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「……終わりましたね」
その日の夜。
宰相邸のバルコニー。
私たちは、月明かりの下でグラスを傾けていた。
グラスの中身は、最高級のヴィンテージワイン。
アレクセイ殿下の廃嫡と、国の危機回避を祝しての、二人だけのささやかな祝杯だ。
「ああ。長かったような気もするが、君と出会ってからまだ一ヶ月も経っていないんだな」
クライヴ閣下が、夜風に銀髪をなびかせながら感慨深げに呟く。
「中身の濃い一ヶ月でした。体感では三年分くらいの業務密度でしたね」
「違いあるまい。……君のおかげで、私の人生も激変した」
閣下はグラスを置き、手すりに寄りかかって私を見つめた。
その瞳は、月よりも優しく、そして熱を帯びている。
「リーフィ。改めて礼を言わせてくれ。君がいなければ、私は今頃過労死していたか、国の崩壊に巻き込まれていただろう」
「感謝の言葉は給与明細に添えていただければ結構です」
私はいつものように軽口で返した。
だが、閣下は笑わなかった。
真剣な表情で、私の一歩手前まで近づいてくる。
「……今日は、仕事の話じゃない」
「え?」
「君に伝えなければならないことがある。……契約の話だ」
閣下の雰囲気が変わった。
いつもの「氷の宰相」でも、甘い「溺愛モード」でもない。
一人の男としての、飾らない素顔。
「君と最初に交わした契約を覚えているか? 『業務効率化のためのパートナー』および『王家の干渉を防ぐための偽の婚約者』……だったな」
「はい。双方にとって合理的で、利益のある契約でした」
「ああ。だが……私はもう、その契約内容では満足できない」
閣下の手が、私の頬に触れる。
その指先が微かに震えているのが分かった。
「契約違反かもしれませんが……私は、君を『有能な事務員』としてではなく、一人の女性として見てしまっている」
「……」
「最初は確かに、君の能力に惹かれた。だが、今は違う。君の、困難にも動じない強さが好きだ。美味しい紅茶を淹れてくれる優しさが好きだ。時折見せる、計算高いのにどこか抜けている笑顔が……どうしようもなく愛おしい」
閣下の言葉が、静かな夜に溶けていく。
私の胸の奥が、トクン、と大きく跳ねた。
これは、計算外だ。
いや、薄々は気づいていた。
閣下の独占欲や、甘い言葉の数々。
それらを私は「人材への執着」と変換して処理してきたけれど、本当はずっと、心が揺れていたのだ。
「リーフィ・ベルンシュタイン」
閣下はその場に片膝をついた。
騎士が姫に忠誠を誓うように。
あるいは、男が最愛の女に愛を乞うように。
懐から取り出されたのは、計算機でも書類でもなく、小さなベルベットの箱だった。
パカッ。
中には、夜空の星を閉じ込めたような、大粒のサファイアの指輪が輝いている。
「……結婚してくれ」
シンプルな言葉だった。
「国のためでも、家のためでもない。ただ、私個人として君を求めている。君と一緒なら、どんな困難も乗り越えられる。……君の隣で、共に歳を重ねていきたいんだ」
「閣下……」
「君の『効率』という観点から見れば、私は面倒な男かもしれない。嫉妬深いし、仕事人間だし、生活能力もない。……不良債権かもしれない」
閣下は苦笑した。
「だが、君を愛する気持ちだけは、誰にも負けない。君を世界で一番幸せにする自信がある。……この投資、受けてくれないか?」
私は、目の前の男を見つめた。
この国の宰相。
誰もが恐れる冷徹な男。
でも、私の前ではこんなにも必死で、不器用で、愛おしい。
私は脳内の電卓を叩くのをやめた。
損得勘定など、もう必要ない。
答えはずっと前から出ていたのだ。
「……不良債権だなんて、とんでもない」
私は静かに口を開いた。
「閣下は、最高優良物件です」
「え……?」
「顔良し、家柄良し、財力良し。性格に少々難ありですが、それは私が補正(メンテナンス)すればいい話です」
私は指輪を手に取り、自分の左手の薬指にはめた。
サイズは驚くほどぴったりだった。
「それに……」
