12 / 28
12
しおりを挟む
婚約破棄から明けた、清々しい朝。
私はマーガリン公爵邸のテラスで、揚げたてのパンにたっぷりの蜂蜜をかけて頬張っていた。
口の周りがベタベタになる多幸感。これこそが独身貴族の特権である。
「お嬢様、また来ましたよ。……今日はいつもより三割増しで冷気が鋭い気がします」
アンの報告と同時に、庭の芝生がパリパリと白く凍りついていくのが見えた。
現れたのは、もはや我が家の常連と化したギルバート卿だ。
今日の彼は私服だが、その身のこなしは相変わらず軍神のような威圧感を放っている。
「……おはよう、ポンド。朝食中にすまない」
「おはようございます、卿。……お口の周りが蜂蜜で大変なことになっていますが、気にせず入ってください。蜂蜜、いかがですか?」
「……いや、私はいい。……ポンド。少し、歩かないか?」
「歩く……。つまり、有酸素運動をして、次のお昼ごはんをより美味しくいただくための準備運動ですね。承知いたしました。行きましょう」
私は最後のパンを一口で片付け、立ち上がった。
ギルバート卿は、私が蜂蜜を拭う様子をじっと見つめ、不意に懐から上質なリネンのハンカチを取り出した。
「……貸せ。君は、自分の顔が今どれだけ無防備か分かっていない」
「無防備……。蜂蜜のガードが固いと思っていたのですが。……あ、そこ、右の口角に一滴残っています」
ギルバート卿の手が、私の頬に触れる。
騎士の節くれだった、温かい指先。
彼は無表情な私を見つめ返しながら、ゆっくりと、丁寧に、蜜を拭い去った。
「…………」
「……卿? 顔がまた赤いですよ。今日は朝から氷の微調整に失敗したのですか?」
「……やかましい。行くぞ。……今日は、君に見せたいものがあるのだ」
私たちは、公爵邸の裏に広がる広大な森へと向かった。
朝露に濡れた草花が、ギルバート卿の歩みに合わせてシャリシャリと凍っていく。
おかげで私の靴が汚れずに済むので、非常に助かる機能である。
「……ポンド。君は、セドリック殿下といた頃、こうして散歩をすることはあったのか?」
「散歩ですか? ……ええ、一度だけありました。殿下がお気に入りの猟犬を自慢するために、私を三時間ほど連れ回したことがあります。私はその間、ずっと『あの犬、美味しそうな太ももをしているな』と考えていました」
「…………そうか。やはり君は、君だな」
ギルバート卿が、どこか安心したように小さく笑った。
彼は不意に立ち止まり、大きな樹の根元を指差した。
「……これだ。これを見せたかった」
そこには、朝の光を浴びて青く輝く、不思議な花が咲いていた。
花びらが水晶のように透き通り、周囲に幻想的な香りを漂わせている。
「……まあ。これは」
「……『氷晶花』だ。一年のうち、この時期の数日間、しかも早朝にしか咲かない。……君の瞳に似ていると思ってな」
ギルバート卿が、少し照れたように視線を逸らす。
ロマンチックな演出。氷結騎士様からの贈り物。
普通ならここで頬を染めて、愛の言葉を交わす場面だろう。
「……卿。これ、食べられますか?」
「…………は?」
「見たところ、氷菓子のゼリーに似ています。この透明感なら、おそらくミントのような清涼感があるはずです。……試しに一枚、いただいても?」
私は花に手を伸ばそうとしたが、ギルバート卿にがっしりと腕を掴まれた。
彼の顔は、今や驚愕と絶望が入り混じった複雑な表情になっていた。
「……食べられない! これは鑑賞用だ、ポンド! なぜ君は、美しいものを見るとすぐに咀嚼しようとするんだ!」
「……美しいものは、体内に取り込んでこそ真の価値があると思うのです。卿も、私のことを『美しい』と思ってくださるなら、いつか私を……」
「……私を、なんだ。……私を、食べるつもりか?」
ギルバート卿の声が震える。
私は首を傾げた。
「いえ。……いつか一緒に、美味しいものを食べたいな、と言おうとしただけです。卿を食べるのは、少し硬そうですし」
「…………。君という女は、本当に……心臓に悪い」
ギルバート卿が、がっくりと膝をついた。
