悪役令嬢は、婚約破棄を「秒」で承諾する。

パリパリかぷちーの

文字の大きさ
23 / 28

23

しおりを挟む
「……終わりましたね」

その日の夜。

宰相邸のバルコニー。

私たちは、月明かりの下でグラスを傾けていた。

グラスの中身は、最高級のヴィンテージワイン。

アレクセイ殿下の廃嫡と、国の危機回避を祝しての、二人だけのささやかな祝杯だ。

「ああ。長かったような気もするが、君と出会ってからまだ一ヶ月も経っていないんだな」

クライヴ閣下が、夜風に銀髪をなびかせながら感慨深げに呟く。

「中身の濃い一ヶ月でした。体感では三年分くらいの業務密度でしたね」

「違いあるまい。……君のおかげで、私の人生も激変した」

閣下はグラスを置き、手すりに寄りかかって私を見つめた。

その瞳は、月よりも優しく、そして熱を帯びている。

「リーフィ。改めて礼を言わせてくれ。君がいなければ、私は今頃過労死していたか、国の崩壊に巻き込まれていただろう」

「感謝の言葉は給与明細に添えていただければ結構です」

私はいつものように軽口で返した。

だが、閣下は笑わなかった。

真剣な表情で、私の一歩手前まで近づいてくる。

「……今日は、仕事の話じゃない」

「え?」

「君に伝えなければならないことがある。……契約の話だ」

閣下の雰囲気が変わった。

いつもの「氷の宰相」でも、甘い「溺愛モード」でもない。

一人の男としての、飾らない素顔。

「君と最初に交わした契約を覚えているか? 『業務効率化のためのパートナー』および『王家の干渉を防ぐための偽の婚約者』……だったな」

「はい。双方にとって合理的で、利益のある契約でした」

「ああ。だが……私はもう、その契約内容では満足できない」

閣下の手が、私の頬に触れる。

その指先が微かに震えているのが分かった。

「契約違反かもしれませんが……私は、君を『有能な事務員』としてではなく、一人の女性として見てしまっている」

「……」

「最初は確かに、君の能力に惹かれた。だが、今は違う。君の、困難にも動じない強さが好きだ。美味しい紅茶を淹れてくれる優しさが好きだ。時折見せる、計算高いのにどこか抜けている笑顔が……どうしようもなく愛おしい」

