回は真神くんの魔力に酔っちゃったみたいで、全然制御できなくなっちゃったの」
「いや、俺の方こそ助かったよ。あんな姿のまま戻れなくなってたら、シャレになんなかったからな」
そう。俺をあの化け物の姿から戻してくれたのは、日野だった。
日野が言うには、どうやら俺は狼男ってやつらしい。自分でも未だに信じらんねぇけど、実際見ちまったし経験しちまったからな。信じるしかねぇ。とりあえず家帰ったら母さん問い詰めてやる。あいつ、絶対なんか知ってんだろ。
そんでなんでか知らんが今夜、俺は狼男として覚醒しちまった。で、そん時俺から出た魔力ってやつに引き寄せられた日野が俺を襲った、と。でも、日野が血と一緒に俺の魔力を吸ってくれたおかげで俺は元に戻れたんだから、日野様様だ。
「あの、こんなことしておいて図々しいと言われるのは承知でお願いするんだけど……」
日野はもじもじと何か言いにくそうにしている。一体何を言おうとしてるんだ?
しばらく口を開いたり閉じたりを繰り返していたかと思うと、いきなり土下座してきた。
「お願いします! どうか真神くんの血を、定期的に吸わせてください‼」
「はぁ⁉ って、ちょっ、やめろって! いいからとりあえず顔上げろ」
「お願いします! 私、もう真神くん以外、無理なの!!」
な、なんつーこと言うんだ、こいつは。これじゃまるで告白されてるみてえじゃねえか。
やっべ、なんかすっげぇドキドキしてきた。
「わかった、わかったから。俺の血でいいならやるから、だから――」
俺の返事を聞いた瞬間、日野はめちゃくちゃ嬉しそうな顔で「ありがとう」と何度も言いながら俺の手をぶんぶんと振り回した。
「でもよ、なんで俺以外は無理なんだ?」
「私はね、血を吸うっていうより魔力を吸ってるの。でも普通の人間は魔力なんてほとんど持ってないから、私の吸血衝動はなかなか満たせない。もしも完全に抑えるんだとしたら、それこそ何人も襲わなきゃならない。でも真神くんなら、一噛みでお腹いっぱいになれるの」
少しでも期待して聞いた俺が馬鹿だった。だよな。こんな子が俺に惚れたとかいう理由はねぇよな。でもまあ、他のヤツの血を吸うって言われるよりゃましか。……って、なんだ? これじゃまるで――
「というわけで、お世話になります。これからよろしくね、真神くん」
「伊織でいいよ。よろしくな、日野」
「じゃあ私も苑眞でいいよ」
そう言って笑うと、苑眞は親愛の証として手を差し出してきた。だから今は、俺も親愛を込めてその手を握り返す。
今はそれでいい。
俺もまだよくわかんねぇから。
でもいつか、もしこの気持ちがもっと確かなものになったら――
「おう。これからよろしくな、苑眞」
そん時は、追って、追って、追いつめて。
隙を見せたら飛びついて。
「伊織……何かよからぬこと企んでない? 今、すっごい悪そうな顔してるよ」
「うっせぇ。凶悪なツラは元々だっつーの」
不審げに俺を見上げてくる苑眞。そんな彼女に意地悪くにやりと笑う。
満月の下、握手を交わす俺たちは、まだ友達とも言いきれないようなあやふやな関係。
「変なこと考えてたらブッ飛ばすからね。私の力、知ってるでしょ?」
「へいへい。気ぃつけるよ」
でも、先に捕らえたのはお前の方なんだからな。
「んじゃ、帰るとすっか。送ってってやるから家教えろ」
「ノーサンキューです。この狼さん、なんか危なそうだから」
こうやってじゃれあいながら歩くのも悪かないけど、
「そうか、残念だな。俺、次の満月には献血行ってくる」
「いいですよーだ。私が吸うのは魔力だもん! ……ま、でも仕方ないから、送らせてあげる。ただ、送り狼にはならないでよ」
「なるか、バーカ」
「バカって言った方がバカなんですー」
俺は欲張りだから、もっといろんなお前を見てみたい。
知って、触れて、いつか――
その後、女の子を背中に乗せた大きな犬が、満月の夜に度々目撃されるようになったとか。
ぷるんと柔らかそうな唇から切な気に零れ落ちる熱い吐息。長い睫毛に縁取られた大きな琥珀色の瞳は金色に輝き、ふっくらとした頬は上気して薄桃色に染まっていた。
妖しげに輝く満月を背にした彼女はとても蠱惑的で、そして絶対的だった。俺は蛇に睨まれた蛙のように身動き一つできず、ゆっくりと近づいてくる彼女のやたらきれいな顔をただぼうっと眺めていた。
色素の薄い、瞳と同じ琥珀色の柔らかな髪がふわりと俺の顔をなでていく。シャンプーの香りだろうか、甘い匂いが鼻孔をくすぐった。
そして耳元におとされたのは、蜂蜜のようなとろりとした甘い囁き。
「ちょうだい、あなたの全部を」
※ ※ ※ ※ ※
雑踏を歩けば俺の前にだけ道ができ、泣く子は俺を見てさらに泣き叫び、犬はしっぽを丸め一目散に逃げていく。だってのに、ガラの悪い奴らだけはなぜかやたらと寄ってくる。それがあまりに鬱陶しいんで全員返り討ちにしてたら、いつの間にか『千疋高の狂犬』なんて恥ずかしいあだ名を付けられていた。
不本意だ。ものすっっっごく、不本意だ。
そもそも、俺から手を出したことなんて一回もない。それなのに毎回毎回、わらわら湧いてきてはアホみたいに絡んできやがって。本当にどっから湧いてきやがるんだよ、こいつらは。
「くそっ……! なんで俺の周りには、こんな野郎どもしか寄ってこねえんだよ‼」
返り討ちにしたバカどもの山のてっぺんで、俺は腹の底からため息を吐き出す。
もう嫌だ。毎日毎日、なんで俺はこんなバカどもの相手をしなけりゃならないんだ? 俺、何か悪いことしたか? ちょっと人より見た目がいかついだけじゃねえか。
だいたい俺だって、好きでこんなにでかくなったわけじゃねえし。仕方ねえだろ、中一の時にゃもう180越えちまってたんだよ。最近やっと190で止まったんだぞ。
それと、三白眼で目つき悪いのは生まれつきのもんだ! ガン飛ばしてるわけじゃねぇ‼ 日本人じゃあんま見ねえこの琥珀色の目だって生まれつきなんだから仕方ねえだろうが。
なのになんで毎日毎日、俺はこんなバカどもとどつきあいしなきゃなんねぇんだよ!