周囲の草花が、彼の落胆に合わせてさらにカチコチに凍りついていく。
私はそんな彼の背中をポンポンと叩き、慰めた。
「卿、元気を出してください。花が食べられないなら、代わりに帰り道にある野イチゴを摘みましょう。それを煮詰めてジャムにすれば、明日の朝食がもっと輝きます」
「…………ああ。……そうだな。……イチゴを摘もう。……私が、全部摘んでやる」
「全部、ですか? それは心強いですが、卿の冷気でイチゴがシャーベットにならないよう、気をつけてくださいね」
私たちは、森の小道をゆっくりと戻り始めた。
ギルバート卿は、時折振り返っては、私の足元に尖った石がないか、不審なリスがいないか、過剰なほど周囲を警戒している。
「……ポンド。私は、君のその……予測不能なところも含めて、守りたいと思っている」
「……ありがとうございます。では早速ですが、あの木の上に美味しそうなキノコが見えるので、取っていただけますか? 卿なら、ジャンプ一番で届くはずです」
「…………了解した。……高く跳ぶぞ、見ていろ」
騎士団長が、一個のキノコのために空高く舞い上がる。
その姿はあまりにも神々しく、そしてあまりにもシュールだった。
泥沼令嬢の訪問者は、どうやら私のペースに完全に飲み込まれ、立派な「食材調達係」へとクラスチェンジしつつあるようだった。
私はマーガリン公爵邸のテラスで、揚げたてのパンにたっぷりの蜂蜜をかけて頬張っていた。
口の周りがベタベタになる多幸感。これこそが独身貴族の特権である。
「お嬢様、また来ましたよ。……今日はいつもより三割増しで冷気が鋭い気がします」
アンの報告と同時に、庭の芝生がパリパリと白く凍りついていくのが見えた。
現れたのは、もはや我が家の常連と化したギルバート卿だ。
今日の彼は私服だが、その身のこなしは相変わらず軍神のような威圧感を放っている。
「……おはよう、ポンド。朝食中にすまない」
「おはようございます、卿。……お口の周りが蜂蜜で大変なことになっていますが、気にせず入ってください。蜂蜜、いかがですか?」
「……いや、私はいい。……ポンド。少し、歩かないか?」
「歩く……。つまり、有酸素運動をして、次のお昼ごはんをより美味しくいただくための準備運動ですね。承知いたしました。行きましょう」
私は最後のパンを一口で片付け、立ち上がった。
ギルバート卿は、私が蜂蜜を拭う様子をじっと見つめ、不意に懐から上質なリネンのハンカチを取り出した。
「……貸せ。君は、自分の顔が今どれだけ無防備か分かっていない」
「無防備……。蜂蜜のガードが固いと思っていたのですが。……あ、そこ、右の口角に一滴残っています」
ギルバート卿の手が、私の頬に触れる。
騎士の節くれだった、温かい指先。
彼は無表情な私を見つめ返しながら、ゆっくりと、丁寧に、蜜を拭い去った。
「…………」
「……卿? 顔がまた赤いですよ。今日は朝から氷の微調整に失敗したのですか?」
「……やかましい。行くぞ。……今日は、君に見せたいものがあるのだ」
私たちは、公爵邸の裏に広がる広大な森へと向かった。
朝露に濡れた草花が、ギルバート卿の歩みに合わせてシャリシャリと凍っていく。
おかげで私の靴が汚れずに済むので、非常に助かる機能である。
「……ポンド。君は、セドリック殿下といた頃、こうして散歩をすることはあったのか?」
「散歩ですか? ……ええ、一度だけありました。殿下がお気に入りの猟犬を自慢するために、私を三時間ほど連れ回したことがあります。私はその間、ずっと『あの犬、美味しそうな太ももをしているな』と考えていました」
「…………そうか。やはり君は、君だな」
ギルバート卿が、どこか安心したように小さく笑った。
彼は不意に立ち止まり、大きな樹の根元を指差した。
「……これだ。これを見せたかった」
そこには、朝の光を浴びて青く輝く、不思議な花が咲いていた。
花びらが水晶のように透き通り、周囲に幻想的な香りを漂わせている。
「……まあ。これは」
「……『氷晶花』だ。一年のうち、この時期の数日間、しかも早朝にしか咲かない。……君の瞳に似ていると思ってな」
