婚約破棄された悪役令嬢なのに、なぜか求婚される?

パリパリかぷちーの

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「……公爵閣下。耳鼻科の受診をお勧めしますわ」

私は可能な限り冷ややかな視線を彼に浴びせ、端的に告げた。

突然の求婚に対する、私の第一声がこれだ。

目の前に立つ「氷の公爵」アイザック・グランディは、きょとんとした顔をした後、喉を鳴らして低く笑った。

「くくっ……。耳は悪くない。正常だ」

「いいえ、異常です。私の『婚約破棄』という言葉が、『結婚してください』という求愛の言葉に変換されているようですので」

「変換などしていない。君がフリーになったという事実を確認し、即座に申し込みをしただけだ」

「正気ですか? 私はたった今、王太子殿下から『冷酷非道な悪女』として断罪された身ですよ?」

普通なら、関わり合いになるのを避けるはずだ。

我がベルク公爵家は由緒ある家柄だが、王家の不興を買ったとなれば、今後の立場は危うい。

そんな泥舟に、わざわざ自分から乗り込んでくるなんて、リスク管理能力が欠如しているとしか思えない。

私は彼を、憐れむような目で見つめた。

「グランディ公爵。貴方ほどの地位と名誉がある方が、一時の気の迷いで人生を棒に振るのは非効率的です。どうぞお引き取りを」

説得は完璧だと思った。

しかし、アイザック様は引くどころか、さらに距離を詰めてくる。

壁に追い詰められたまま、逃げ場がない。

「気の迷いではない。俺は合理的だ。君ほど俺の妻に相応しい女はいない」

「……どのあたりが?」

「俺は、俺に群がる有象無象の媚びへつらいに飽き飽きしている。だが君は、俺をゴミを見るような目で見つめ、一切媚びず、あまつさえ『耳鼻科に行け』と罵倒した」

彼は恍惚とした表情で、私の手を取り、その甲に口付けを落とした。

「最高だ。その冷徹さこそ、俺の隣に立つ『氷の公爵夫人』に相応しい」

「……」

ダメだ、この人。話が通じない。

私は瞬時に判断を下した。

これ以上、ここで問答を続けるのは時間の無駄だ。

夜風が冷えてきたし、早く帰らないと、お目当ての夜食である『特製ローストビーフの残りで作ったサンドイッチ』が執事に片付けられてしまうかもしれない。

「……お戯れはそこまでに。私は失意のどん底におりますので、これで失礼いたします」

私は強引に手を振りほどき、彼の横をすり抜けようとした。

アイザック様は無理に追いかけてはこなかったが、その背中に向かって、楽しげな声を投げかけてきた。

「明日、改めて屋敷に伺う。釣書と、結納の品を持ってな」

「結構です! 門前払いいたしますから!」

私は振り返らずに言い捨て、早足でその場を去った。

背後から、低く艶のある笑い声が聞こえた気がしたが、全力で無視した。

 ***

王城の馬車回しに到着すると、我が家の馬車が待機していた。

私は御者に目配せをして、すぐに出発するように促す。

「急いで。可能な限り最速で」

「は、はいっ! かしこまりました、お嬢様!」

御者が慌てて扉を開ける。

私はスカートを翻し、飛び乗るような勢いで馬車に乗り込んだ。

ふぅ、と大きく息を吐き出し、ふかふかのシートに背中を預ける。

これでやっと、完全に一人の空間だ。

「……ふふっ」

笑いが込み上げてくるのを止められなかった。

ついにやった。成し遂げたのだ。

あの地獄のような王太子妃教育からの解放。

そして、クラーク王太子という巨大なストレス源との絶縁。

完璧だ。

これからの人生プランが、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。

まずは明日の朝、誰にも邪魔されずに二度寝をする。

昼過ぎに起きて、ブランチには焼きたてのスコーンを山ほど食べる。

午後は庭の温室で、溜まりに溜まった『月刊・魔導工学』のバックナンバーを一気読みする。

夜は早めにお風呂に入って、最高級の美容液を全身に塗りたくるのだ。

「あぁ……なんて素晴らしいの……!」

想像しただけで、脳内麻薬がドバドバと分泌されるのを感じる。

嬉しすぎて、自然と身体が小刻みに震えてしまった。

肩を震わせ、顔を両手で覆い、込み上げる笑いを必死に噛み殺す。

