2 / 28
2
しおりを挟む
「……公爵閣下。耳鼻科の受診をお勧めしますわ」
私は可能な限り冷ややかな視線を彼に浴びせ、端的に告げた。
突然の求婚に対する、私の第一声がこれだ。
目の前に立つ「氷の公爵」アイザック・グランディは、きょとんとした顔をした後、喉を鳴らして低く笑った。
「くくっ……。耳は悪くない。正常だ」
「いいえ、異常です。私の『婚約破棄』という言葉が、『結婚してください』という求愛の言葉に変換されているようですので」
「変換などしていない。君がフリーになったという事実を確認し、即座に申し込みをしただけだ」
「正気ですか? 私はたった今、王太子殿下から『冷酷非道な悪女』として断罪された身ですよ?」
普通なら、関わり合いになるのを避けるはずだ。
我がベルク公爵家は由緒ある家柄だが、王家の不興を買ったとなれば、今後の立場は危うい。
そんな泥舟に、わざわざ自分から乗り込んでくるなんて、リスク管理能力が欠如しているとしか思えない。
私は彼を、憐れむような目で見つめた。
「グランディ公爵。貴方ほどの地位と名誉がある方が、一時の気の迷いで人生を棒に振るのは非効率的です。どうぞお引き取りを」
説得は完璧だと思った。
しかし、アイザック様は引くどころか、さらに距離を詰めてくる。
壁に追い詰められたまま、逃げ場がない。
「気の迷いではない。俺は合理的だ。君ほど俺の妻に相応しい女はいない」
「……どのあたりが?」
「俺は、俺に群がる有象無象の媚びへつらいに飽き飽きしている。だが君は、俺をゴミを見るような目で見つめ、一切媚びず、あまつさえ『耳鼻科に行け』と罵倒した」
彼は恍惚とした表情で、私の手を取り、その甲に口付けを落とした。
「最高だ。その冷徹さこそ、俺の隣に立つ『氷の公爵夫人』に相応しい」
「……」
ダメだ、この人。話が通じない。
私は瞬時に判断を下した。
これ以上、ここで問答を続けるのは時間の無駄だ。
夜風が冷えてきたし、早く帰らないと、お目当ての夜食である『特製ローストビーフの残りで作ったサンドイッチ』が執事に片付けられてしまうかもしれない。
「……お戯れはそこまでに。私は失意のどん底におりますので、これで失礼いたします」
私は強引に手を振りほどき、彼の横をすり抜けようとした。
アイザック様は無理に追いかけてはこなかったが、その背中に向かって、楽しげな声を投げかけてきた。
「明日、改めて屋敷に伺う。釣書と、結納の品を持ってな」
「結構です! 門前払いいたしますから!」
私は振り返らずに言い捨て、早足でその場を去った。
背後から、低く艶のある笑い声が聞こえた気がしたが、全力で無視した。
***
王城の馬車回しに到着すると、我が家の馬車が待機していた。
私は御者に目配せをして、すぐに出発するように促す。
「急いで。可能な限り最速で」
「は、はいっ! かしこまりました、お嬢様!」
御者が慌てて扉を開ける。
私はスカートを翻し、飛び乗るような勢いで馬車に乗り込んだ。
ふぅ、と大きく息を吐き出し、ふかふかのシートに背中を預ける。
これでやっと、完全に一人の空間だ。
「……ふふっ」
笑いが込み上げてくるのを止められなかった。
ついにやった。成し遂げたのだ。
あの地獄のような王太子妃教育からの解放。
そして、クラーク王太子という巨大なストレス源との絶縁。
完璧だ。
これからの人生プランが、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。
まずは明日の朝、誰にも邪魔されずに二度寝をする。
昼過ぎに起きて、ブランチには焼きたてのスコーンを山ほど食べる。
午後は庭の温室で、溜まりに溜まった『月刊・魔導工学』のバックナンバーを一気読みする。
夜は早めにお風呂に入って、最高級の美容液を全身に塗りたくるのだ。
