悪役令嬢は、婚約破棄を「秒」で承諾する。

パリパリかぷちーの

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「ふっ……。可愛い奴め」

王城の西側にある、第二王子アレクセイの私室。

豪奢なソファに深々と座り、アレクセイは窓から見える中庭を眺めながら、独りごちた。

手には最高級のワイン。

その唇には、余裕たっぷりの笑みが浮かんでいる。

「アレクセイ様……? 何が可愛いのですか?」

対面に座っていたミナが、小首を傾げて尋ねた。

彼女は不安そうに、ひっきりなしに視線を泳がせている。

無理もない。昨晩の婚約破棄騒動は、彼女にとっても衝撃的だったのだろう。

特に、あのリーフィの豹変ぶりは。

「リーフィのことだよ」

アレクセイはワイングラスを揺らした。

「今朝、城内で妙な噂が流れているのを知っているかい? 『氷の宰相』ことクライヴ公爵が、リーフィに求婚したという噂だ」

「は、はい……。私も聞きました。なんでも、出会って数時間で『君が欲しい』と言われたとか……」

「馬鹿馬鹿しい」

アレクセイは鼻で笑った。

「あの仕事人間のクライヴが、女に現を抜かすわけがない。しかも相手は、僕が捨てたばかりの『古着(リーフィ)』だぞ? あり得ない話だ」

「で、でも、実際にリーフィ様は宰相閣下の執務室に居座っているそうですし……」

「そこだよ、ミナ。そこがリーフィの『可愛い作戦』なんだ」

アレクセイは人差し指を立てて、得意げに解説を始めた。

「いいかい? リーフィは僕に未練タラタラだ。昨日のあの強気な態度は、僕の気を引くための演技に過ぎない」

「えっ……そ、そうなんですか? あんなに冷たい目で『需要と供給』とか言っていたのに?」

「あれはツンデレというやつさ。内心では泣いていたはずだ。そして彼女は考えた。『どうすればアレクセイ様にもう一度振り向いてもらえるか』とね」

アレクセイは陶酔した表情で天井を見上げた。

「そこで彼女が選んだ手段が、『嫉妬作戦』だ」

「しっと……?」

「そう。僕の身近にいて、かつ僕に対抗しうる地位を持つ男……それが宰相クライヴだ。彼に近づき、恋人のフリをすることで、僕に『惜しいことをした』と思わせようとしているのさ」