この真神伊織、これまでお天道様に顔向け出来ねえようなこたぁ一切やっちゃいねえ。授業だってサボったことねえし、成績だって別に悪かねえ。煙草や酒はもちろん、女にだって手を出したことねえしな!
「こんな野郎どもとどつきあうより、俺はかわいい女の子とお付きあいしてぇんだよ!!」
※ ※ ※ ※ ※
最近、やたら視線を感じる。
まあ、それなりに有名人になっちまってるんで、見られるのは日常茶飯事っちゃ日常茶飯事なんだが……ただ、なんつーか最近感じる視線は、そういうのとはまた違うっつーか。
――またか!
例の視線を感じて即座に振り返ると、そこにいたのはいつもの女。慌てて目を逸らしやがったが、間違いなく今も俺のことを見てた。
日野 苑眞
視線を感じて振り返ると、いつもこいつがいる。で、俺に気づかれるとソッコー逃げる。一体なんだってんだよ!
「よっ、この色男」
この完全に人をおちょくってるムカつく声、見なくてもわかる。
「うるせえ、バカ信」
葛葉忠信。
小学校の頃からの腐れ縁で、唯一初対面から俺に普通に接してきた変わりもん。
「えー。でも日野ってさ、いっつもお前のこと見てんじゃん。アレ、絶対お前に気ぃあるんだって!」
「はぁ⁉ あるわけねえだろ。バカじゃねえの、オマエ」
俺の大声に周りのやつらが一斉に飛び退いた。さっきまであんなに賑やかだった昼休みの廊下が一転、試験中のような静けさに。
そんな中、空気を読まない忠信は口をとがらせながら文句を言い始めた。
「なんでだよ、あるわけなくないだろ。わかってないのは伊織の方だよ。……よし、わかった」
何がわかったのか、忠信は突然走り出した。
――激しく嫌な予感しかしねえ‼
俺はすぐに忠信の後を追いかけたが、やつとの距離はまったく縮まらない。くそっ、あいつ足だけは無駄に早えんだよな、畜生!
「待てやゴラァァァァァ‼」
俺が怒号をあげた瞬間、忠信まで一直線に道が出来た。壁際から送られてくる恐怖におののく視線が多少痛いが、今はそんなこと気にしてる場合じゃねえ。とにかく、今はあのバカを捕まえる方が重要だ。
やっとのことで忠信に追いつくと、ヤツはちょうど日野に話しかけるところだった。
「日野さんさぁ、伊織のこといっつも見てるよね。もしかしてあいつのこと、好きなの?」
アホか‼ 何聞いてくれてんだテメエは!
即座に忠信の後頭部へ一発入れて黙らせ、日野を見た。
ニキビなんて無縁そうな色白の肌に、薄茶色の柔らかそうな髪とやたらでかい目。まつげも長くてバサバサだ。そんで不安そうに俺を見上げてくるその姿は、なんつうか小動物《ハムスター》みてえで。庇護欲ってやつを無性に刺激される。さすが学校一の美少女。
あんなむさくるしいバカどもじゃなくて、こういう美少女に追っかけられてえ……なんてアホなことを考えてたら、その目の前の美少女が震えながら口をぱくぱくさせ始めた。
「あの……わ、私、その……」
やべ、ついガン見しちまった。おいおい、日野、涙目になってんじゃねえか。これ、絶対睨んだって思われただろ。クソッ、またやっちまった。
「ち、違う! 今のは睨んでたわけじゃねえ‼」
俺のバカでかい声に日野の肩がびくりと揺れた。しかもでっかい目には、今にも零れ落ちそうなくらい涙がたまってる。
「いや、だから、その……」
完全にお手上げだ。バカども相手なら殴って黙らせるんだが、女相手だとどうしていいかわかんねえ。
「痛たたた……あのなぁ、いきなり殴ることないだろ。いいか伊織、人には言葉という便利なものがあってだな」
後頭部をさすりながら立ちあがったのはこの状況を作り出した元凶、忠信。
そうだ。そもそもこいつがわけわかんねぇこと言いださなきゃ、こんなことにならなかったんだ。毎度毎度毎度、なんでこいつはわざわざ面倒事を作り出すんだ?
「うるせえ! いいから教室帰んぞ。昼休み終わっちまうだろうが」
俺は忠信の襟首を掴むと、その場から逃げだすように歩き出した――
「待って!」
はずだった。
のに、なぜか手首を掴まれてた。日野に。しかもがっちりと。ビクともしねぇ。
「そ、その……実は、君に話したいことが……って、えぇ⁉」
「うわっ、伊織⁉ ちょっ、お前どうしたんだよ。鼻血、鼻血!」
忠信の声で慌てて鼻の下に手を当ててみると、確かにぬるっとした感触がして。
おいおい、嘘だろ……。高校生にもなって、女に手ぇ握られただけで鼻血って。そりゃありえねぇだろ、俺。
慌てて拳で鼻をこすったその時、突如謎の浮遊感が俺を襲った。
「…………は?」
そしてなぜか、至近距離から日野に見下ろされていた。
おかしい。ついさっきまでは俺が見下ろしてたはずなのに、なんで今、しかもこんな近くから俺が見下ろされてんだ?
「このまま保健室行くね」
いや、待て待て待て! なんだこの状況⁉
なんでこんな華奢でいかにも女の子な日野が、俺みたいなごっつい大男を“お姫様抱っこ”で軽々と抱えてんだ⁉
「ちょっ、下ろせ! いや、すみません、下ろしてください‼」
「大丈夫。私こう見えても、けっこう力持ちだから」
そういう問題じゃねぇ! 違うんだ、これは俺の男の沽券ってやつの問題なんだ‼
「頼む、下ろしてくれぇぇぇぇぇ‼」
人生初、女子にお姫様抱っこをされて保健室に連れていかれた。
※ ※ ※ ※
そして今、俺と日野は保健室にいた。
そんでなんでか間が悪いことに、先生がいねぇときた。どこ行きやがった。なんで肝心な時にいねぇんだよ!