「あぁ……なんて素晴らしいの……!」
想像しただけで、脳内麻薬がドバドバと分泌されるのを感じる。
嬉しすぎて、自然と身体が小刻みに震えてしまった。
肩を震わせ、顔を両手で覆い、込み上げる笑いを必死に噛み殺す。
その時だった。
「……お嬢様」
向かいの席に座っていた侍女のハンナが、涙ぐんだ声で私を呼んだ。
おっと、ハンナの存在を忘れていた。
彼女は私が幼い頃から仕えてくれている、忠実だが少々涙脆い侍女だ。
私が顔を覆ったまま震えているのを見て、何か勘違いをしたらしい。
「お辛いですよね……。あんな大勢の前で、あのような仕打ちを受けるなんて……」
ハンナがハンカチを取り出し、私の膝にそっと手を置く。
「泣いていいのですよ、お嬢様。今はここには、私しかおりません。無理に笑おうとなさらず、思いっきり泣いてくださいまし」
……違う。
そうじゃないんだ、ハンナ。
私は今、これからのニート生活への期待で、歓喜のあまり震えているだけなんだ。
「くっ……くくっ……」
笑いを堪えようとすればするほど、喉の奥から変な声が漏れてしまう。
それをハンナは、嗚咽だと勘違いしたようだ。
「うっ……ううっ……お可哀想なローゼン様……! 今まであんなに必死に、国のために尽くしてこられたのに……!」
ハンナまでもらい泣きを始めてしまった。
これはまずい。
ここで私が「いや、笑ってるだけだから」と顔を上げれば、満面の笑みを晒すことになる。
そんなサイコパスな姿を見せれば、ハンナは腰を抜かすだろう。
あるいは「ショックでおかしくなってしまわれた」と医者を呼ばれかねない。
私は誤解を解くのを諦め、あくまで「悲劇のヒロイン」を演じ切ることにした。
「……ありがとう、ハンナ。でも、私は大丈夫よ……(明日から休みだから)」
「そんな、強がらないでください! 今はご自身の心を一番に考えて……」
「ええ、そうね。だから家に帰ったら、すぐに部屋に籠もらせてもらうわ。(積読を消化するために)」
「はい……! 温かいミルクと、お嬢様のお好きな焼き菓子をお持ちしますね!」
「……チョコレート増し増しでお願いできる?」
「もちろんです! 糖分は傷ついた心に効きますから!」
ハンナは涙を拭いながら、力強く頷いてくれた。
いい子だ。チョイスが分かっている。
こうして馬車は、王都の石畳を駆け抜け、公爵邸へと向かった。
だが、私は知らなかった。
私が王城を飛び出し、馬車の中で「震えていた」という目撃情報が、尾ひれをつけて瞬く間に拡散されていることを。
『ローゼン様、城を出る時、必死に涙を堪えて早歩きされていたわ……』
『馬車に乗り込んだ瞬間、崩れ落ちるように泣き崩れていたらしいぞ』
『侍女も一緒に泣いていたそうだ。よほど無念だったに違いない』
『あの鉄の女が泣くなんて……王太子の仕打ちは、あまりにも酷すぎたのではないか?』
皮肉なことに、私の「無表情」と「合理的な行動」が、勝手に「健気で可哀想な令嬢」という虚像を作り上げていたのだ。
***
公爵邸に到着した私は、出迎えた両親への挨拶もそこそこに、自室へと直行した。
「お父様、お母様。詳しい話は明日いたします。今は一人にしてください(早く本が読みたいので)」
「ロ、ローゼン……」
父である公爵は、私のあまりの気迫(早く部屋に行きたいオーラ)に圧倒され、狼狽えていた。
「そ、そうか。無理もなかろう。ゆっくり休みなさい」
「ありがとうございます。では」
私は一礼し、スカートを翻して階段を駆け上がった。
自室の重厚な扉を開け、中に入り、鍵をかける。
カチャリ。
その金属音が、私にとっての『戦闘終了』のゴングだった。
「終わったぁぁぁぁぁ――!!」
私は叫びながら、天蓋付きのベッドにダイブした。