閣下の言葉が、静かな夜に溶けていく。

私の胸の奥が、トクン、と大きく跳ねた。

これは、計算外だ。

いや、薄々は気づいていた。

閣下の独占欲や、甘い言葉の数々。

それらを私は「人材への執着」と変換して処理してきたけれど、本当はずっと、心が揺れていたのだ。

「リーフィ・ベルンシュタイン」

閣下はその場に片膝をついた。

騎士が姫に忠誠を誓うように。

あるいは、男が最愛の女に愛を乞うように。

懐から取り出されたのは、計算機でも書類でもなく、小さなベルベットの箱だった。

パカッ。

中には、夜空の星を閉じ込めたような、大粒のサファイアの指輪が輝いている。

「……結婚してくれ」

シンプルな言葉だった。

「国のためでも、家のためでもない。ただ、私個人として君を求めている。君と一緒なら、どんな困難も乗り越えられる。……君の隣で、共に歳を重ねていきたいんだ」

「閣下……」

「君の『効率』という観点から見れば、私は面倒な男かもしれない。嫉妬深いし、仕事人間だし、生活能力もない。……不良債権かもしれない」

閣下は苦笑した。

「だが、君を愛する気持ちだけは、誰にも負けない。君を世界で一番幸せにする自信がある。……この投資、受けてくれないか?」

私は、目の前の男を見つめた。

この国の宰相。

誰もが恐れる冷徹な男。

でも、私の前ではこんなにも必死で、不器用で、愛おしい。

私は脳内の電卓を叩くのをやめた。

損得勘定など、もう必要ない。

答えはずっと前から出ていたのだ。

「……不良債権だなんて、とんでもない」

私は静かに口を開いた。

「閣下は、最高優良物件です」

「え……?」

「顔良し、家柄良し、財力良し。性格に少々難ありですが、それは私が補正(メンテナンス)すればいい話です」

私は指輪を手に取り、自分の左手の薬指にはめた。

サイズは驚くほどぴったりだった。

「それに……」

私は少しだけ顔を赤らめて、視線を逸らした。

「……私にとっても、閣下の隣は、一番居心地の良い『指定席』になってしまいましたから」

「リーフィ……!」

閣下が立ち上がり、私を強く抱きしめた。

「ありがとう……! ありがとう……!」

「く、苦しいです、クライヴ様」

初めて、彼を名前で呼んだ。

クライヴ様はハッとして力を緩め、私の顔を覗き込んだ。

「今、名前を……」

「一度しか言いませんよ」

「もう一度言ってくれ。録音したい」

「却下です」

クライヴ様は幸せそうに笑い、私の顎を持ち上げた。

月明かりの下、私たちの唇が重なる。

それは、契約の印鑑を押すような事務的なものではなく、甘く、長く、深い口づけだった。

「……ん……」

息が続かなくて、私が胸を叩くと、ようやく彼は離れてくれた。

「……これからは、毎日こうしてもいいか?」

「毎日ですか? 頻度については協議が必要です」

「朝昼晩、あとおやつと寝る前だ」

「多すぎます。業務に支障が出ます」

「じゃあ、業務時間外はずっとだ」

「……善処します」

私たちは見つめ合い、笑い合った。

こうして、私たちの関係は「雇用主と従業員」から「真の婚約者」へとアップデートされた。

だが、幸せなプロポーズの余韻に浸る間もなく、私の合理主義脳が再起動する。

「さて、クライヴ様」

「ん? なんだい、愛しの妻よ」

「結婚が決まったとなれば、早急に準備が必要です。式の日取り、招待客リスト、予算編成……タスクが山積みです」

私はドレスのポケットから手帳を取り出した。

「今夜中に素案をまとめましょう。寝ている場合ではありません」

「……え、今から?」

「はい。鉄は熱いうちに打て、結婚準備は勢いがあるうちに、です」

クライヴ様はガックリと肩を落としたが、すぐに楽しそうに笑った。

「わかったよ。……君には敵わないな」

バルコニーから部屋に戻る私たちの背中を、月だけが静かに見守っていた。

この後、結婚式の内容を巡って、「地味婚(効率重視)」派の私と「派手婚(ロマン重視)」派のクライヴ様の間で、仁義なき戦いが勃発することになるのだが、それはまた翌日のお話。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

婚約破棄寸前だった令嬢が殺されかけて眠り姫となり意識を取り戻したら世界が変わっていた話

ひよこ麺
恋愛
シルビア・ベアトリス侯爵令嬢は何もかも完璧なご令嬢だった。婚約者であるリベリオンとの関係を除いては。 リベリオンは公爵家の嫡男で完璧だけれどとても冷たい人だった。それでも彼の幼馴染みで病弱な男爵令嬢のリリアにはとても優しくしていた。 婚約者のシルビアには笑顔ひとつ向けてくれないのに。 どんなに尽くしても努力しても完璧な立ち振る舞いをしても振り返らないリベリオンに疲れてしまったシルビア。その日も舞踏会でエスコートだけしてリリアと居なくなってしまったリベリオンを見ているのが悲しくなりテラスでひとり夜風に当たっていたところ、いきなり何者かに後ろから押されて転落してしまう。 死は免れたが、テラスから転落した際に頭を強く打ったシルビアはそのまま意識を失い、昏睡状態となってしまう。それから3年の月日が流れ、目覚めたシルビアを取り巻く世界は変っていて…… ※正常な人があまりいない話です。

【完結】「お前とは結婚できない」と言われたので出奔したら、なぜか追いかけられています

22時完結
恋愛
「すまない、リディア。お前とは結婚できない」 そう告げたのは、長年婚約者だった王太子エドワード殿下。 理由は、「本当に愛する女性ができたから」――つまり、私以外に好きな人ができたということ。 (まあ、そんな気はしてました) 社交界では目立たない私は、王太子にとってただの「義務」でしかなかったのだろう。 未練もないし、王宮に居続ける理由もない。 だから、婚約破棄されたその日に領地に引きこもるため出奔した。 これからは自由に静かに暮らそう! そう思っていたのに―― 「……なぜ、殿下がここに?」 「お前がいなくなって、ようやく気づいた。リディア、お前が必要だ」 婚約破棄を言い渡した本人が、なぜか私を追いかけてきた!? さらに、冷酷な王国宰相や腹黒な公爵まで現れて、次々に私を手に入れようとしてくる。 「お前は王妃になるべき女性だ。逃がすわけがない」 「いいや、俺の妻になるべきだろう?」 「……私、ただ田舎で静かに暮らしたいだけなんですけど!!」

記憶を失くした悪役令嬢~私に婚約者なんておりましたでしょうか~

Blue
恋愛
マッツォレーラ侯爵の娘、エレオノーラ・マッツォレーラは、第一王子の婚約者。しかし、その婚約者を奪った男爵令嬢を助けようとして今正に、階段から二人まとめて落ちようとしていた。 走馬灯のように、第一王子との思い出を思い出す彼女は、強い衝撃と共に意識を失ったのだった。

白い結婚三年目。つまり離縁できるまで、あと七日ですわ旦那様。

あさぎかな@コミカライズ決定
恋愛
異世界に転生したフランカは公爵夫人として暮らしてきたが、前世から叶えたい夢があった。パティシエールになる。その夢を叶えようと夫である王国財務総括大臣ドミニクに相談するも答えはノー。夫婦らしい交流も、信頼もない中、三年の月日が近づき──フランカは賭に出る。白い結婚三年目で離縁できる条件を満たしていると迫り、夢を叶えられないのなら離縁すると宣言。そこから公爵家一同でフランカに考え直すように動き、ドミニクと話し合いの機会を得るのだがこの夫、山のように隠し事はあった。  無言で睨む夫だが、心の中は──。 【詰んだああああああああああ! もうチェックメイトじゃないか!? 情状酌量の余地はないと!? ああ、どうにかして侍女の準備を阻まなければ! いやそれでは根本的な解決にならない! だいたいなぜ後妻? そんな者はいないのに……。ど、どどどどどうしよう。いなくなるって聞いただけで悲しい。死にたい……うう】 4万文字ぐらいの中編になります。 ※小説なろう、エブリスタに記載してます

私ってわがまま傲慢令嬢なんですか?

山科ひさき
恋愛
政略的に結ばれた婚約とはいえ、婚約者のアランとはそれなりにうまくやれていると思っていた。けれどある日、メアリはアランが自分のことを「わがままで傲慢」だと友人に話している場面に居合わせてしまう。話を聞いていると、なぜかアランはこの婚約がメアリのわがままで結ばれたものだと誤解しているようで……。

お子ちゃま王子様と婚約破棄をしたらその後出会いに恵まれました

さこの
恋愛
   私の婚約者は一つ歳下の王子様。私は伯爵家の娘で資産家の娘です。  学園卒業後は私の家に婿入りすると決まっている。第三王子殿下と言うこともあり甘やかされて育って来て、子供の様に我儘。 婚約者というより歳の離れた弟(出来の悪い)みたい……  この国は実力主義社会なので、我儘王子様は婿入りが一番楽なはずなんだけど……    私は口うるさい?   好きな人ができた?  ……婚約破棄承りました。  全二十四話の、五万字ちょっとの執筆済みになります。完結まで毎日更新します( .ˬ.)"

婚約破棄を申し入れたのは、父です ― 王子様、あなたの企みはお見通しです!

みかぼう。
恋愛
公爵令嬢クラリッサ・エインズワースは、王太子ルーファスの婚約者。 幼い日に「共に国を守ろう」と誓い合ったはずの彼は、 いま、別の令嬢マリアンヌに微笑んでいた。 そして――年末の舞踏会の夜。 「――この婚約、我らエインズワース家の名において、破棄させていただきます!」 エインズワース公爵が力強く宣言した瞬間、 王国の均衡は揺らぎ始める。 誇りを捨てず、誠実を貫く娘。 政の闇に挑む父。 陰謀を暴かんと手を伸ばす宰相の子。 そして――再び立ち上がる若き王女。 ――沈黙は逃げではなく、力の証。 公爵令嬢の誇りが、王国の未来を変える。 ――荘厳で静謐な政略ロマンス。 (本作品は小説家になろうにも掲載中です)

一年後に離婚すると言われてから三年が経ちましたが、まだその気配はありません。

木山楽斗
恋愛
「君とは一年後に離婚するつもりだ」 結婚して早々、私は夫であるマグナスからそんなことを告げられた。 彼曰く、これは親に言われて仕方なくした結婚であり、義理を果たした後は自由な独り身に戻りたいらしい。 身勝手な要求ではあったが、その気持ちが理解できない訳ではなかった。私もまた、親に言われて結婚したからだ。 こうして私は、一年間の期限付きで夫婦生活を送ることになった。 マグナスは紳士的な人物であり、最初に言ってきた要求以外は良き夫であった。故に私は、それなりに楽しい生活を送ることができた。 「もう少し様子を見たいと思っている。流石に一年では両親も納得しそうにない」 一年が経った後、マグナスはそんなことを言ってきた。 それに関しては、私も納得した。彼の言う通り、流石に離婚までが早すぎると思ったからだ。 それから一年後も、マグナスは離婚の話をしなかった。まだ様子を見たいということなのだろう。 夫がいつ離婚を切り出してくるのか、そんなことを思いながら私は日々を過ごしている。今の所、その気配はまったくないのだが。

処理中です...