心の中で先生への文句を並べていると、ベッドがぎしっと軋んだ。見ると、なぜか日野がベッドに腰掛けてこちらを見ている。光の角度かなんかなのか、いつもは琥珀色の日野の目が金色に見えた。
そういやこいつも俺と同じ、珍しい目の色だったな。
「先生、戻ってこないね」
そう言いながら、なぜか日野はベッドに上がってきた。そして四つん這いになって、じりじりと俺の方に近づいてくる。ちなみに俺はといえば、気圧されてただただ後退るのみ。
「あ、ああ。じゃあ、鼻血も止まったことだし、俺はこれで……」
迫りくる日野から逃げようとベッドから降りようとした瞬間、目の前を白く細い腕に阻まれた。
「どこ、行くの?」
ベッドの上――背中には壁、脚の上には日野。なんだ? 俺は今、いったいどういう状況なんだ? なんで俺は、ベッドの上で日野に壁ドンされてんだ⁉
「だーめ。逃がしてなんてあげない」
これ、普通は男と女の位置逆じゃねぇの? だいたいさっきみたいなお姫様抱っこだって、男の俺はする方で、断じてされる方じゃねえ!
追い詰められて焦る俺とは対照的に、日野は余裕の笑みを浮かべていた。いや、余裕っつーか、獲物を前にした狼っつーか……
くすりと笑うと、日野はいきなりぐっと顔を近づけてきた。
「私ね、もう……我慢、できない」
何を? と、聞きたいのに。日野の甘い香りが、俺の脳髄を麻痺させる。
「だから、ちょうだい」
耳元で囁かれる甘い声に、俺の本能が支配される。押し付けられた柔らかい感触が、首にかかる湿った温かな吐息が、俺の体の自由を奪っていく。
「あなたの――」
「いーおり…………って、え?」
乱入者の登場に日野の動きが止まった。
ナイスタイミング、忠信! お前の空気の読めなさと間の悪さは天下一品だ‼ 今回だけはマジで助かった。
「あれ? 私、何して…………って、え?」
きょとんとした日野と、鼻と鼻がぶつかりそうなほどの超至近距離で目があった。
そして見つめ合うこと数秒――――次の瞬間、保健室には絹を裂くような悲鳴ってやつと、ばっちぃぃんという大きな音が響き渡った。
結局あの後、日野は半泣きで飛び出していった。
いやいや、泣きたいのは俺の方だ。これ、絶対にろくでもない噂が流れるやつだろ。で、俺の恥ずかしい二つ名は、さらに恥ずかしい名前にレベルアップするかもしれない。
「学校の中で堂々とエロいことしようとするなんて……お母さん、そんな子に育てた覚えありません!」
「うるせえ黙れバカ信。お前に育てられた記憶なんざ微塵もねえ」
睨みつけてやったが、やつはそんな俺の視線なんぞ気にとめることもなく好き勝手喋り続ける。
「しっかし意外だったなぁ。おとなしそうに見えて、日野さんってがっつり肉食系だったんだ。まさか千疋高の狂犬を襲う女子がいるなんて思わんかった。いやいや、本当いいもん見せてもらったよ。顔真っ赤にして壁ドンされてる乙女な伊織を見られるなん――イテッ」
ぺらぺらとうるさい忠信の頭を軽くはたくと、真っ赤な手形がついた左頬をさする。
しっかし、どうしてくれんだよ、これ。こんな顔で教室なんて戻れねぇだろうが。なんだったんだよ、あの怪力女。意味わかんねぇ。
さっきまでの嵐のみてぇな一連の出来事を改めて思い起こしてみると段々と腹が立ってきた。これ、俺の方が完全に被害者じゃねえか。
壁にかかっている時計を見ると、もう五時間目がとっくに始まっている時間だった。
今更授業に出る気にもなれず、とりあえずベッドの上であぐらをかく。不機嫌丸出しで頬杖をつく俺の前で、忠信はまた軽口をたたき始めた。
「でさぁ、結局のとこどうなのよ。さっきの雰囲気だとちゅーくらいはしたの?」
「するわけねぇだろうが! だいたいなぁ、あの女とは今日初めて話したんだぞ。いきなりそんなことするかっつーの」
忠信のアホみたいな質問に思いっきり動揺した俺の声は、我ながら悲しいくらい裏返っていた。
「だよねぇ。伊織ってばそんな野獣みたいな見た目してるくせに、中身は夢見る乙女顔負けの純情奥手さんだもんな。むこうはがっつり肉食系だったみたいだけど」
「うっせぇわ‼ ほんとムカつくな、お前」
ベッド脇のパイプ椅子に座っていた忠信の頭を抱え込むと、頭のてっぺんを拳でごりごりと圧迫してやった。ヤツはそれに大げさな悲鳴をあげ「ギブアップ」とか叫んでいたが、無視して気のすむまで制裁を与えてやった。
しばらくして解放してやると、忠信は頭をさすりながら涙目で恨みがましくねめつけてきやがった。自業自得だっつの。
「俺の繊細な頭が壊れたらどうしてくれんだよ。って、まあいいや。でもさぁ、あんだけ熱烈に迫ってきたくらいなんだから、やっぱあの子、お前のこと好きなんじゃね?」
何がなんでも日野俺好き説を推してくる忠信。俺はため息を吐き出した後、頭を抱えた。
好き? 学校一の美少女と名高い日野が、この俺を?