ふかふかの羽根布団に顔を埋め、手足をバタバタさせる。
コルセットが苦しいが、そんなことはどうでもいい。
「自由! 圧倒的自由! フリーダム!!」
ゴロゴロとベッドの上を転がり回る。
今まで、王太子妃教育のために制限されていた娯楽の数々。
恋愛小説を読むこと。
夜更かしをして、昼まで寝ること。
激甘のスイーツをカロリー計算せずに食べること。
それら全てが解禁されたのだ。
「さて、まずは……」
私は起き上がり、サイドテーブルに積んであった『転生したらスライムだった件について~魔導学的考察~』という分厚い本を手に取った。
これだ。
これを読むために、私は今日という一日を耐え抜いたのだ。
ページを捲る指が震える。
至福の時間。
誰にも邪魔されない、完璧な夜。
そう思っていた。
――コンコン。
控えめなノックの音が、私の至福を中断させた。
「……何かしら?」
私は本を隠し(読む速度が速すぎて引かれるため)、努めて冷静な声を出した。
ハンナだろうか。
約束の焼き菓子を持ってきてくれたのかもしれない。
「ローゼン様、旦那様からです」
扉の向こうから聞こえたのは、執事長の声だった。
「今しがた、王宮騎士団の方から早馬が参りまして」
「騎士団?」
嫌な予感がした。
背筋に冷たいものが走る。
「グランディ公爵閣下より、書簡が届いております。『明日の朝、朝食をご一緒したいので、6時に迎えに行く。拒否権はない』とのことです」
「…………は?」
私は持っていた本を取り落とした。
6時?
朝の、6時?
ニート生活初日の朝に、早起きを強要されるだと?
しかも『拒否権はない』?
「……あの、執事長。私の聞き間違いでなければ、明日の朝6時とおっしゃいました?」
「はい、左様でございます。なお、公爵閣下は『もし起きていなければ、寝起きを襲うのもやぶさかではない』との伝言も……」
「警察(騎士団)を呼んで! ……あ、駄目だ、相手がトップだわ」
私は頭を抱えた。
どうやら、私が手に入れた自由は、想像以上に脆いものだったらしい。
ベッドの上で膝を抱え、私は本気で遠い目をした。
「……私の安眠を妨害する奴は、王太子だろうが公爵だろうが、絶対に許さない」
静かな怒りが、ふつふつと湧き上がってくる。
悲しんでいると誤解されている場合ではない。
これは戦争だ。
私の平穏無事な引きこもりライフを守るための、負けられない戦いが始まったのだ。
私は可能な限り冷ややかな視線を彼に浴びせ、端的に告げた。
突然の求婚に対する、私の第一声がこれだ。
目の前に立つ「氷の公爵」アイザック・グランディは、きょとんとした顔をした後、喉を鳴らして低く笑った。
「くくっ……。耳は悪くない。正常だ」
「いいえ、異常です。私の『婚約破棄』という言葉が、『結婚してください』という求愛の言葉に変換されているようですので」
「変換などしていない。君がフリーになったという事実を確認し、即座に申し込みをしただけだ」
「正気ですか? 私はたった今、王太子殿下から『冷酷非道な悪女』として断罪された身ですよ?」
普通なら、関わり合いになるのを避けるはずだ。
我がベルク公爵家は由緒ある家柄だが、王家の不興を買ったとなれば、今後の立場は危うい。
そんな泥舟に、わざわざ自分から乗り込んでくるなんて、リスク管理能力が欠如しているとしか思えない。
私は彼を、憐れむような目で見つめた。
「グランディ公爵。貴方ほどの地位と名誉がある方が、一時の気の迷いで人生を棒に振るのは非効率的です。どうぞお引き取りを」
説得は完璧だと思った。
しかし、アイザック様は引くどころか、さらに距離を詰めてくる。
壁に追い詰められたまま、逃げ場がない。
「気の迷いではない。俺は合理的だ。君ほど俺の妻に相応しい女はいない」
「……どのあたりが?」
