最強の悪役令嬢、婚約破棄で逃げます!

パリパリかぷちーの

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「……いい匂い」

その日、私の意識を覚醒させたのは、小鳥のさえずりでも太陽の光でもなく、嗅覚(きゅうかく)を強烈に刺激する暴力的なまでの「香ばしさ」だった。

鼻をひくつかせる。

焼けたバターの甘い香り。
燻製(くんせい)肉が熱されて脂が溶け出す匂い。
そして、挽きたてのコーヒー豆のアロマ。

「……夢?」

私はのろのろと起き上がり、重たい瞼をこすった。

ここは廃墟同然の別荘だ。
あるのは埃と隙間風と、私の愛する煎餅布団(せんべいぶとん)だけのはず。
こんな王宮の朝食のような優雅な匂いがするはずがない。

「おはよう、カグヤ。鼻がいいね」

リビングの方から、爽やかな声が飛んできた。

視線を向けると、そこには信じられない光景が広がっていた。

崩れかけていたキッチンの竈(かまど)が修復され、赤々と火が燃えている。
その前で、袖をまくり上げたアレンが、フライパンを軽やかに振っていた。

「……何をしているの?」

「見れば分かるだろう? 朝食を作っているんだ。今日のメニューは、森で採れたハーブとベーコンのガレット、それにフレンチトーストだよ」

アレンはウィンクし、出来たての料理を皿に盛り付けた。

ジュワァァ……という音と共に、食欲をそそる湯気が立ち上る。

「ガレット……? フレンチトースト……?」

私はよろめきながらテーブルに近づいた。

「どうして……こんな山奥で、そんなハイカラな料理が作れるの?」

「材料は工夫次第さ。小麦粉は持っていたし、卵は近所の農家から薪割りの手伝いのお礼にもらってきた。ハーブは裏山で摘んだ」

アレンは鮮やかな手つきでコーヒーをカップに注ぎ、私の前に置いた。

「さあ、召し上がれ。冷めないうちに」

私はゴクリと喉を鳴らした。

公爵令嬢としてのプライドが、「見ず知らずの男(不審者)の手料理を簡単に食べるな」と警告している。
しかし、私の胃袋(社畜時代にカップ麺で酷使された臓器)が、「食べろ、今すぐ食べろ」と暴動を起こしている。

勝負は一瞬だった。

「……いただきます」

私はナイフとフォークを手に取り、ガレットを切り分けた。

外はカリッと香ばしく、中はモチモチとした生地。
そこにとろりと半熟卵の黄身が絡みつく。

口に運ぶ。

「……ッ!」

味蕾(みらい)が歓喜の歌を歌い出した。

塩加減が絶妙だ。ハーブの爽やかな香りが、脂っこさを完全に消している。
そして何より、丁寧に作られた「温かさ」が五臓六腑に染み渡る。

「……美味しい」

「それはよかった」

アレンは向かいの席に座り、満足そうに自分のコーヒーを啜(すす)った。

「君、食べる時にすごく幸せそうな顔をするんだね」

「……失礼な。私はいつだってポーカーフェイスよ」

「いやいや、今は完全に緩んでいるよ。猫がマタタビを与えられた時みたいだ」

「……」

私は反論しようとしたが、口の中に広がるフレンチトーストの甘さ(ハチミツが掛かっている!)に阻まれて言葉が出なかった。

悔しい。
この男、胃袋を掴むのが上手すぎる。

「ねえ、アレン」

私は完食し、食後のコーヒーを楽しみながら問いかけた。

「貴方、何者なの? 屋根の修理はプロ並み、料理は宮廷シェフ並み、気配を消すのは密偵並み。……ただの旅人設定には無理があるわよ」

「設定じゃないよ。多趣味なだけさ」

アレンはひらりと躱(かわ)す。

「それに、僕の国……西の国では、『自分の身は自分で守る』のが貴族のたしなみだからね。料理くらいできないと、野営の時にひもじい思いをする」

「西の国……スターダスト公爵領がある国ね」

私は記憶の引き出しを開けた。

「あそこは武闘派の国として有名だわ。特にスターダスト家は、代々優秀な軍人を輩出している。……貴方、もしかしてその縁者?」

アレンの眉がぴくりと動いた。

「……カグヤは博識だね。ニート志望にしては詳しすぎる」

「元・王太子婚約者ですから。周辺国の情勢データは頭に入っています」

私は指先でテーブルをトントンと叩いた。

「まあ、いいわ。貴方が何者でも、私に害を及ぼさないならどうでもいいことよ。……ごちそうさまでした。家賃分以上の働きは認めてあげる」

「厳しい大家さんだ」

アレンは苦笑いしながら空いた皿を下げた。

「でも、気に入ってもらえてよかった。これからも君の食事は僕が担当しよう。その代わり」

彼は振り返り、いたずらっぽく笑った。

「話し相手になってくれよ。こんな山奥で一人きりの食事は味気ないからね」

「……食事中以外は静かにしていてくれるなら、考えてあげる」

私はツンとした態度を崩さずに言ったが、内心では(明日もこの料理が食べられる!)とガッツポーズをしていた。



その日の夜。

珍しく目が冴えてしまった私は、夜風に当たるためにベランダに出た。

「わあ……」

思わず声が漏れた。

空には、宝石箱をひっくり返したような満天の星が広がっていた。
王都の空は街の明かりで霞んでいたが、ここでは星の一つ一つが驚くほど鮮明に見える。

「綺麗だろう?」

隣にアレンが並んだ。
彼の手には、ホットワインが入ったマグカップが二つ握られている。

「……ええ。凄いわ」

私はカップを受け取り、一口飲んだ。スパイスの香りが体を温める。

「あれが見えるかい? 南の空、ひときわ明るく輝く青い星」

アレンが指差す。

「……シリウスね。おおいぬ座のアルファ星。全天で最も明るい恒星よ」

私が即答すると、アレンが目を丸くした。

「へえ、学術名を知っているのか。僕の国では『銀の狼』って呼ばれているんだ」

「銀の狼?」

「ああ。昔、迷子になった旅人を導いた狼が、死後に星になったという伝説がある。……迷える者を導く光さ」

アレンは遠い目をして星を見上げた。

「僕はあの星が好きなんだ。どんなに暗い夜でも、変わらずにそこにあって、道を示してくれるから」

彼の横顔が、どこか寂しげに見えた。
昼間の飄々(ひょうひょう)とした態度は消え、そこには年相応の青年の悩みや孤独が垣間見える。

(……彼も、何かから逃げてきたのね)

私は深く追求するのをやめた。
人には触れられたくない事情の一つや二つ、必ずあるものだ。
私にとっての「労働」がそうであるように、彼にも「実家のしがらみ」があるのだろう。

「私は」

私は視線を少しずらした。

「あの赤い星の方が好きよ。アンタレス。さそり座の心臓」

「アンタレスか。不吉な星とされることもあるけど?」

「ええ。でも、あそこには『火星に対抗するもの』という意味があるの。……戦いの神に喧嘩を売るなんて、ロックじゃない?」

「ロック……? あはは、カグヤらしいな」

アレンが声を上げて笑った。

「戦うのが嫌いな平和主義者なのに、好む星は反骨精神の塊か」

「悪い?」

「いや、最高だよ」

アレンは私の方を向き、優しい瞳で微笑んだ。

「君は不思議な人だ。合理的でドライに見えて、誰よりも情熱的で、そして……意外とロマンチストだ」

「……褒めても何も出ないわよ」

「ただの感想さ」

星空の下、静かな時間が流れる。

今まで、私は「沈黙」が怖かった。
王宮では、沈黙は「失態」や「無知」を意味したからだ。常に何かを話し、場を繋ぎ、相手の機嫌を取らなければならなかった。

でも、この沈黙は心地いい。
無理に話さなくてもいい。ただ隣にいて、同じ星を見上げているだけで成立する空気感。

(……悪くないわね)

私はホットワインを飲み干し、ふぅ、と息を吐いた。

「アレン」

「ん?」

「明日の朝食、何にするの?」

私の問いに、アレンは嬉しそうに目を細めた。

「君のリクエストに応えるよ。何が食べたい?」

「……ふわふわのオムレツ。王宮のシェフでも作れないくらいの、極上のやつ」

「了解(ラジャー)。任せておけ」

こうして、私とアレンの奇妙な共同生活は、少しずつ、しかし確実に「日常」へと変わっていった。

美味しい食事。
心地よい距離感。
そして、美しい星空。

私はこの生活が永遠に続くことを願った。
いや、心のどこかで「続くわけがない」と分かっていながら、今の安らぎに甘えていたのかもしれない。

――その翌日。
私のささやかな平穏をぶち壊す「事件」が、村の方角からやってくることなど知らずに。
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