悪役令嬢は、婚約破棄を「秒」で承諾する。

パリパリかぷちーの

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「……広いですね。そして、寒々しいです」

それが、私が宰相クライヴ・アークライト公爵の私邸に足を踏み入れた第一声だった。

王都の一等地にあるアークライト公爵邸。

歴史ある石造りの洋館は、威厳こそあるものの、人の住む気配が希薄だった。

玄関ホールには最小限の調度品しかなく、飾られている花は造花(手入れ不要のため)。

廊下はチリ一つなく磨かれているが、それは清潔というより「使用頻度が極端に低い」ことを物語っている。

「そうか? 寝に帰るだけだから、これで十分だと思うが」

私の隣で、クライヴ閣下が不思議そうに首を傾げた。

「閣下。家とは『明日戦うためのエネルギーを充填するドック』です。これではただの『豪華な独房』です」

「独房……」

「まあ、良いでしょう。リフォームのしがいがあります」

私は腕まくりをするフリをして、出迎えてくれた家令の老紳士に向き直った。

「初めまして。本日よりこちらに『駐屯』することになりました、リーフィ・ベルンシュタインです」

「お噂はかねがね! お待ちしておりました!」

白髪の家令、ハンスさんは涙ぐみながら私の手を取った。

「旦那様が女性を、しかもこれほど美しい方を連れて帰ってこられる日が来るとは……! このハンス、もう思い残すことはございません!」

「あ、いえ、私は婚約者といっても『契約』上の……」

「さあさあ、お部屋はこちらです! 旦那様の寝室の隣をご用意しました!」

「……隣?」

私はチラリと閣下を見た。

閣下は咳払いをして視線を逸らす。

「防犯上の理由だ。私の部屋の近くが一番警備が手厚いからな」

「なるほど。合理的ですね」

深夜の緊急決裁にも対応しやすいですしね。私は納得して案内された部屋へ入った。

そこは、王城の私の部屋よりも広く、洗練された空間だった。

しかも、机の上には最新の魔導計算機と、高級な万年筆セットが完備されている。

「……私の好みを完全に把握されていますね」

「気に入ったか? 君が仕事を持ち帰ることを想定して、環境を整えさせておいた」

閣下がドアの隙間から、少年のように目を輝かせてこちらを見ている。

「最高です。住環境評価、星五つに修正します」

「よかった。……では、夕食の時間まで少し休むといい」

閣下は嬉しそうに微笑んで去っていった。

          ◇

そして、夕食の時間。

ダイニングルームに通された私は、再び絶句することになった。

長いテーブルの端と端に座る私と閣下。

その距離、約五メートル。

そして、運ばれてきた料理は……。

「……閣下。これは何ですか?」

「何って、夕食だが」

閣下の前にある皿には、茶色い棒状の塊が二本と、水。以上。

「完全栄養食『マジックバー』だ。これ一本で一日に必要な栄養素がすべて摂取できる。食事時間を短縮できる画期的な発明品だぞ」

閣下は真顔で、そのボソボソした物体を齧ろうとしている。

「……待った」

私は思わず「待った」をかけた。

「閣下。食事は単なる栄養摂取ではありません。『精神のメンテナンス』です。そんな味気ないものを毎日食べていては、心が摩耗します」

「しかし、食べる時間がもったいないし……」

「ハンスさん!」

私は家令を呼んだ。

「はいっ!」

「厨房をお借りします。あと、冷蔵庫にある食材をすべて出してください」

「えっ? り、リーフィ嬢が料理を?」

「私の故郷(実家)では、自分の体調管理は自分でするのが鉄則でしたから」

私は席を立ち、ドレスの袖をまくり上げた。

「閣下、その茶色い物体は非常食として備蓄に回してください。今から私が『人間らしい食事』を提供します」

三十分後。

ダイニングには、温かい湯気と香ばしい匂いが充満していた。

「お待たせしました。季節野菜のポトフと、ハーブチキンのソテー、そして焼き立てのパンです」

私が料理を並べると、閣下は目を丸くした。

「……これが、夕食?」

「はい。消化に良く、疲労回復効果のある食材を選びました」