「俺は、俺に群がる有象無象の媚びへつらいに飽き飽きしている。だが君は、俺をゴミを見るような目で見つめ、一切媚びず、あまつさえ『耳鼻科に行け』と罵倒した」
彼は恍惚とした表情で、私の手を取り、その甲に口付けを落とした。
「最高だ。その冷徹さこそ、俺の隣に立つ『氷の公爵夫人』に相応しい」
「……」
ダメだ、この人。話が通じない。
私は瞬時に判断を下した。
これ以上、ここで問答を続けるのは時間の無駄だ。
夜風が冷えてきたし、早く帰らないと、お目当ての夜食である『特製ローストビーフの残りで作ったサンドイッチ』が執事に片付けられてしまうかもしれない。
「……お戯れはそこまでに。私は失意のどん底におりますので、これで失礼いたします」
私は強引に手を振りほどき、彼の横をすり抜けようとした。
アイザック様は無理に追いかけてはこなかったが、その背中に向かって、楽しげな声を投げかけてきた。
「明日、改めて屋敷に伺う。釣書と、結納の品を持ってな」
「結構です! 門前払いいたしますから!」
私は振り返らずに言い捨て、早足でその場を去った。
背後から、低く艶のある笑い声が聞こえた気がしたが、全力で無視した。
***
王城の馬車回しに到着すると、我が家の馬車が待機していた。
私は御者に目配せをして、すぐに出発するように促す。
「急いで。可能な限り最速で」
「は、はいっ! かしこまりました、お嬢様!」
御者が慌てて扉を開ける。
私はスカートを翻し、飛び乗るような勢いで馬車に乗り込んだ。
ふぅ、と大きく息を吐き出し、ふかふかのシートに背中を預ける。
これでやっと、完全に一人の空間だ。
「……ふふっ」
笑いが込み上げてくるのを止められなかった。
ついにやった。成し遂げたのだ。
あの地獄のような王太子妃教育からの解放。
そして、クラーク王太子という巨大なストレス源との絶縁。
完璧だ。
これからの人生プランが、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。
まずは明日の朝、誰にも邪魔されずに二度寝をする。
昼過ぎに起きて、ブランチには焼きたてのスコーンを山ほど食べる。
午後は庭の温室で、溜まりに溜まった『月刊・魔導工学』のバックナンバーを一気読みする。
夜は早めにお風呂に入って、最高級の美容液を全身に塗りたくるのだ。
「あぁ……なんて素晴らしいの……!」
想像しただけで、脳内麻薬がドバドバと分泌されるのを感じる。
嬉しすぎて、自然と身体が小刻みに震えてしまった。
肩を震わせ、顔を両手で覆い、込み上げる笑いを必死に噛み殺す。
その時だった。
「……お嬢様」
向かいの席に座っていた侍女のハンナが、涙ぐんだ声で私を呼んだ。
おっと、ハンナの存在を忘れていた。
彼女は私が幼い頃から仕えてくれている、忠実だが少々涙脆い侍女だ。
私が顔を覆ったまま震えているのを見て、何か勘違いをしたらしい。
「お辛いですよね……。あんな大勢の前で、あのような仕打ちを受けるなんて……」
ハンナがハンカチを取り出し、私の膝にそっと手を置く。
「泣いていいのですよ、お嬢様。今はここには、私しかおりません。無理に笑おうとなさらず、思いっきり泣いてくださいまし」
……違う。
そうじゃないんだ、ハンナ。
私は今、これからのニート生活への期待で、歓喜のあまり震えているだけなんだ。
「くっ……くくっ……」
笑いを堪えようとすればするほど、喉の奥から変な声が漏れてしまう。
それをハンナは、嗚咽だと勘違いしたようだ。
「うっ……ううっ……お可哀想なローゼン様……! 今まであんなに必死に、国のために尽くしてこられたのに……!」
ハンナまでもらい泣きを始めてしまった。
これはまずい。
ここで私が「いや、笑ってるだけだから」と顔を上げれば、満面の笑みを晒すことになる。
