私を捨てたのはミスですよ?

パリパリかぷちーの

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「……九百八十、九百九十。はい、今月のキタノイチゴ事業における純利益の最終確認、完了ですわ!」

私は執務室(旧・物置小屋を魔改造した秘密基地)で、山積みの帳簿をパタンと閉じました。

婚約破棄から数週間。
私の人生のグラフは、右肩上がりという言葉すら生ぬるいほどの急上昇を見せています。
やはり、無能な殿下のお世話という「巨大な不良資産」を切り捨てたのは、私の人生最大の英断でしたわ。

「お嬢様、またそうやって可愛げのない数字ばかり見て……。せっかく隣国のレオナード殿下から、バラの花束と招待状が届いているというのに」

ベティが、呆れたように部屋の隅にある豪勢な花束を指差しました。
真紅のバラ。その隙間には、これまた高価そうな魔導銀の細工が施されたカードが添えられています。

「ベティ。バラの花束は、飾っておくだけでは酸素を排出し二酸化炭素を吸収する程度の機能しかありません。……いえ、逆でしたかしら? とにかく、維持管理に手間がかかる割に、直接的なキャッシュフローを生み出さない非効率な贈答品ですわ」

「……その屁理屈も、もはや芸術の域に達していますわね。でも、カードの内容は読みましたの? 『明日の夕暮れ、君に見せたい特別な景色がある。二人きりで会いたい』ですって! 誰がどう見ても、これは恋の誘いですわ!」

「二人きり? ……ふむ。なるほど、読めましたわ」

私は眼鏡(最近、細かい計算が増えたので導入しました)のブリッジを押し上げました。

「これは、レオナード殿下による新手の『心理的圧迫を用いた交渉術』ですわね。二人きりという密室に近い状況を作り出し、私の冷静な判断力を削ぎ落とした上で、キタノイチゴの流通利権をさらに要求するつもりですわ。……おのれ、氷の王子。なかなか狡猾な真似を!」

「お嬢様、その方向へ全力疾走するのを今すぐやめてくださいまし!」

翌日の夕暮れ。
私は指定された「見晴らしの丘」へと向かいました。
もちろん、護身用の魔導短銃と、いつでも契約を修正できるよう携帯用の羽根ペンとインク一式を完備して。

丘の上には、沈みゆく夕日に照らされたレオナード殿下が、一幅の絵画のように立っていました。

「来てくれたか、セリーナ。……今日の君は、夕日よりも眩しいな」

「殿下。光の屈折と反射の関係上、夕日の方がルクス値は高いはずですわ。不正確な比喩で会話の解像度を下げるのはおやめください。……それで、交渉の続きを始めましょうか? どの条項に不満があるのです?」

「交渉? ……いや、今日はそんな話をしに来たわけではない。ただ、この黄金色に染まる領地を、君と一緒に見たかっただけなんだ」

レオナード殿下は、優しく、そしてどこか切なげな微笑みを私に向けました。
そして、私の手をごく自然に、そっと包み込むように握ったのです。

「セリーナ。私は、君のその……。数字や理屈に隠された、真っ直ぐな魂に、救われているんだ。もし、君が許してくれるなら、私はこの景色をずっと君の隣で……」

これです。
巷の恋愛小説であれば、ここでヒロインが顔を赤らめ、物語が最高潮に達する場面。
いわゆる「恋のフラグ」というやつですわね。

ですが、私はセリーナ・エルバート。
合理主義の化身です。

「……殿下、今の行動。私の掌の温度を計測なさっているのですか? それとも、殿下の体温が低下して、私を熱交換の媒体として利用なさっているのですか?」

「……え?」

「後者であるなら、一分間の接触につき金貨五枚の暖房費を請求いたします。前者であれば、私の生体情報の無断取得として、個人情報保護の観点から異議を申し立てますわ。どちらですの?」

私は真顔で、殿下の握った手をじっと見つめました。

「……セリーナ。君、今この状況で、本気でそれを言っているのか?」

「本気以外の何に見えますの? 二人きりの状況、沈みゆく太陽による視覚情報の制限、そして不意の身体接触。……殿下、これは典型的な『認知不協和』を利用した洗脳の手口と酷似しておりますわ。私を籠絡して、事業の配分を五対五から四対六に変えようとしても無駄ですわよ!」

レオナード殿下は、握っていた私の手をそっと離しました。
そして、そのまま頭を抱え、深く、深ーく溜息をつきました。

「……参ったな。フラグを折られるどころか、粉々に粉砕された気分だ」

「粉砕? 物理的な破壊行為はいたしておりませんわ。私はただ、現状を論理的に分析しただけで……」

「そこだよ、セリーナ。君は本当に……。だが、いい。その鉄壁の論理こそが、私を飽きさせない理由なのだから」

レオナード殿下は、今度は力なく、けれど楽しげに笑い始めました。

「君を落とすには、恋のフラグを立てるのではなく、君の計算式そのものを書き換える必要がありそうだな」

「私の計算式は完璧ですわ。修正の余地などございません」

「ふふっ。いずれ、私が君の人生の『定数』になってみせるさ。……今日のところは、この景色代として、美味しいお茶でも奢らせてくれないか?」

「お茶? 殿下のおごりなら、私の可処分所得が減らないので合理的ですわ。乗りましょう、その提案!」

私は殿下の後ろを歩きながら、心の中で密かに頷きました。
ふん。恋だの愛だのという非効率な現象に振り回される時間は、私のスケジュール帳には一分も残っておりません。

「……ですが。殿下のあの『困ったような笑い顔』の再現性については、少し研究の価値があるかもしれませんわね」

私は、わずかに熱の残る自分の右手を、無意識のうちにぎゅっと握りしめていました。
それが「恋」というエラーの予兆であることに、この時の私はまだ、気づかない振りをしていたのです。
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