女に逃げられ避けられ泣かれることはあっても、好意を向けられたことなんて一度もない。そもそも今までの人生で女となんて会話さえろくにしたことねえのに、いきなりそんなこと言われて信じられるかっての。
そもそも本人の口から好きとか、そういう言葉聞いてねぇしな。我慢できないって言われただけだ。
そういやあの時、日野は俺の何に我慢ならなかったんだ? いや、その前になんか話したいことがあるって言ってたような……
「さっぱりわかんねえ」
そんな俺の呟きを耳聡く拾い上げた忠信は、「だから俺が聞いてやろうとしたのに」と文句を言ってきやがった。だから余計なことすんなっての。
「いいか、伊織。あんなストライクゾーンがずれてる子逃したら、お前この先一生彼女なんてできないかもしれないんだぞ」
「一般のストライクゾーンから外れてて悪かったな。あと俺に彼女が出来ないかどうかなんてわかんねぇだろうが。お前、本当にムカつくな」
「俺は嘘がつけないだけなの。そもそも目が合っただけで女子どもに逃げられるような凶暴なツラなんだから、出来る可能性の方が圧倒的に少ないだろうが。とにかく! 放課後、今度こそ日野ちゃん捕まえるぞ」
こうなった忠信はもはや何を言っても聞かない。しばらく時間をおかねぇと、今は何を言っても無駄だろう。もうどうにでもなれって感じで盛大にため息を吐き出した。
※ ※ ※ ※ ※
五時間目が終わる頃、やっと保健の先生が戻ってきた。
なんでも腹を壊してトイレにこもってたとか。緊急事態だったらしく、戻ってくるなり平謝りしてきた。そのあまりの平身低頭ぶりにいたたまれなくなり、頬の手当てをしてもらう前に保健室から逃げ出してきてしまった。
そして今――
教室に戻った俺の顔には、ちらちらと窺うような視線が教室のあちらこちらから投げかけられていた。
昼休みに学校一の強面男が学校一の美少女にいきなり絡んだかと思えば、なぜか鼻血を出しながらその美少女にお姫様抱っこされ保健室に運ばれ、挙句頬を腫らせて教室に戻ってきた。
そりゃ気にすんなって方が無理だろう。だからクラスの奴らの気持ちもわからんでもない……が、正直うぜぇ。果てしなくうぜぇ。
なんで、とりあえずホームルームが終わると同時に教室を飛び出した。
クラスの奴ら、たぶん好き勝手に喋ってんだろな。ま、今更俺の評判なんかどうでもいいけどよ。ただ、日野には悪《わり》ぃことしちまったとは思う。そもそも俺たちが関わんなきゃ変な噂がたつこともなかったんだから。
「伊織! 日野さん、どこで待ち伏せしようか?」
俺の後ろを意気揚々とついてきた忠信は、隣に並ぶと目をキラキラさせて話しかけてきた。そんな生き生きとした悪友の姿に深いため息しか出ねぇ。
「忠信。もうこれ以上、日野に関わるのはやめよう。ただでさえ日野は、あの見た目のせいで注目浴びやすいんだ。ここでまた俺が顔出したら、おさまる噂もおさまんなくなる」
「えー、でもさぁ」
不満気な忠信の言葉に被せるように「頼む」と一言えば、ヤツは少し困ったような顔をしてから「……わかった」と了承してくれた。なんだかんだでこいつは、俺の本気の頼みは断らない。基本的にはいいヤツなんだよな。
俺は、日野のことを傷つけたくなかった。
同病相憐れむって言ったらあいつに失礼かもしれないが、たぶんそんな感じだと思う。俺もあいつも、望むと望まざるとにかかわらず、常に人から注目を浴びるタイプの人間だ。
だから噂されるのには慣れてる。でもだからって、それに傷つかないわけじゃない。俺たちにだって心はある。ただ慣れて、我慢して、やり過ごしているだけだ。
そんなことを考えながら歩いていたら、小さな影が突然俺たちの前に立ち塞がった。
「君と……その、ふ、二人きりで…………話したいことがあるの!」
ここは校門だ。当然周りには大勢の帰宅途中の生徒がいた。
そんな中で大声でそんなことを言えば、注目されるに決まっている。思わず頭を抱えてしゃがみこんだ俺は悪くない。
さっきまでの俺の気遣いは一体なんだったんだよ! これじゃ一人で勝手にシンパシー感じてた俺がバカみてえじゃねえか‼
目の前で不思議そうな顔をして立っている日野は、周囲の大勢の視線にさらされながらもそれらを全く気した様子がない。こいつ、心臓に毛でも生えてんじゃねえか?
ぽんっと、誰かの手が肩に置かれた。見上げれば、そこには満面の笑みの忠信。
「グッドラック」
それだけ言い残すとヤツは俺の制止の声も聞かず、颯爽と去っていった。そして残ったのは、目の前でもじもじする日野と興味津々の野次馬。
突き刺さる視線にいたたまれなくなった俺は勢いよく立ちあがると、そのまま日野の手を掴んで逃げるように学校を後にした。
しばらく歩いたところで、後ろから「あっ」という小さな声が聞こえた。振り向くと、まさに日野が転ぶ瞬間。
「危ねぇ!」
とっさに掴んでいた日野の手を思いきり引っ張り上げちまった。間一髪で日野が転ぶのは防げた。防げたんだが……
今、俺の目の前には、ぽかんとした日野の顔がある。
普通ならありえない。190ある俺に対して、日野は精々が160ってとこだ。だから視線が同じ高さになるなんてこと、相手が台に乗っているとかじゃなきゃありえねぇ。なのに今、俺と日野の視線は同じ高さにある。
「えーと……下ろしてくれると嬉しいんだけどな」
日野は困ったような笑みを浮かべてた。
慌てた俺が勢いよく腕を上げちまったせいで、日野は宙吊り状態になっていた。片腕を掴まれたまま困ったように笑う彼女を見て、俺はようやく我に返った。大慌てで彼女をを下ろすと、掴んでいた手を離す。
「わ、悪い! 腕、つーか肩も大丈夫か?」
苦笑いしながら手首をさする日野に、俺は勢いよく90度に腰を折って謝罪した。
「悪かった。力加減も考えねぇで……」
「えっと、私は大丈夫だから。ねっ、だから顔、上げて」
後頭部に日野の焦ったような声が降り注ぐ。だが俺は自分の馬鹿さ加減が許せなくて、顔を上げることができなかった。悪気がなかったからって、世の中全てが許されるわけじゃねぇ。
「あのね、私、こう見えてもかなり丈夫なんだよ。それに今のは、私を助けようとしてくれただけでしょ? 私が転ばなかったのは君のおかげだよ。ね、だから顔上げて。それにね……」
日野はなんでか、困ったように言葉を詰まらせた。