そんなサイコパスな姿を見せれば、ハンナは腰を抜かすだろう。
あるいは「ショックでおかしくなってしまわれた」と医者を呼ばれかねない。
私は誤解を解くのを諦め、あくまで「悲劇のヒロイン」を演じ切ることにした。
「……ありがとう、ハンナ。でも、私は大丈夫よ……(明日から休みだから)」
「そんな、強がらないでください! 今はご自身の心を一番に考えて……」
「ええ、そうね。だから家に帰ったら、すぐに部屋に籠もらせてもらうわ。(積読を消化するために)」
「はい……! 温かいミルクと、お嬢様のお好きな焼き菓子をお持ちしますね!」
「……チョコレート増し増しでお願いできる?」
「もちろんです! 糖分は傷ついた心に効きますから!」
ハンナは涙を拭いながら、力強く頷いてくれた。
いい子だ。チョイスが分かっている。
こうして馬車は、王都の石畳を駆け抜け、公爵邸へと向かった。
だが、私は知らなかった。
私が王城を飛び出し、馬車の中で「震えていた」という目撃情報が、尾ひれをつけて瞬く間に拡散されていることを。
『ローゼン様、城を出る時、必死に涙を堪えて早歩きされていたわ……』
『馬車に乗り込んだ瞬間、崩れ落ちるように泣き崩れていたらしいぞ』
『侍女も一緒に泣いていたそうだ。よほど無念だったに違いない』
『あの鉄の女が泣くなんて……王太子の仕打ちは、あまりにも酷すぎたのではないか?』
皮肉なことに、私の「無表情」と「合理的な行動」が、勝手に「健気で可哀想な令嬢」という虚像を作り上げていたのだ。
***
公爵邸に到着した私は、出迎えた両親への挨拶もそこそこに、自室へと直行した。
「お父様、お母様。詳しい話は明日いたします。今は一人にしてください(早く本が読みたいので)」
「ロ、ローゼン……」
父である公爵は、私のあまりの気迫(早く部屋に行きたいオーラ)に圧倒され、狼狽えていた。
「そ、そうか。無理もなかろう。ゆっくり休みなさい」
「ありがとうございます。では」
私は一礼し、スカートを翻して階段を駆け上がった。
自室の重厚な扉を開け、中に入り、鍵をかける。
カチャリ。
その金属音が、私にとっての『戦闘終了』のゴングだった。
「終わったぁぁぁぁぁ――!!」
私は叫びながら、天蓋付きのベッドにダイブした。
ふかふかの羽根布団に顔を埋め、手足をバタバタさせる。
コルセットが苦しいが、そんなことはどうでもいい。
「自由! 圧倒的自由! フリーダム!!」
ゴロゴロとベッドの上を転がり回る。
今まで、王太子妃教育のために制限されていた娯楽の数々。
恋愛小説を読むこと。
夜更かしをして、昼まで寝ること。
激甘のスイーツをカロリー計算せずに食べること。
それら全てが解禁されたのだ。
「さて、まずは……」
私は起き上がり、サイドテーブルに積んであった『転生したらスライムだった件について~魔導学的考察~』という分厚い本を手に取った。
これだ。
これを読むために、私は今日という一日を耐え抜いたのだ。
ページを捲る指が震える。
至福の時間。
誰にも邪魔されない、完璧な夜。
そう思っていた。
――コンコン。
控えめなノックの音が、私の至福を中断させた。
「……何かしら?」
私は本を隠し(読む速度が速すぎて引かれるため)、努めて冷静な声を出した。
ハンナだろうか。
約束の焼き菓子を持ってきてくれたのかもしれない。
「ローゼン様、旦那様からです」
扉の向こうから聞こえたのは、執事長の声だった。
「今しがた、王宮騎士団の方から早馬が参りまして」
「騎士団?」
嫌な予感がした。
背筋に冷たいものが走る。
「グランディ公爵閣下より、書簡が届いております。『明日の朝、朝食をご一緒したいので、6時に迎えに行く。拒否権はない』とのことです」
「…………は?」
私は持っていた本を取り落とした。
6時?