私は少しだけ顔を赤らめて、視線を逸らした。
「……私にとっても、閣下の隣は、一番居心地の良い『指定席』になってしまいましたから」
「リーフィ……!」
閣下が立ち上がり、私を強く抱きしめた。
「ありがとう……! ありがとう……!」
「く、苦しいです、クライヴ様」
初めて、彼を名前で呼んだ。
クライヴ様はハッとして力を緩め、私の顔を覗き込んだ。
「今、名前を……」
「一度しか言いませんよ」
「もう一度言ってくれ。録音したい」
「却下です」
クライヴ様は幸せそうに笑い、私の顎を持ち上げた。
月明かりの下、私たちの唇が重なる。
それは、契約の印鑑を押すような事務的なものではなく、甘く、長く、深い口づけだった。
「……ん……」
息が続かなくて、私が胸を叩くと、ようやく彼は離れてくれた。
「……これからは、毎日こうしてもいいか?」
「毎日ですか? 頻度については協議が必要です」
「朝昼晩、あとおやつと寝る前だ」
「多すぎます。業務に支障が出ます」
「じゃあ、業務時間外はずっとだ」
「……善処します」
私たちは見つめ合い、笑い合った。
こうして、私たちの関係は「雇用主と従業員」から「真の婚約者」へとアップデートされた。
だが、幸せなプロポーズの余韻に浸る間もなく、私の合理主義脳が再起動する。
「さて、クライヴ様」
「ん? なんだい、愛しの妻よ」
「結婚が決まったとなれば、早急に準備が必要です。式の日取り、招待客リスト、予算編成……タスクが山積みです」
私はドレスのポケットから手帳を取り出した。
「今夜中に素案をまとめましょう。寝ている場合ではありません」
「……え、今から?」
「はい。鉄は熱いうちに打て、結婚準備は勢いがあるうちに、です」
クライヴ様はガックリと肩を落としたが、すぐに楽しそうに笑った。
「わかったよ。……君には敵わないな」
バルコニーから部屋に戻る私たちの背中を、月だけが静かに見守っていた。
この後、結婚式の内容を巡って、「地味婚(効率重視)」派の私と「派手婚(ロマン重視)」派のクライヴ様の間で、仁義なき戦いが勃発することになるのだが、それはまた翌日のお話。
その日の夜。
宰相邸のバルコニー。
私たちは、月明かりの下でグラスを傾けていた。
グラスの中身は、最高級のヴィンテージワイン。
アレクセイ殿下の廃嫡と、国の危機回避を祝しての、二人だけのささやかな祝杯だ。
「ああ。長かったような気もするが、君と出会ってからまだ一ヶ月も経っていないんだな」
クライヴ閣下が、夜風に銀髪をなびかせながら感慨深げに呟く。
「中身の濃い一ヶ月でした。体感では三年分くらいの業務密度でしたね」
「違いあるまい。……君のおかげで、私の人生も激変した」
閣下はグラスを置き、手すりに寄りかかって私を見つめた。
その瞳は、月よりも優しく、そして熱を帯びている。
「リーフィ。改めて礼を言わせてくれ。君がいなければ、私は今頃過労死していたか、国の崩壊に巻き込まれていただろう」
「感謝の言葉は給与明細に添えていただければ結構です」
私はいつものように軽口で返した。
だが、閣下は笑わなかった。
真剣な表情で、私の一歩手前まで近づいてくる。
「……今日は、仕事の話じゃない」
「え?」
「君に伝えなければならないことがある。……契約の話だ」
閣下の雰囲気が変わった。
いつもの「氷の宰相」でも、甘い「溺愛モード」でもない。
一人の男としての、飾らない素顔。
「君と最初に交わした契約を覚えているか? 『業務効率化のためのパートナー』および『王家の干渉を防ぐための偽の婚約者』……だったな」
「はい。双方にとって合理的で、利益のある契約でした」
「ああ。だが……私はもう、その契約内容では満足できない」
閣下の手が、私の頬に触れる。
その指先が微かに震えているのが分かった。
「契約違反かもしれませんが……私は、君を『有能な事務員』としてではなく、一人の女性として見てしまっている」
「……」
「最初は確かに、君の能力に惹かれた。だが、今は違う。君の、困難にも動じない強さが好きだ。美味しい紅茶を淹れてくれる優しさが好きだ。時折見せる、計算高いのにどこか抜けている笑顔が……どうしようもなく愛おしい」
閣下の言葉が、静かな夜に溶けていく。
私の胸の奥が、トクン、と大きく跳ねた。
これは、計算外だ。
いや、薄々は気づいていた。
閣下の独占欲や、甘い言葉の数々。
それらを私は「人材への執着」と変換して処理してきたけれど、本当はずっと、心が揺れていたのだ。
「リーフィ・ベルンシュタイン」
閣下はその場に片膝をついた。
騎士が姫に忠誠を誓うように。
あるいは、男が最愛の女に愛を乞うように。
懐から取り出されたのは、計算機でも書類でもなく、小さなベルベットの箱だった。
パカッ。
中には、夜空の星を閉じ込めたような、大粒のサファイアの指輪が輝いている。
「……結婚してくれ」
シンプルな言葉だった。
「国のためでも、家のためでもない。ただ、私個人として君を求めている。君と一緒なら、どんな困難も乗り越えられる。……君の隣で、共に歳を重ねていきたいんだ」
「閣下……」
「君の『効率』という観点から見れば、私は面倒な男かもしれない。嫉妬深いし、仕事人間だし、生活能力もない。……不良債権かもしれない」
閣下は苦笑した。
「だが、君を愛する気持ちだけは、誰にも負けない。君を世界で一番幸せにする自信がある。……この投資、受けてくれないか?」
私は、目の前の男を見つめた。
この国の宰相。
誰もが恐れる冷徹な男。
でも、私の前ではこんなにも必死で、不器用で、愛おしい。
私は脳内の電卓を叩くのをやめた。
損得勘定など、もう必要ない。
答えはずっと前から出ていたのだ。
「……不良債権だなんて、とんでもない」
私は静かに口を開いた。
「閣下は、最高優良物件です」
「え……?」
「顔良し、家柄良し、財力良し。性格に少々難ありですが、それは私が補正(メンテナンス)すればいい話です」
私は指輪を手に取り、自分の左手の薬指にはめた。
サイズは驚くほどぴったりだった。
「それに……」
私は少しだけ顔を赤らめて、視線を逸らした。
「……私にとっても、閣下の隣は、一番居心地の良い『指定席』になってしまいましたから」
「リーフィ……!」
閣下が立ち上がり、私を強く抱きしめた。
「ありがとう……! ありがとう……!」
「く、苦しいです、クライヴ様」
初めて、彼を名前で呼んだ。
クライヴ様はハッとして力を緩め、私の顔を覗き込んだ。
「今、名前を……」
「一度しか言いませんよ」
「もう一度言ってくれ。録音したい」
「却下です」
クライヴ様は幸せそうに笑い、私の顎を持ち上げた。
月明かりの下、私たちの唇が重なる。
それは、契約の印鑑を押すような事務的なものではなく、甘く、長く、深い口づけだった。
「……ん……」
息が続かなくて、私が胸を叩くと、ようやく彼は離れてくれた。
「……これからは、毎日こうしてもいいか?」
「毎日ですか? 頻度については協議が必要です」
「朝昼晩、あとおやつと寝る前だ」
「多すぎます。業務に支障が出ます」
「じゃあ、業務時間外はずっとだ」
「……善処します」
私たちは見つめ合い、笑い合った。
こうして、私たちの関係は「雇用主と従業員」から「真の婚約者」へとアップデートされた。
だが、幸せなプロポーズの余韻に浸る間もなく、私の合理主義脳が再起動する。
「さて、クライヴ様」
「ん? なんだい、愛しの妻よ」
「結婚が決まったとなれば、早急に準備が必要です。式の日取り、招待客リスト、予算編成……タスクが山積みです」
私はドレスのポケットから手帳を取り出した。
「今夜中に素案をまとめましょう。寝ている場合ではありません」
「……え、今から?」
「はい。鉄は熱いうちに打て、結婚準備は勢いがあるうちに、です」
クライヴ様はガックリと肩を落としたが、すぐに楽しそうに笑った。
「わかったよ。……君には敵わないな」
バルコニーから部屋に戻る私たちの背中を、月だけが静かに見守っていた。
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