「このままだと私たちね、いつまでも注目の的のままだよ」
日野に言われ辺りを見渡すと、今まで俺たちを見ていたであろう野次馬が俺の顔を見て一斉に目をそらした。そして、蜘蛛の子を散らすように逃げてった。
「ね? とりあえずさ、どっかお店にでも入ろうよ」
「あ、ああ。でもよ、本当に手ぇ大丈夫なのか? 俺、さっき結構強く握っちまったから……。なぁ、ほんとに無理とかすんなよ。なんなら今から病院行くか?」
心配する俺をよそに、日野は何がおかしいのかくすくすと笑いだした。
「本当に大丈夫だって。君、見かけによらず優しいよね。……それにさ、私もさっき君のこと叩いちゃったから。ごめんね、いきなり叩いたりなんかして」
「あ、いや……その、別に気にしちゃいねえよ。もうなんともねえしな」
実際はまだちょっと痛かったが、まさかこの状況でそんなカッコ悪いこと言えるわけねぇしな。でもそんな俺のやせ我慢はバレバレだったのか、日野は「ありがとう」って笑った。
瞬間――心臓に今まで経験したこともねぇような衝撃がきた。おかげでただ一言、「おう」って答えるのが精一杯だった。なんだこれ、なんだこれ、なんだこれ⁉
「そういえば自己紹介まだだったよね? 私は日野、日野苑眞。君――、えっと、いつまでも君じゃなんだから、名前、教えてくれると嬉しいな」
※ ※ ※ ※ ※
それから俺たちは簡単に自己紹介して、とりあえず近くにあったコーヒーショップに入ることにした。店に入った瞬間、店内の客は俺を見て顔を引きつらせた。と、ここまではまあ、いつも通りだった。
ただ、今日は隣に日野がいた。たったそれだけのことだったのに……
あれだけ俺に注がれていた視線が、一瞬で全部日野に持ってかれた。男女問わず、あっという間に魅了していく。それはちょっと怖いくらいだった。
無数の視線の中、日野はなんのためらいもなく俺に話しかける。けど、日野が俺に笑いかけるたび、周りからちくちくとした敵意のようなものが飛んできて。
もしかしてこれ、嫉妬ってやつか? そう思ったら、なんかちょっとした優越感がわいてきた。
飲み物を受け取って、空いている席に座った。
相変わらず周りからは窺うような視線がちらちらと投げかけられていたが、日野は全く気にしてない。そんな落ち着かない雰囲気の中、日野は突然変なことを言いだした。
「真神くん。君さ……吸血鬼とか狼男とか、いわゆる怪物の存在って、信じる?」
俺には日野の質問の意図が掴めなかったが、とりあえず正直に首を横に振った。
この世に化け物がいるのを信じてるかってことだろ? そんなもん、普通は信じねぇだろ。いるって答えんなら、そいつはとんでもないロマンチストだと思う。
日野は俺の答えにひどく落胆した様子を見せると、しょんぼりとうつむいてしまった。けど、しばらくしたらまた顔を上げて、「絶対内緒にするから、正直に言って」と迫ってきた。
「いや、だから……日野が俺に何を求めてんのか知んねえけど、俺は化け物の存在なんて信じちゃいねぇし」
「でも真神くん、君は…………」
日野は何かを言いかけて、途中で口を閉じた。なんでか、今にも泣きだしそうな顔で。
そんな日野になんて言えばいいのかわかんなくて、結局その日は気まずい雰囲気のまま別れることになった。
※ ※ ※ ※ ※
「辛気臭いわよ、伊織。あんたねぇ、ため息つくのかごはん食べるのか、どっちかにしなさいよ」
向かいに座っている母親は鼻風邪をひいたらしく、さっきから派手に鼻をかんでいる。そんでその合間に鬱陶しそうな目で俺を見てた。どうやら自分でも気づかないうちに何回もため息をついてたらしい。
でもよ、仕方ねえだろ。日野《あいつ》の顔が頭ん中よぎるたび、なんかこうもやもやして、自分でも気づかねぇうちにため息ついちまうんだよ。
「悪ぃ。飯、もういいや」
「え⁉ だってあんた、まだどんぶり3杯しか食べてないじゃない。どうしたの? バカのくせにあたしの風邪うつっちゃったの?」
「うるせえな! 俺だって食欲ない時くらいあんだよ。んじゃ、ごちそうさん」
驚く母親を食卓に残し、俺は食器を流しに置くと部屋に戻った。
部屋に戻り、そのままベッドに倒れこむ。
目を閉じると浮かんでくるのは、最後に見た泣きそうな日野の顔。
やべぇ。なんかよくわかんねぇけど、すっげーイライラする。イライラ? そわそわ? なんつーか、とにかく落ち着かねぇ。しかも気にしないようにすればするほど、より鮮明にあいつの顔が浮かんでくる。
結局じっとしてられなくなって、のろのろと起き上がるとベッドに腰かけなおした。ふと顔を上げれば窓の向こう、すっかり暗くなった空には満月が浮かんでいた。
「――ぅあ⁉」
瞬間、心臓が大きく跳ねあがった。
わけわかんねぇ衝動が湧き上がってくる。どうしていいかわからなくて、かきむしるように胸を抑えてベッドに倒れ込んだ。けど謎の動悸も衝動も治まるどころか、どんどん激しくなっていく。
息が出来ない。体が燃えるみてぇに熱くて、しかもめちゃくちゃ痛ぇ。骨が引き伸ばされてるような縮められてるような、ぎしぎし軋む感触が気持ちわりぃ!
熱い、痛い……心臓が、破裂しそうだ‼
やっべぇ。これ、俺、死ぬかも?
さすがに生命の危機を感じて、下にいる母親に助けを求めるための叫びをあげた。
「アォーーーン」
…………は?
って、なんで俺の部屋の中で犬の遠吠えが⁉ いや、待て待て待て! その前に今、俺は母さんを呼んだはずだ。なんでその俺の声がしなくて、いないはずの犬の遠吠えが聞こえんだ?
ベッドから跳ね起きて慌てて部屋の中を見る。
犬なんていねぇ。いるわけねえんだよ。じゃあ、今の犬の声はどっから聞こえたんだ? そもそも、この部屋には俺しかいない…………俺《・》、しか。
そんなわけあるかって思いながら、恐る恐る自分の手を見る。
「ガウォ⁉」
そこにあったのは、明らかに人間じゃねぇ毛むくじゃらの手。その変わり果てた手で恐る恐る自分の顔を触ってみると……
感じたのは、ごわごわとした感触。最初は手の方のもさもさ感かとも思ったが、そっちとはあきらかに感触が全然違う。それは、俺が俺じゃないナニかになっているという、絶対に認めたくない事実を突きつけてきた。
立ち上がり、窓を見る。そこに映っていた姿は、まるで――
オオカミ……おと、こ?