朝の、6時?
ニート生活初日の朝に、早起きを強要されるだと?
しかも『拒否権はない』?
「……あの、執事長。私の聞き間違いでなければ、明日の朝6時とおっしゃいました?」
「はい、左様でございます。なお、公爵閣下は『もし起きていなければ、寝起きを襲うのもやぶさかではない』との伝言も……」
「警察(騎士団)を呼んで! ……あ、駄目だ、相手がトップだわ」
私は頭を抱えた。
どうやら、私が手に入れた自由は、想像以上に脆いものだったらしい。
ベッドの上で膝を抱え、私は本気で遠い目をした。
「……私の安眠を妨害する奴は、王太子だろうが公爵だろうが、絶対に許さない」
静かな怒りが、ふつふつと湧き上がってくる。
悲しんでいると誤解されている場合ではない。
これは戦争だ。
私の平穏無事な引きこもりライフを守るための、負けられない戦いが始まったのだ。
63
あなたにおすすめの小説
悪役令嬢まさかの『家出』
にとこん。
恋愛
王国の侯爵令嬢ルゥナ=フェリシェは、些細なすれ違いから突発的に家出をする。本人にとっては軽いお散歩のつもりだったが、方向音痴の彼女はそのまま隣国の帝国に迷い込み、なぜか牢獄に収監される羽目に。しかし無自覚な怪力と天然ぶりで脱獄してしまい、道に迷うたびに騒動を巻き起こす。
一方、婚約破棄を告げようとした王子レオニスは、当日にルゥナが失踪したことで騒然。王宮も侯爵家も大混乱となり、レオニス自身が捜索に出るが、恐らく最後まで彼女とは一度も出会えない。
ルゥナは道に迷っただけなのに、なぜか人助けを繰り返し、帝国の各地で英雄視されていく。そして気づけば彼女を慕う男たちが集まり始め、逆ハーレムの中心に。だが本人は一切自覚がなく、むしろ全員の好意に対して煙たがっている。
帰るつもりもなく、目的もなく、ただ好奇心のままに彷徨う“無害で最強な天然令嬢”による、帝国大騒動ギャグ恋愛コメディ、ここに開幕!
【完結】転生したら悪役継母でした
入魚ひえん@発売中◆巻き戻り冤罪令嬢◆
恋愛
聖女を優先する夫に避けられていたアルージュ。
その夜、夫が初めて寝室にやってきて命じたのは「聖女の隠し子を匿え」という理不尽なものだった。
しかも隠し子は、夫と同じ髪の色。
絶望するアルージュはよろめいて鏡にぶつかり、前世に読んだウェブ小説の悪妻に転生していることを思い出す。
記憶を取り戻すと、七年間も苦しんだ夫への愛は綺麗さっぱり消えた。
夫に奪われていたもの、不正の事実を着々と精算していく。
◆愛されない悪妻が前世を思い出して転身したら、可愛い継子や最強の旦那様ができて、転生前の知識でスイーツやグルメ、家電を再現していく、異世界転生ファンタジー!◆
*旧題:転生したら悪妻でした
心配するな、俺の本命は別にいる——冷酷王太子と籠の花嫁
柴田はつみ
恋愛
王国の公爵令嬢セレーネは、家を守るために王太子レオニスとの政略結婚を命じられる。
婚約の儀の日、彼が告げた冷酷な一言——「心配するな。俺の好きな人は別にいる」。
その言葉はセレーネの心を深く傷つけ、王宮での新たな生活は噂と誤解に満ちていく。
好きな人が別にいるはずの彼が、なぜか自分にだけ独占欲を見せる。
嫉妬、疑念、陰謀が渦巻くなかで明らかになる「真実」。
契約から始まった婚約は、やがて運命を変える愛の物語へと変わっていく——。
婚約破棄されたので、前世の知識で無双しますね?