閣下は恐る恐るスプーンを手に取り、ポトフを一口啜った。

その瞬間。

カチャン、とスプーンが皿に落ちる音がした。

「……!」

閣下が口元を押さえ、震えている。

「あ、味が……する……」

「当たり前です」

「いや、違うんだ。いつも食べていた王城の料理や、晩餐会の料理とは違う……なんだ、この優しさは……」

「野菜の甘みと、少しの岩塩だけです。あとは時間をかけて煮込みました」

閣下は夢中でスプーンを動かし始めた。

「美味い……美味い……」

「よく噛んで食べてくださいね。早食いは胃腸の敵です」

「ああ……ああ……」

涙目になりながら食事をする宰相の姿を見て、周囲の使用人たちもハンカチを目頭に当てている。

どんだけ荒んだ食生活をしていたんですか、この人は。

食後。

私たちはサロンに移動し、お茶の時間を楽しんでいた。

暖炉の火がパチパチと爆ぜる音だけが響く、静かな夜。

私は、こだわりの茶葉で淹れたロイヤルミルクティーを閣下に差し出した。

「どうぞ。安眠効果のあるハーブをブレンドしてあります」

「ありがとう」

閣下はソファに深く沈み込み、ミルクティーを一口飲んだ。

そして、ふぅーっと、魂が抜けるような長い息を吐いた。

「……不思議だ」

彼が天井を見上げながら呟く。

「この屋敷には十年住んでいるが、こんなに静かで、温かい場所だとは知らなかった」

「それは、閣下が家を『ただの箱』として扱っていたからです。家は、住む人が愛着を持って接して初めて『帰る場所』になるのです」

私は教科書的な答えを返した。

すると、閣下がゆっくりとこちらを向いた。

暖炉の炎に照らされたその瞳は、昼間の鋭さとは打って変わって、どこか甘く、とろけるような色をしていた。

「……そうか。君が来て、初めてこの箱に『灯り』が灯った気がする」

「電気なら通っていますが」

「そういう意味じゃない。……君がいると、心が安らぐと言っているんだ」

閣下は手を伸ばし、私の手首をそっと掴んだ。

その指先は少し熱い。

「リーフィ。君との契約は『業務効率化』だったな」

「はい、そうです」

「では、この『安らぎ』も君の業務範囲内なのか?」

「……定義によりますが」

私は少しドキリとしながらも、冷静に返答を試みる。

「上司のメンタルヘルス管理も、優秀な秘書の務めですので」

「そうか。……なら、もっと管理してくれ」

閣下は私の手を引き寄せ、その甲に額を押し付けた。

「君がいないと、もう元の生活には戻れそうにない」

それは、無自覚な甘えだった。

普段は国を背負って立つ氷の宰相が、鎧を脱いで、一人のただの男として見せる弱さ。

(……これは、反則ですね)

私は胸の奥がキュッとなるのを感じた。

計算外だ。

ただの「好条件の就職先」だと思っていたのに、この上司(クライヴ)は、私の母性本能というか、庇護欲を的確に刺激してくる。

「……善処します」

私はそう答えるのが精一杯だった。

その夜。

ふかふかのベッドに入った私は、天井を見上げながら溜息をついた。

「定時退社はできても、これでは『残業(ドキドキ)』が増える一方ではないですか……」

私の合理的な人生計画に、少しずつ、しかし確実に「計算不能なエラー」が生じ始めていた。

だが、そのエラーが決して不快なものではないことに、私はまだ気づかないフリをして目を閉じた。

翌朝。

「おはよう、リーフィ! よく眠れたか!」

朝食のテーブルに現れた閣下は、肌艶も良く、エネルギッシュに輝いていた。

「おかげさまで。閣下もお元気そうで」

「ああ! 昨日のポトフのおかげか、力がみなぎっている! よし、今日は溜まっていた法案を三十本通すぞ!」

「三十本は多すぎです。二十本にして、残りの時間は私と散歩でもしましょう」

「散歩!? 業務時間にか!?」

「『フィールドワーク』です。民の生活を知らずして、良い法案は作れません」

「なるほど! さすがリーフィ、完璧な論理だ!」

チョロい。

私は内心でガッツポーズをしつつ、優雅に紅茶を啜った。

私の宰相邸での新生活は、こうして順調(?)にスタートしたのだった。
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