なんて健気で、愚かな女なんだろう。

アレクセイは確信していた。

あの合理主義の塊のようなリーフィが、感情的に動くはずがない。

だが、「恋」という病にかかれば、どんな賢女も愚かになる。

彼女は僕を愛するあまり、なりふり構わず宰相に特攻したのだ。

「宰相閣下も被害者だな。リーフィのあざとい手管に騙されて、利用されているとも知らずに」

「あ、あのう……私には、宰相閣下のほうが乗り気に見えましたが……」

ミナがおずおずと反論する。

「噂では、閣下がリーフィ様に『女神』とか『一生離さない』とか叫んでいたそうですし……」

「ハハハ! それはリーフィが言わせたんだよ。あいつはそういう根回しだけは得意だからな。宰相の弱みでも握って、言わせているに違いない」

アレクセイの思考回路において、「自分が愛されていない」という選択肢は存在しない。

彼は自分が物語の主人公であり、世界の中心だと信じて疑わないのだ。

「かわいそうに。そこまでして僕の愛を取り戻したいなんて」

アレクセイは立ち上がり、窓ガラスに映る自分の顔に見惚れた。

「だが、残念ながら僕の心はミナ、君だけのものだ」

「あ、ありがとう、ございます……」

ミナの返事は歯切れが悪い。

彼女は昨晩、リーフィから渡された『マニュアル』を読んでいた。

そこには【アレクセイ殿下が現実逃避を始めた際の対処法:否定せず、適当に相槌を打ち、速やかに話題を変えること】と書かれていた。

ミナは忠実にそれに従った。

「そ、そうですわね! リーフィ様のことは放っておきましょう! それより、次の公務の準備を……」

「ああ、公務か」

アレクセイは急に面倒くさそうな顔をした。

「そういえば、今日提出期限の予算案があったな。いつもならリーフィが下書きを持ってくる時間だが……」

彼は机の上を見た。そこには白紙の書類が一枚あるだけだ。

「……来ていないな」

「ええ、もう婚約者ではありませんから」

「ふん、これも『焦らしプレイ』というやつか。僕が困って泣きついてくるのを待っているんだな」

アレクセイはニヤリと笑った。

「だが、その手には乗らないぞ。予算案くらい、僕にだって書ける!」

彼はペンを取り、勢いよく書き始めた。

『予算:たくさん必要。理由:国民のためだから。以上!』

「できた」

「えっ!? も、もうですか!?」

ミナが覗き込み、絶句する。

「あ、アレクセイ様……さすがにこれでは、財務省が……」

「何がだ? 王族の命令だぞ? 文句など言わせない」

「ですが、リーフィ様のマニュアルには『数字的根拠のない予算案は、トイレットペーパーにも劣る』と……」

「またリーフィか! あいつの小言はもう聞き飽きた!」

アレクセイは不機嫌そうにペンを投げた。

「いいか、ミナ。王族に必要なのは細かい数字遊びじゃない。カリスマ性と、民を想う心だ。細かい計算など、下の者が勝手にやればいい」

「は、はあ……」

「リーフィはその『下の者の仕事』が得意だっただけだ。代わりなどいくらでもいる」

そう、代わりなどいくらでもいるはずだ。

優秀な文官など、金で雇えばいい。

リーフィがいなくなったところで、僕の生活に何の影響もない。

そう思っていた。

コンコン。

控えめなノックの後、侍従長が入ってきた。

顔色が悪い。

「で、殿下……申し上げにくいのですが……」

「なんだ? リーフィが泣いて謝りに来たか?」

「いえ……その……今朝から、各部署より苦情が殺到しておりまして」

「苦情?」

侍従長は震える手で、山のような書状を差し出した。

「『先日の視察報告書に誤字が多すぎて解読不能』『式典の席次表が間違っており、公爵家と伯爵家が乱闘寸前』『殿下のサインが入った発注書が桁を二つ間違えており、王城に羊が一万匹届きました』……etc……」

「な……!?」

アレクセイは目を丸くした。

「羊が一万匹!? 百匹の間違いだろう!」

「殿下のサインがございます……」

「くっ……! あれはリーフィがチェックしなかったから……!」

「リーフィ様は昨日付けでその業務から外れておられます」

侍従長の冷たい視線が痛い。

アレクセイは脂汗をかき始めた。

これまで、自分の仕事がどれほどリーフィによって修正・隠蔽されていたか、彼は知らなかった。

彼が出した指示はすべて、リーフィという超高性能フィルターを通すことで、まともな形に変換されていたのだ。

そのフィルターがなくなった今、彼の「思いつき」はダイレクトに現場を混乱させている。

「ええい! うるさい! 文官たちに何とかさせろ!」

「文官たちは現在、宰相閣下とリーフィ様主導の『業務改革』に駆り出されており、殿下の尻拭い……いえ、サポートに割ける人員がおりません」

「なんだと!?」

アレクセイは拳を震わせた。

「リーフィめ……! ここまで計算して僕を追い詰める気か!」

彼は盛大な勘違いを加速させた。

これは嫌がらせだ。

自分の重要性を分からせるために、わざと現場を混乱させているのだ。

「おのれ……性格の悪い女だ! だが、僕は屈しないぞ!」

アレクセイは立ち上がり、窓の外の宰相執務室がある塔を睨みつけた。

「見ていろ、リーフィ。僕が泣いて謝ると思ったら大間違いだ。逆に、お前が泣いて戻ってくるまで、僕は意地でも一人でやってやる!」

「あ、あの……アレクセイ様……羊一万匹の餌代はどうしましょう……?」

「知らん! 中庭に放しておけ! 草刈りの代わりになるだろう!」

「ひぃぃ……」

ミナは青ざめた。

(……マニュアル、マニュアル……『殿下が暴走し始めたら、速やかに現場を放棄し、責任の所在を曖昧にすること』……よし、逃げよう)

「あ、アレクセイ様、私、ちょっとお花を摘みに……」

「ああ、行ってきなさい、僕の天使。君だけは僕の味方だからな」

アレクセイの笑顔に見送られ、ミナは部屋を飛び出した。

部屋に残されたのは、自分の無能さに気づかない裸の王様と、鳴き止まない羊たちの幻聴だけ。

「ふん。数日もすれば、リーフィのほうから根を上げるさ。宰相なんて堅物の相手、あいつに務まるはずがない」

アレクセイは再びワインを口に含んだ。

そのワインの味が、なぜかいつもより酸っぱく感じられることに、彼はまだ気づいていなかった。

一方その頃。

宰相執務室では、リーフィがくしゃみを一つした後、淡々と書類を捌いていた。

「……アレクセイ殿下の発注ミスで羊が一万匹? ああ、それは食肉加工業者と羊毛組合に転売して利益を出しましょう。手配書を書きますね」

「……君は、悪魔か?」

「いえ、元婚約者です」

勘違い王子の思惑をよそに、リーフィの評価と国の利益は、右肩上がりに上昇していくのだった。
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