ほーみ
恋愛
「……よって、君との婚約は破棄させてもらう!」
華やかな舞踏会の最中、婚約者である王太子アルベルト様が高らかに宣言した。
目の前には、涙ぐみながら私を見つめる金髪碧眼の美しい令嬢。確か侯爵家の三女、リリア・フォン・クラウゼルだったかしら。
──あら、デジャヴ?
「……なるほど」
訳ありヒロインは、前世が悪役令嬢だった。王妃教育を終了していた私は皆に認められる存在に。でも復讐はするわよ?
naturalsoft
恋愛
私の前世は公爵令嬢であり、王太子殿下の婚約者だった。しかし、光魔法の使える男爵令嬢に汚名を着せられて、婚約破棄された挙げ句、処刑された。
私は最後の瞬間に一族の秘術を使い過去に戻る事に成功した。
しかし、イレギュラーが起きた。
何故か宿敵である男爵令嬢として過去に戻ってしまっていたのだ。
次期国王様の寵愛を受けるいじめられっこの私と没落していくいじめっこの貴族令嬢
さら
恋愛
名門公爵家の娘・レティシアは、幼い頃から“地味で鈍くさい”と同級生たちに嘲られ、社交界では笑い者にされてきた。中でも、侯爵令嬢セリーヌによる陰湿ないじめは日常茶飯事。誰も彼女を助けず、婚約の話も破談となり、レティシアは「無能な令嬢」として居場所を失っていく。
しかし、そんな彼女に運命の転機が訪れた。
王立学園での舞踏会の夜、次期国王アレクシス殿下が突然、レティシアの手を取り――「君が、私の隣にふさわしい」と告げたのだ。
戸惑う彼女をよそに、殿下は一途な想いを示し続け、やがてレティシアは“王妃教育”を受けながら、自らの力で未来を切り開いていく。いじめられっこだった少女は、人々の声に耳を傾け、改革を導く“知恵ある王妃”へと成長していくのだった。
一方、他人を見下し続けてきたセリーヌは、過去の行いが明るみに出て家の地位を失い、婚約者にも見放されて没落していく――。
王太子妃専属侍女の結婚事情
蒼あかり
恋愛
伯爵家の令嬢シンシアは、ラドフォード王国 王太子妃の専属侍女だ。
未だ婚約者のいない彼女のために、王太子と王太子妃の命で見合いをすることに。
相手は王太子の側近セドリック。
ところが、幼い見た目とは裏腹に令嬢らしからぬはっきりとした物言いのキツイ性格のシンシアは、それが元でお見合いをこじらせてしまうことに。
そんな二人の行く末は......。
☆恋愛色は薄めです。
☆完結、予約投稿済み。
新年一作目は頑張ってハッピーエンドにしてみました。
ふたりの喧嘩のような言い合いを楽しんでいただければと思います。
そこまで激しくはないですが、そういうのが苦手な方はご遠慮ください。
よろしくお願いいたします。
冷遇妃マリアベルの監視報告書
Mag_Mel
ファンタジー
シルフィード王国に敗戦国ソラリから献上されたのは、"太陽の姫"と讃えられた妹ではなく、悪女と噂される姉、マリアベル。
第一王子の四番目の妃として迎えられた彼女は、王宮の片隅に追いやられ、嘲笑と陰湿な仕打ちに晒され続けていた。
そんな折、「王家の影」は第三王子セドリックよりマリアベルの監視業務を命じられる。年若い影が記す報告書には、ただ静かに耐え続け、死を待つかのように振舞うひとりの女の姿があった。
王位継承争いと策謀が渦巻く王宮で、冷遇妃の運命は思わぬ方向へと狂い始める――。
(小説家になろう様にも投稿しています)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる