私を捨てたのはミスですよ?

パリパリかぷちーの

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「……おい、ミーナ。この予算案の計算が、さっきから三回連続で合わないのだが。どういうことだ?」

王宮の執務室。かつて私が、一分の狂いもなく書類を整理していたその場所で、ウィルフレッド殿下は頭を抱えていました。

目の前には、数字が迷子になったかのような無残な書類の山。そしてその隣には、お盆を持ってオロオロとするミーナ様の姿があります。

「ええっ、そんなはずは……。私、一生懸命計算したんです! ハートの形に数字を並べたら、とっても可愛くなるかなって思って……」

「……計算に可愛さは必要ない。必要なのは正確な合計値だ。前の担当者……セリーナの時は、私がサインをするだけで済んでいたというのに」

ウィルフレッド殿下は、深い溜息をついて椅子に背を預けました。

セリーナ、という名前が口を突いて出た瞬間、部屋の空気がわずかに凍りつきました。
彼は無意識に、あの「合理的すぎて可愛げのない」元婚約者の、完璧な仕事振りを思い出していたのです。

「ウィルフレッド様、ひどいです! セリーナ様の話ばっかり! あんな冷たい女の人より、私の方がずっとウィルフレッド様のことを想っているのに……。ほら、元気が出るように甘いお菓子を持ってきましたよ?」

ミーナ様が差し出したのは、見るからに砂糖が山盛りになった、どぎついピンク色のマカロンでした。

「……すまない、ミーナ。だが今、私は胃が痛いのだ。そんな甘いものは受け付けない」

「ええーっ! せっかく愛を込めて作ったのに……。ううっ、ウィルフレッド様が変わっちゃった……。セリーナ様がいなくなってから、ずっと怖い顔ばかりしてるんですもの!」

ミーナ様がハンカチを顔に当てて泣き始めました。
かつては、この涙を見れば「守ってあげたい」と胸が熱くなった殿下でしたが、今は……。

(……うるさい。泣きたいのは、この膨大な未処理書類を抱えた私の方だ。なぜ、これほどまでに公務が進まない? セリーナがいた頃は、毎日定時に終わっていたはずだろう?)

ウィルフレッド殿下の脳内に、冷徹な私の声がリフレインします。
『殿下、この案件の優先順位はCですわ。時間の無駄ですので、今すぐ破棄してちょうだい』
『そのポエムを推敲する三十分で、道路の補修予算が一件決裁できますわよ?』

当時は「口うるさい女だ」と辟易(へきえき)していましたが、今になって理解したのです。
彼女は「毒」を吐いていたのではなく、無能な自分を支える「脊髄(せきずい)」だったのだと。

そこへ、ノックの音と共に王室専属の弁護士が真っ青な顔で入ってきました。

「で、殿下! 大変です! エルバート公爵家の代理人……『鉄面皮のハミルトン法律事務所』から、最終通告が届きました!」

「最終通告? 例の、セリーナが言っていた冗談のような請求書のことか?」

「冗談などではございません! もし本日中に第一期の支払い、および『公式な謝罪文』の提示がなければ、王室がエルバート公爵家から借り受けている北海航路の利権をすべて差し押さえると……!」

「な、なんだと!? あの航路が止まれば、王都の物資供給が死ぬぞ!」

ウィルフレッド殿下がガタッと立ち上がりました。
その拍子に、ミーナ様が持っていたマカロンがお盆から滑り落ち、殿下の真っ白なズボンにべチャリと張り付きました。

「ああっ! ごめんなさい、ウィルフレッド様!」

「……ミーナ、どいてくれ。今、それどころではないんだ!」

「ひどい! 怒鳴らなくたっていいじゃないですか! セリーナ様なら、もっと上手に避けたはずだって言いたいんでしょう!? 最低です!」

ミーナ様は泣き叫びながら部屋を飛び出していきました。
残されたのは、ピンク色のシミがついたズボンを穿いた、情けない姿の皇太子と、山積みの書類だけ。

「……セリーナ。君は、こんな思いをしてまで私を支えてくれていたのか?」

ウィルフレッド殿下は、机の引き出しにしまっていた、かつて自分が書き散らしたポエムの束を手に取りました。
そこには、セリーナの鋭い字で『韻律が崩壊しています。国語の家庭教師を呼び戻しましょうか?』という容赦ない赤字が入っていました。

「あの時は、ただの嫌がらせだと思っていたが……。君の指摘は、すべて正しかった……」

彼は、窓の外を見上げました。
セリーナが追放された北の方角。
そこには今、彼女がレオナード王子と仲良く壁を塗ったり、村の経済を爆速で回したりしているなどという、自分の想像を絶するバラ色の世界が広がっていることなど、彼は知る由もありません。

「……使いを出せ。セリーナに、一度話し合いたいと……いや、『謝罪したい』と伝えるんだ!」

「手遅れだと思われますが……。彼女、すでに隣国の第三王子と共同事業を立ち上げているという報告が入っております」

「……は?」

ウィルフレッド殿下の手から、ポエムの束がバラバラと床に落ちました。

婚約破棄からわずか一ヶ月足らず。
王宮の「太陽」を自称していた皇太子の心には、早くもどす黒い後悔の雨が降り始めていたのでした。
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