ギルバート卿が、少し照れたように視線を逸らす。
ロマンチックな演出。氷結騎士様からの贈り物。
普通ならここで頬を染めて、愛の言葉を交わす場面だろう。
「……卿。これ、食べられますか?」
「…………は?」
「見たところ、氷菓子のゼリーに似ています。この透明感なら、おそらくミントのような清涼感があるはずです。……試しに一枚、いただいても?」
私は花に手を伸ばそうとしたが、ギルバート卿にがっしりと腕を掴まれた。
彼の顔は、今や驚愕と絶望が入り混じった複雑な表情になっていた。
「……食べられない! これは鑑賞用だ、ポンド! なぜ君は、美しいものを見るとすぐに咀嚼しようとするんだ!」
「……美しいものは、体内に取り込んでこそ真の価値があると思うのです。卿も、私のことを『美しい』と思ってくださるなら、いつか私を……」
「……私を、なんだ。……私を、食べるつもりか?」
ギルバート卿の声が震える。
私は首を傾げた。
「いえ。……いつか一緒に、美味しいものを食べたいな、と言おうとしただけです。卿を食べるのは、少し硬そうですし」
「…………。君という女は、本当に……心臓に悪い」
ギルバート卿が、がっくりと膝をついた。
周囲の草花が、彼の落胆に合わせてさらにカチコチに凍りついていく。
私はそんな彼の背中をポンポンと叩き、慰めた。
「卿、元気を出してください。花が食べられないなら、代わりに帰り道にある野イチゴを摘みましょう。それを煮詰めてジャムにすれば、明日の朝食がもっと輝きます」
「…………ああ。……そうだな。……イチゴを摘もう。……私が、全部摘んでやる」
「全部、ですか? それは心強いですが、卿の冷気でイチゴがシャーベットにならないよう、気をつけてくださいね」
私たちは、森の小道をゆっくりと戻り始めた。
ギルバート卿は、時折振り返っては、私の足元に尖った石がないか、不審なリスがいないか、過剰なほど周囲を警戒している。
「……ポンド。私は、君のその……予測不能なところも含めて、守りたいと思っている」
「……ありがとうございます。では早速ですが、あの木の上に美味しそうなキノコが見えるので、取っていただけますか? 卿なら、ジャンプ一番で届くはずです」
「…………了解した。……高く跳ぶぞ、見ていろ」
騎士団長が、一個のキノコのために空高く舞い上がる。
その姿はあまりにも神々しく、そしてあまりにもシュールだった。
泥沼令嬢の訪問者は、どうやら私のペースに完全に飲み込まれ、立派な「食材調達係」へとクラスチェンジしつつあるようだった。
23
あなたにおすすめの小説
王太子妃専属侍女の結婚事情
蒼あかり
恋愛
伯爵家の令嬢シンシアは、ラドフォード王国 王太子妃の専属侍女だ。
未だ婚約者のいない彼女のために、王太子と王太子妃の命で見合いをすることに。
相手は王太子の側近セドリック。
ところが、幼い見た目とは裏腹に令嬢らしからぬはっきりとした物言いのキツイ性格のシンシアは、それが元でお見合いをこじらせてしまうことに。
そんな二人の行く末は......。
☆恋愛色は薄めです。
☆完結、予約投稿済み。
新年一作目は頑張ってハッピーエンドにしてみました。
ふたりの喧嘩のような言い合いを楽しんでいただければと思います。
そこまで激しくはないですが、そういうのが苦手な方はご遠慮ください。
よろしくお願いいたします。
王子妃教育に疲れたので幼馴染の王子との婚約解消をしました
さこの
恋愛
新年のパーティーで婚約破棄?の話が出る。
王子妃教育にも疲れてきていたので、婚約の解消を望むミレイユ
頑張っていても落第令嬢と呼ばれるのにも疲れた。
ゆるい設定です
婚約破棄されたショックですっ転び記憶喪失になったので、第二の人生を歩みたいと思います
ととせ
恋愛
「本日この時をもってアリシア・レンホルムとの婚約を解消する」
公爵令嬢アリシアは反論する気力もなくその場を立ち去ろうとするが…見事にすっ転び、記憶喪失になってしまう。
本当に思い出せないのよね。貴方たち、誰ですか? 元婚約者の王子? 私、婚約してたんですか?
義理の妹に取られた? 別にいいです。知ったこっちゃないので。
不遇な立場も過去も忘れてしまったので、心機一転新しい人生を歩みます!
この作品は小説家になろうでも掲載しています
地味な私では退屈だったのでしょう? 最強聖騎士団長の溺愛妃になったので、元婚約者はどうぞお好きに
有賀冬馬
恋愛
「君と一緒にいると退屈だ」――そう言って、婚約者の伯爵令息カイル様は、私を捨てた。
選んだのは、華やかで社交的な公爵令嬢。
地味で無口な私には、誰も見向きもしない……そう思っていたのに。
失意のまま辺境へ向かった私が出会ったのは、偶然にも国中の騎士の頂点に立つ、最強の聖騎士団長でした。
「君は、僕にとってかけがえのない存在だ」
彼の優しさに触れ、私の世界は色づき始める。
そして、私は彼の正妃として王都へ……
婚約破棄を申し入れたのは、父です ― 王子様、あなたの企みはお見通しです!
みかぼう。
恋愛
公爵令嬢クラリッサ・エインズワースは、王太子ルーファスの婚約者。
幼い日に「共に国を守ろう」と誓い合ったはずの彼は、
いま、別の令嬢マリアンヌに微笑んでいた。
そして――年末の舞踏会の夜。
「――この婚約、我らエインズワース家の名において、破棄させていただきます!」
エインズワース公爵が力強く宣言した瞬間、
王国の均衡は揺らぎ始める。
誇りを捨てず、誠実を貫く娘。
政の闇に挑む父。
陰謀を暴かんと手を伸ばす宰相の子。
そして――再び立ち上がる若き王女。
――沈黙は逃げではなく、力の証。
公爵令嬢の誇りが、王国の未来を変える。
――荘厳で静謐な政略ロマンス。
(本作品は小説家になろうにも掲載中です)
婚約破棄された際もらった慰謝料で田舎の土地を買い農家になった元貴族令嬢、野菜を買いにきたベジタリアン第三王子に求婚される
さら
恋愛
婚約破棄された元伯爵令嬢クラリス。
慰謝料代わりに受け取った金で田舎の小さな土地を買い、農業を始めることに。泥にまみれて種を撒き、水をやり、必死に生きる日々。貴族の煌びやかな日々は失ったけれど、土と共に過ごす穏やかな時間が、彼女に新しい幸せをくれる――はずだった。
だがある日、畑に現れたのは野菜好きで有名な第三王子レオニール。
「この野菜は……他とは違う。僕は、あなたが欲しい」
そう言って真剣な瞳で求婚してきて!?
王妃も兄王子たちも立ちはだかる。
「身分違いの恋」なんて笑われても、二人の気持ちは揺るがない。荒れ地を畑に変えるように、愛もまた努力で実を結ぶのか――。
結婚結婚煩いので、愛人持ちの幼馴染と偽装結婚してみた
夏菜しの
恋愛
幼馴染のルーカスの態度は、年頃になっても相変わらず気安い。
彼のその変わらぬ態度のお陰で、周りから男女の仲だと勘違いされて、公爵令嬢エーデルトラウトの相手はなかなか決まらない。
そんな現状をヤキモキしているというのに、ルーカスの方は素知らぬ顔。
彼は思いのままに平民の娘と恋人関係を持っていた。
いっそそのまま結婚してくれれば、噂は間違いだったと知れるのに、あちらもやっぱり公爵家で、平民との結婚など許さんと反対されていた。
のらりくらりと躱すがもう限界。
いよいよ親が煩くなってきたころ、ルーカスがやってきて『偽装結婚しないか?』と提案された。
彼の愛人を黙認する代わりに、贅沢と自由が得られる。
これで煩く言われないとすると、悪くない提案じゃない?
エーデルトラウトは軽い気持ちでその提案に乗った。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる