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36. それが俺だったのか?
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琴子の身もふたもない発言に、室内が沈黙に包まれた。
鴻上が頭を抱えている。琴子は項垂れるしかなかった。
「……それで、その日はそのあとナニもしないで終わったのか?」
沈黙を破ったのは鴻上だった。さすがに聞きづらいのか、声が小さい。すでに空いているらしい缶をぐしゃぐしゃと潰しながら、チラリと目線だけで琴子の顔色を伺っている。
「……はい」
琴子はさらに深々と頭を下げて、手の中の缶ビールに目を落とした。
「ちょっと待ってろ。酒、持ってくるから」
落ち込む琴子を励まそうという配慮なのか、鴻上が新しい缶を何本か抱えて運んできた。テーブルの上に並べると、その中の一本を琴子に差し出す。
今度はビールじゃなくてチューハイだった。
よく冷えている。
ストロング系のレモン味。無糖。
琴子はひんやりとしたその缶を自分の頬にあてて、羞恥で火照った肌を冷ました。しばらくそうした後で缶を開け、ごくごくと水のように流し込む。冷たいアルコールが喉をつたって体内に染み渡っていくのがわかった。
「でも! でも! でも! その後も何回か試してみたことはあるんですっ……! ただ、私が留学したり、直人くんが就職して研修で地方に行っちゃったりして、年に数回しか会えない年が続いて……。それで、そのうち、まぁいっか、みたいな感じになって、最近ではそういう雰囲気になることすらなくなって……」
「一度も思いを遂げることなく、いまに至るわけだな?」
鴻上の的確な指摘に、琴子はぶんっと勢いよく頭を縦に振ってみせた。酔いがまわってきたせいか、羞恥心が薄れるのと反対に、重かった口が滑らかになっていく。
「直人くんがすごく申し訳なさそうな顔で謝るんですよ。だけど、私、それがツラくて……。私がもっと頑張ればいいのかも、って思ったんですけど、あんまり積極的になっても、直人くんに引かれちゃうんじゃないかな、って……。それに、直人くんにとっては、私はいつまでも子供のままで、そういう対象にはなれないんじゃないかって……」
琴子はもう途中から号泣していた。ずびずびとしゃくりあげながら、それでも打ち明けずにはいられなかった。
「気にすることない。咲坂さんはなんにも悪くない。俺ならビンビンに勃ってる。一晩で三回はイケる。知ってるだろ? だから自分を責めるなよ」
琴子の頭を撫でながら鴻上が励ました。一見、下ネタのようだが、本人はいたって真面目な表情を浮かべている。鴻上が本気でフォローしてくれているらしいことに琴子は感謝するとともに申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
「ごめんなさい……それも私が悪いんです……」
琴子はガバッと身体を折り曲げると、鴻上に向かって深く首を垂れて懺悔した。
「あ? なんで謝るんだ?」
いきなり自分に向かって頭を下げ始めた琴子に鴻上が首を捻ると、
「私、栞さんに喋っちゃったんですよ……。ほんとは誰にも言うつもりなかったんですけど、なんか酔った勢いでうっかり口がすべったみたいで」
「サキちゃん、酒には気をつけた方がいいぞ。たぶん自分で思ってるほど強くないから。俺が知ってるだけでも、だいぶヤラカシてる」
鴻上の忠告に琴子は大人しく首を垂れた。
いつのまにか「サキちゃん」呼びになっていることに、酔った琴子は気づかない。
「で? 何を喋ったんだ? 栞ちゃんに」
鴻上に促されて、琴子はおぼろげな記憶を呼び起こす。
あれはもうかれこれ五年ほど前、琴子が大学四年生の頃だ。いまと同じように泥酔した琴子はそのとき隣にいた栞に泣きながら絡んだのだ。
「わ、わたしに……魅力がないんでしょうか……? だから、直人くんも……」
大学の先輩だった葉山栞はスラっとした美人で恋愛経験も豊富で誰に対してもズバズバ言うタイプの人である。琴子はそんな風に裏表のない彼女のことをけっこう頼りにしていて、直人との関係についても、ついつい包み隠さず話してしまったのだ。
「そんなことないって。もっと自信持ちなよ。サキちゃんは顔も可愛いし、胸だってあるんだし」
よしよし、と琴子の頭を撫でながら、栞が呆れたように笑っていたことを薄っすらと覚えている。
「でも、じゃあ、なんで直人くんは……その、あの、は、反応しない、んです……か?」
恥ずかしくて、だんだんと声が小さくなっていった。この時の琴子はまだ若かった。
「疲れてたんじゃない? それか、どこか悪いのかも。いずれにしろ、サキちゃんに原因はないからね、絶対に」
「そうかなぁ……?」
「そうだよ。サキちゃんから迫られれば大抵の男は喜ぶと思うよ。可愛いし、胸もあるし。間違いないよ、胸もあるし」
栞は二回言ったが、別に琴子の胸が特別大きいわけではない。せいぜい平均か、平均よりちょっと上ぐらいである。
琴子は隣に座る栞の胸元に目をやった。彼女はいわゆるモデル体型で非常にスレンダーである。そう、スレンダーなのである……頭の上から足の先まで。凹凸はない。
琴子はこのとき、他人から見たら羨ましいと思うことでも、本人にとってはコンプレックスであることもあるんだな、と思ったことを妙にはっきりと覚えている……。
話を戻そう。
そのあと、栞は琴子に向かってこう言ったのだ。
「サキちゃんはさぁ、その婚約者以外の他の男の人にも目を向けた方がいいと思うんだよねぇ。ずっとそのカレのことしか見てこなかったんでしょう? もっといろいろ試してみたほうがいいって! 私がいいひと紹介してあげるからさ」
自信に溢れた声で「任せて」と胸を叩いた栞さんの満面の笑みを、琴子は懐かしく思い出した。
「……もしかして、それが俺だったのか?」
この人はやっぱり勘がいい。
そんなことを思いながら、琴子は頷いた。
鴻上が頭を抱えている。琴子は項垂れるしかなかった。
「……それで、その日はそのあとナニもしないで終わったのか?」
沈黙を破ったのは鴻上だった。さすがに聞きづらいのか、声が小さい。すでに空いているらしい缶をぐしゃぐしゃと潰しながら、チラリと目線だけで琴子の顔色を伺っている。
「……はい」
琴子はさらに深々と頭を下げて、手の中の缶ビールに目を落とした。
「ちょっと待ってろ。酒、持ってくるから」
落ち込む琴子を励まそうという配慮なのか、鴻上が新しい缶を何本か抱えて運んできた。テーブルの上に並べると、その中の一本を琴子に差し出す。
今度はビールじゃなくてチューハイだった。
よく冷えている。
ストロング系のレモン味。無糖。
琴子はひんやりとしたその缶を自分の頬にあてて、羞恥で火照った肌を冷ました。しばらくそうした後で缶を開け、ごくごくと水のように流し込む。冷たいアルコールが喉をつたって体内に染み渡っていくのがわかった。
「でも! でも! でも! その後も何回か試してみたことはあるんですっ……! ただ、私が留学したり、直人くんが就職して研修で地方に行っちゃったりして、年に数回しか会えない年が続いて……。それで、そのうち、まぁいっか、みたいな感じになって、最近ではそういう雰囲気になることすらなくなって……」
「一度も思いを遂げることなく、いまに至るわけだな?」
鴻上の的確な指摘に、琴子はぶんっと勢いよく頭を縦に振ってみせた。酔いがまわってきたせいか、羞恥心が薄れるのと反対に、重かった口が滑らかになっていく。
「直人くんがすごく申し訳なさそうな顔で謝るんですよ。だけど、私、それがツラくて……。私がもっと頑張ればいいのかも、って思ったんですけど、あんまり積極的になっても、直人くんに引かれちゃうんじゃないかな、って……。それに、直人くんにとっては、私はいつまでも子供のままで、そういう対象にはなれないんじゃないかって……」
琴子はもう途中から号泣していた。ずびずびとしゃくりあげながら、それでも打ち明けずにはいられなかった。
「気にすることない。咲坂さんはなんにも悪くない。俺ならビンビンに勃ってる。一晩で三回はイケる。知ってるだろ? だから自分を責めるなよ」
琴子の頭を撫でながら鴻上が励ました。一見、下ネタのようだが、本人はいたって真面目な表情を浮かべている。鴻上が本気でフォローしてくれているらしいことに琴子は感謝するとともに申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
「ごめんなさい……それも私が悪いんです……」
琴子はガバッと身体を折り曲げると、鴻上に向かって深く首を垂れて懺悔した。
「あ? なんで謝るんだ?」
いきなり自分に向かって頭を下げ始めた琴子に鴻上が首を捻ると、
「私、栞さんに喋っちゃったんですよ……。ほんとは誰にも言うつもりなかったんですけど、なんか酔った勢いでうっかり口がすべったみたいで」
「サキちゃん、酒には気をつけた方がいいぞ。たぶん自分で思ってるほど強くないから。俺が知ってるだけでも、だいぶヤラカシてる」
鴻上の忠告に琴子は大人しく首を垂れた。
いつのまにか「サキちゃん」呼びになっていることに、酔った琴子は気づかない。
「で? 何を喋ったんだ? 栞ちゃんに」
鴻上に促されて、琴子はおぼろげな記憶を呼び起こす。
あれはもうかれこれ五年ほど前、琴子が大学四年生の頃だ。いまと同じように泥酔した琴子はそのとき隣にいた栞に泣きながら絡んだのだ。
「わ、わたしに……魅力がないんでしょうか……? だから、直人くんも……」
大学の先輩だった葉山栞はスラっとした美人で恋愛経験も豊富で誰に対してもズバズバ言うタイプの人である。琴子はそんな風に裏表のない彼女のことをけっこう頼りにしていて、直人との関係についても、ついつい包み隠さず話してしまったのだ。
「そんなことないって。もっと自信持ちなよ。サキちゃんは顔も可愛いし、胸だってあるんだし」
よしよし、と琴子の頭を撫でながら、栞が呆れたように笑っていたことを薄っすらと覚えている。
「でも、じゃあ、なんで直人くんは……その、あの、は、反応しない、んです……か?」
恥ずかしくて、だんだんと声が小さくなっていった。この時の琴子はまだ若かった。
「疲れてたんじゃない? それか、どこか悪いのかも。いずれにしろ、サキちゃんに原因はないからね、絶対に」
「そうかなぁ……?」
「そうだよ。サキちゃんから迫られれば大抵の男は喜ぶと思うよ。可愛いし、胸もあるし。間違いないよ、胸もあるし」
栞は二回言ったが、別に琴子の胸が特別大きいわけではない。せいぜい平均か、平均よりちょっと上ぐらいである。
琴子は隣に座る栞の胸元に目をやった。彼女はいわゆるモデル体型で非常にスレンダーである。そう、スレンダーなのである……頭の上から足の先まで。凹凸はない。
琴子はこのとき、他人から見たら羨ましいと思うことでも、本人にとってはコンプレックスであることもあるんだな、と思ったことを妙にはっきりと覚えている……。
話を戻そう。
そのあと、栞は琴子に向かってこう言ったのだ。
「サキちゃんはさぁ、その婚約者以外の他の男の人にも目を向けた方がいいと思うんだよねぇ。ずっとそのカレのことしか見てこなかったんでしょう? もっといろいろ試してみたほうがいいって! 私がいいひと紹介してあげるからさ」
自信に溢れた声で「任せて」と胸を叩いた栞さんの満面の笑みを、琴子は懐かしく思い出した。
「……もしかして、それが俺だったのか?」
この人はやっぱり勘がいい。
そんなことを思いながら、琴子は頷いた。
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