その姿はフィクションではお馴染みのモンスター――狼男――だった。
茶色の毛に覆われた筋肉質な腕や足、指先には鋭い爪。しかもさっきからケツの辺りがもぞもぞするんで手を突っ込んでみたら、ご丁寧に尻尾まで出てきやがった!
ただこれ、顔はなんか犬っぽくねぇか? 耳も小せぇし、俺の知ってるオオカミとは若干違う気がするんだが。
って、どうすりゃいいんだよ、コレ‼
自分の身に起きたありえない出来事に一人混乱していると、いきなり部屋のドアが開いた。
「伊織! あんたさっきから何一人でバタバタ騒いで……ん、の⁉」
勢いよく怒鳴りこんできたのは、さっきまで下に居たはずの母親だった。
ババア、俺の部屋に入る時はノックしろっていつも言ってんだろうが! って、今はそんな場合じゃねぇ。どうすりゃいいんだ、この最悪な状況。
「ちょっ、あんた……」
母さんがなんか言いかけていたがその先の言葉を聞くのが怖くて、気がついた時には窓から飛び出してた。ここ、二階だったけどな。
てっきり庭に落ちるんだと思ってた俺の体は、なぜか空を飛んでいた。
いや、正確には跳んでた、だ。二階の自分の部屋から飛び出した俺は下に落ちることなく、道を挟んだ向かいの家の屋根まで跳んでた。信じらんねぇ……こんなの、人間の跳躍力じゃねえ。
とりあえず母さんから逃げるように、近所の家の屋根の上を駆け抜けていった。この先どうすりゃいいのかわかんなかったけど、とにかく今は立ち止まってられなかった。
そして気がつくと、学校の屋上にいた。
なんで、こんなことに……
空に浮かぶ満月を見上げ、あらん限りの声をあげる。
けど響き渡るのは、物悲しい遠吠えだけ。どんなに喋りたくても、もう俺の口からは人の言葉が出てくることはないのかもしれない。
って、一体どうすりゃいいんだよ! もしこの先、ずっとこのままの姿なんてことになっちまったら……
脳裏をよぎった恐ろしい可能性を振り払うように頭を振って、再び夜空を見上げた。
どうにかして人間の姿に戻らなきゃならない。でもどうやって? この姿になった原因さえわかんねぇのに。一体何があって、どんな理由で俺はこんな姿になったんだ?
今朝までは普通だった。ほんとになんの変哲もない、いつも通りの朝だった。じゃあ、なんだ? 変わったことってぇと…………
――日野 苑眞。
あいつと関わりを持ったこと。
確かに昼休みからは、いつもとはかけ離れた時間だった。あいつと知り合った途端、次々とありえないことが起きて。そのせいなのか常に気持ちが落ち着かねぇしで、本当に散々だった。もしかしてこうなった原因の一端は、日野に関係あるんじゃねえか? それにあいつ、最後なんか変なこと言ってたよな。
日野に会う。
とりあえずの目的は決まったものの、問題はどうやってそれを決行するかだ。まず、俺はあいつの家を知らねぇ。それにこの姿で行ったって会話できねえし、第一逃げられるだろ。悲鳴でもあげられて、人なんて呼ばれたら最悪だ。くそっ、本気でどうすりゃいいんだよ!
誰もいない学校の屋上で、一人頭を抱えるしかなかった。
なんの解決策も浮かばずひたすらコンクリ床を見つめていた俺の灰色一色の視界に、すっと差し込んできたのは黒い影。反射的に上げた視線の先に飛び込んできたのは、さっきまで誰もいなかった場所にたたずむ小柄なシルエット。
月明かりを背に受け、俺を見つめるその影は……今まさに会いたいと願っていた人物だった。
「が……」
そうだった。俺、今喋れねぇんだった。どうする? あ、筆談なら……って、書くもんがねぇ! どうしようもねぇ‼
「やっぱり」
焦る俺とは対照的に、目の前に立つ影――日野は笑ってた。
パステルカラーのもこもこしたパーカー、その揃いの短パンからのぞくのはすらりとした健康的な脚。これは……正直、目のやり場に困る。
でも、なんでこんな時間、こんな場所に日野が? しかもこいつ、これ、明らかに部屋着じゃねぇか。靴も履いてねえし。そもそも、さっきまでここには俺しかいなかったはず。
それに……こんな化け物を前にして、怯えるどころか笑ってるって、ちょっとどころじゃなくおかしくねぇか?
「ほら、やっぱり。ねえ、なんでさっきは教えてくれなかったの?」
日野は意味のわかんねえことを呟きながら、ゆっくりと近づいてきた。この雰囲気、保健室の時の日野と同じ。そう思った直後、背中を悪寒がものすごい勢いで走り抜けた。
気づくと俺の体はいつの間にか身構えるような体勢になってて、口からは低いうなり声が漏れていた。
「警戒しちゃって……ふふ、かーわいい。大丈夫、怖くないから。ね?」
日野が一歩近づく。俺は一歩後さがる。
でもそのじりじりとした攻防は、あっという間に終わっちまった。
後頭部と背中に痛みを感じた時には、もう日野に押し倒されていた。
あっという間に両腕を押さえつけられ、見上げることしかできない俺の上に――あいつ、乗ってきやがった! なんとか振りほどこうと身体をよじるが、あいつの細い腕は微動だにしない。
自分よりはるかに華奢で小さな相手に手も足も出ず、俺は今、人生初の敗北の危機に瀕していた。俺が焦れば焦るほど、日野は楽しそうにくすくすと笑う。
「無駄だよ。今の真神くんじゃ、私には勝てない」
ムカつくほど余裕じゃねぇか。
化け物の俺を一発で見抜くわ、見ても驚かねぇわ、信じらんねぇ怪力ふるうわ。しかもこの性格の変わりよう……もしかしてこいつ、二重人格ってやつなのか?
そんな俺の心を読んだかのように、「私のことが気になる?」と日野は笑うと、ちょこんと首をかしげた。
「いいよ、特別。君だから教えてあげる。そのかわり――」
日野は言葉の途中で急に体を強張らせると、胸を抑えて苦しみ始めた。
今こそ逃げるチャンス。そう思ったのに、なんでか俺は動けなかった。
目の前で苦しんでる女を放っておけないから? いや、違う。日野《・・》だから放っておけなかった。なんかわかんねぇけど、俺はこいつが苦しむのが嫌だって思った。
でも、どうしたら日野を助けられるかなんてわかんなくて、背中をさすってやるくらいしかできない。どうしたら日野を助けられるか、そればかり考えてたせいで気づくのが遅れた。唐突に視界がぐるりと回ると、俺は再び押し倒されていた。
「もうだめ……我慢、できない」
ぷるんと柔らかそうな唇から切な気に零れ落ちる熱い吐息。長い睫毛に縁取られた大きな琥珀色の瞳は金色に輝き、ふっくらとした頬は上気して薄桃色に染まっていた。
妖しげに輝く満月を背にした彼女はとても蠱惑的で、そして絶対的だった。俺は蛇に睨まれた蛙のように身動き一つできず、ゆっくりと近づいてくる彼女のやたらきれいな顔をただぼうっと眺めていた。
色素の薄い、瞳と同じ琥珀色の柔らかな髪がふわりと俺の顔をなでていく。シャンプーの香りだろうか、甘い匂いが鼻孔をくすぐった。
そして耳元におとされたのは、蜂蜜のようなとろりとした甘い囁き。
「ちょうだい、あなたの全部を」
次の瞬間、首筋に痛みがはしった。けど、痛かったのは一瞬。それはたいしたことなかったんだが……次がヤバかった!
なんだこれ⁉ やっべぇ、脳みそ溶ける。気持ちよすぎてやべぇ‼
本当にヤバい。体中の血が下半身の一か所に集結しつつあり、このままだと非っ常にまずいことになる。ここで日野が正気に戻ったら、今度は平手打ちなんかじゃ済まねぇ。もう二度と口きいてもらえねぇかも。あー、なんかよくわかんねぇけど、それは嫌だ!
ああ、でも気持ち良すぎて……なんかもう、なんも考えたくなくなってきた。やべぇ、これ以上もたねえ…………
いよいよ理性が溶けてなくなりそうになったその時、ようやく日野が首から離れた。同時にあのバカみてぇな気持ちよさは消えて、代わりにアホみたいな倦怠感が襲ってきた。
疲れ果てて指一本動かせない俺に、血みてぇな真っ赤な目になった日野が舌なめずりしながら顔を近づけてきた。そして一言、
「ごちそうさま」
と、やたら色っぽい囁きを投下してきやがった。そして、頬に何か柔らかいものが触れた。そのまま悪戯っぽく微笑むと、血色の目の日野は、「またね」と言い残して消えてしまった。
後に残されたのは、俺の腰にまたがったまま放心している小動物のような方の日野。
そして今、俺は新たなピンチを迎えていた。
誰もいない夜の学校の屋上で美少女と二人きり、しかも相手は俺の腰に馬乗りって……なんの試練だよ! ヤバい、ヤバいヤバいヤバい!! なんか温《あった》けぇし柔いしいい匂いするし。しかもさっきのアレの名残か、疲れてるはずなのに一か所だけ元気いっぱいなんだが⁉
これは、どかしていいんだろうか? いいよな? てか、いいに決まってる。別にヤラシイ気持ちとかで触るわけじゃないからな。あくまでもどけるために、ちょっと触るだけだからな。
心の中で一人、誰に向かってかわからない言い訳を並べながら、恐る恐る日野に手を伸ばした。本当は一言、「どいてくれ」って言えれば一番手っとり早かったんだけどな。
そうっと伸ばした俺の手が華奢な肩に触れた瞬間、日野の琥珀色の瞳に生気が戻った。
「ご、ごごご、ごめんなさい‼」
「がっ⁉」
勢いよく下げられた日野の頭は、ゴスッという鈍い音と共に俺の顔面を直撃した。
あまりの痛さに俺はおもわず鼻を押さえ悶える。しかし当然、日野にもそれなりのダメージがあったらしく、ぶつかった衝撃でのけぞりそうになった身体を片手をついて支えたらしい。しかしそれは、さらなるピンチの始まりだった。
「いったぁ……って、え?」
そう。その手をついた場所が、最悪の場所だったわけで。
しかも間の悪いことにそこは……その、ちょっと活動的になっていて。
日野の顔が見る見るうちに赤くなってく。そして日野はそうっと振り返ると、自分が手を置いた場所を見た。
「あ……や、いやぁぁぁぁ‼」
日野の絶叫と共に、俺の頬に凄まじい衝撃が襲い掛かった。
あーあ、やっと少し腫れが引いてきたってのに。こりゃ、また腫れるな。
ぐらぐらと揺れる脳みそでそんなことを考えながら、俺は意識を手放した。
※ ※ ※ ※ ※
――きて
誰かが泣いている声が聞こえた。
でも誰だ? なんかすっげえ聞き覚えがあるような気がすんだけど。
――なさい、ごめんなさい
なんで謝ってるんだ? なあ、一体何があったんだ?
――お願い。なんでもするから、だから
「目を開けて、真神くん!」
目を開けると、目の前に日野の顔があった。
なんでか知らねえが泣いてたみたいで、目が真っ赤だった。
「よかったぁ! 君が目を覚まさなかったらって、私……怖かった」
そう言うと日野は俺の腹に突っ伏して、子どもみたいにわんわん泣き出した。
え、俺か? 俺のせいなのか? つか、どうすりゃいんだ、この状況⁉
「お、おい。一体どうしたんだよ。もしかして俺、お前になんかしたのか?」
日野は泣いてるせいか言ってることが支離滅裂で、全く要領を得ない。ただ「ごめんなさい」ってのをひたすら繰り返してる。
そもそも何を謝られてるんだかがわかんねぇ。俺、女に泣きながら謝られるようなことされたのか?
「ちょっと落ち着け、日野。……すまん、いったん状況を整理させてくれ」
「うん。ごめん、迷惑、かけちゃって」
鼻声でまだ時々しゃくりあげてはいたが、ようやく泣きやんでくれた。
正直助かった。実はさっきから、なぜか日野の泣き顔を見てると微妙にムラムラしてきて困ってたんだよ。こんな時に不謹慎かもしれねぇけど、反応しちまうもんは仕方ねぇ。が、自分が女の泣き顔に欲情する変態だったなんて、できれば知りたくなかった。
ふと、よぎったのは違和感。
なんかおかしい。俺は何か、大切なことを忘れてやしねえか?
急に黙り込んだ俺に不安になったのか、日野は恐る恐るという風に声をかけてきた。
「もしかして、まだ痛い?」
「ああ、いや……って、ああ!」
急に大声で叫んだ俺にびっくりしたのか、日野は座ったまま飛び上がった。器用だな。
って、今はそれどころじゃないんだよ。わかった、違和感の正体が。
「喋れてんじゃねえか、俺!」
改めて自分の体を確認してみる。
そこにあったのは、17年間毎日見てきた俺の体だった。ありえないほどの剛毛も生えてないし、爪も伸びてない普通の人間の手足。鏡がないからわかんねぇけど、触ってみた感じじゃ顔も戻ってるっぽい。少なくとも、あの顔面を埋め尽くしてた毛はなかった。
「日野。俺、人間……だよな?」
「え、あぁ、うん。そうだね、人間だね」
日野に確認を取り、ガッツポーズを決める。
なんだかわかんねぇけど戻れた。てことは、後は日野だけだ。
覚悟を決めて日野を見ると丁度目が合った。どうやら向こうも俺に話があるらしい。日野の正面に腰を下ろすと、早速本題を切り出した。
※ ※ ※ ※ ※
端的に言うと、日野の話はかなり荒唐無稽だった。
普通だったら到底信じらんねぇ、ありえない話。今夜の経験がなかったら、俺は絶対信じてなかった。それくらい、ありえない話だった。
日野は吸血鬼――いや、正確には吸血鬼の末裔とか。
日野は力を失くした一族の中で、一人だけ運悪く先祖返りになっちまったらしい。普段はほとんど人間と変わらねぇが、満月の日だけは――特に夜は――吸血鬼の性質が強く出てしまい、力が制御できなくなってしまう。そうやって暴走したのが、金色の目をしたもう一人の日野。
「本当にごめんなさい。いつもはなんとかやり過ごせてたんだけど……。今回は真神くんの魔力に酔っちゃったみたいで、全然制御できなくなっちゃったの」
「いや、俺の方こそ助かったよ。あんな姿のまま戻れなくなってたら、シャレになんなかったからな」
そう。俺をあの化け物の姿から戻してくれたのは、日野だった。
日野が言うには、どうやら俺は狼男ってやつらしい。自分でも未だに信じらんねぇけど、実際見ちまったし経験しちまったからな。信じるしかねぇ。とりあえず家帰ったら母さん問い詰めてやる。あいつ、絶対なんか知ってんだろ。
そんでなんでか知らんが今夜、俺は狼男として覚醒しちまった。で、そん時俺から出た魔力ってやつに引き寄せられた日野が俺を襲った、と。でも、日野が血と一緒に俺の魔力を吸ってくれたおかげで俺は元に戻れたんだから、日野様様だ。
「あの、こんなことしておいて図々しいと言われるのは承知でお願いするんだけど……」
日野はもじもじと何か言いにくそうにしている。一体何を言おうとしてるんだ?
しばらく口を開いたり閉じたりを繰り返していたかと思うと、いきなり土下座してきた。
「お願いします! どうか真神くんの血を、定期的に吸わせてください‼」
「はぁ⁉ って、ちょっ、やめろって! いいからとりあえず顔上げろ」
「お願いします! 私、もう真神くん以外、無理なの!!」
な、なんつーこと言うんだ、こいつは。これじゃまるで告白されてるみてえじゃねえか。
やっべ、なんかすっげぇドキドキしてきた。
「わかった、わかったから。俺の血でいいならやるから、だから――」
俺の返事を聞いた瞬間、日野はめちゃくちゃ嬉しそうな顔で「ありがとう」と何度も言いながら俺の手をぶんぶんと振り回した。
「でもよ、なんで俺以外は無理なんだ?」
「私はね、血を吸うっていうより魔力を吸ってるの。でも普通の人間は魔力なんてほとんど持ってないから、私の吸血衝動はなかなか満たせない。もしも完全に抑えるんだとしたら、それこそ何人も襲わなきゃならない。でも真神くんなら、一噛みでお腹いっぱいになれるの」
少しでも期待して聞いた俺が馬鹿だった。だよな。こんな子が俺に惚れたとかいう理由はねぇよな。でもまあ、他のヤツの血を吸うって言われるよりゃましか。……って、なんだ? これじゃまるで――
「というわけで、お世話になります。これからよろしくね、真神くん」
「伊織でいいよ。よろしくな、日野」
「じゃあ私も苑眞でいいよ」
そう言って笑うと、苑眞は親愛の証として手を差し出してきた。だから今は、俺も親愛を込めてその手を握り返す。
今はそれでいい。
俺もまだよくわかんねぇから。
でもいつか、もしこの気持ちがもっと確かなものになったら――
「おう。これからよろしくな、苑眞」
そん時は、追って、追って、追いつめて。
隙を見せたら飛びついて。
「伊織……何かよからぬこと企んでない? 今、すっごい悪そうな顔してるよ」
「うっせぇ。凶悪なツラは元々だっつーの」
不審げに俺を見上げてくる苑眞。そんな彼女に意地悪くにやりと笑う。
満月の下、握手を交わす俺たちは、まだ友達とも言いきれないようなあやふやな関係。
「変なこと考えてたらブッ飛ばすからね。私の力、知ってるでしょ?」
「へいへい。気ぃつけるよ」
でも、先に捕らえたのはお前の方なんだからな。
「んじゃ、帰るとすっか。送ってってやるから家教えろ」
「ノーサンキューです。この狼さん、なんか危なそうだから」
こうやってじゃれあいながら歩くのも悪かないけど、
「そうか、残念だな。俺、次の満月には献血行ってくる」
「いいですよーだ。私が吸うのは魔力だもん! ……ま、でも仕方ないから、送らせてあげる。ただ、送り狼にはならないでよ」
「なるか、バーカ」
「バカって言った方がバカなんですー」
俺は欲張りだから、もっといろんなお前を見てみたい。
知って、触れて、いつか――
その後、女の子を背中に乗せた大きな犬が、満月の夜に度々目撃されるようになったとか。
応援ありがとうございます!
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