その時だった。

「……お嬢様」

向かいの席に座っていた侍女のハンナが、涙ぐんだ声で私を呼んだ。

おっと、ハンナの存在を忘れていた。

彼女は私が幼い頃から仕えてくれている、忠実だが少々涙脆い侍女だ。

私が顔を覆ったまま震えているのを見て、何か勘違いをしたらしい。

「お辛いですよね……。あんな大勢の前で、あのような仕打ちを受けるなんて……」

ハンナがハンカチを取り出し、私の膝にそっと手を置く。

「泣いていいのですよ、お嬢様。今はここには、私しかおりません。無理に笑おうとなさらず、思いっきり泣いてくださいまし」

……違う。

そうじゃないんだ、ハンナ。

私は今、これからのニート生活への期待で、歓喜のあまり震えているだけなんだ。

「くっ……くくっ……」

笑いを堪えようとすればするほど、喉の奥から変な声が漏れてしまう。

それをハンナは、嗚咽だと勘違いしたようだ。

「うっ……ううっ……お可哀想なローゼン様……! 今まであんなに必死に、国のために尽くしてこられたのに……!」

ハンナまでもらい泣きを始めてしまった。

これはまずい。

ここで私が「いや、笑ってるだけだから」と顔を上げれば、満面の笑みを晒すことになる。

そんなサイコパスな姿を見せれば、ハンナは腰を抜かすだろう。

あるいは「ショックでおかしくなってしまわれた」と医者を呼ばれかねない。

私は誤解を解くのを諦め、あくまで「悲劇のヒロイン」を演じ切ることにした。

「……ありがとう、ハンナ。でも、私は大丈夫よ……(明日から休みだから)」

「そんな、強がらないでください! 今はご自身の心を一番に考えて……」

「ええ、そうね。だから家に帰ったら、すぐに部屋に籠もらせてもらうわ。(積読を消化するために)」

「はい……! 温かいミルクと、お嬢様のお好きな焼き菓子をお持ちしますね!」

「……チョコレート増し増しでお願いできる?」

「もちろんです! 糖分は傷ついた心に効きますから!」

ハンナは涙を拭いながら、力強く頷いてくれた。

いい子だ。チョイスが分かっている。

こうして馬車は、王都の石畳を駆け抜け、公爵邸へと向かった。

だが、私は知らなかった。

私が王城を飛び出し、馬車の中で「震えていた」という目撃情報が、尾ひれをつけて瞬く間に拡散されていることを。

『ローゼン様、城を出る時、必死に涙を堪えて早歩きされていたわ……』

『馬車に乗り込んだ瞬間、崩れ落ちるように泣き崩れていたらしいぞ』

『侍女も一緒に泣いていたそうだ。よほど無念だったに違いない』

『あの鉄の女が泣くなんて……王太子の仕打ちは、あまりにも酷すぎたのではないか?』

皮肉なことに、私の「無表情」と「合理的な行動」が、勝手に「健気で可哀想な令嬢」という虚像を作り上げていたのだ。

 ***

公爵邸に到着した私は、出迎えた両親への挨拶もそこそこに、自室へと直行した。

「お父様、お母様。詳しい話は明日いたします。今は一人にしてください(早く本が読みたいので)」

「ロ、ローゼン……」

父である公爵は、私のあまりの気迫(早く部屋に行きたいオーラ)に圧倒され、狼狽えていた。

「そ、そうか。無理もなかろう。ゆっくり休みなさい」

「ありがとうございます。では」

私は一礼し、スカートを翻して階段を駆け上がった。

自室の重厚な扉を開け、中に入り、鍵をかける。

カチャリ。

その金属音が、私にとっての『戦闘終了』のゴングだった。

「終わったぁぁぁぁぁ――!!」

私は叫びながら、天蓋付きのベッドにダイブした。

ふかふかの羽根布団に顔を埋め、手足をバタバタさせる。

コルセットが苦しいが、そんなことはどうでもいい。

「自由! 圧倒的自由! フリーダム!!」

ゴロゴロとベッドの上を転がり回る。

今まで、王太子妃教育のために制限されていた娯楽の数々。

恋愛小説を読むこと。

夜更かしをして、昼まで寝ること。

激甘のスイーツをカロリー計算せずに食べること。

それら全てが解禁されたのだ。

「さて、まずは……」

私は起き上がり、サイドテーブルに積んであった『転生したらスライムだった件について~魔導学的考察~』という分厚い本を手に取った。

これだ。

これを読むために、私は今日という一日を耐え抜いたのだ。

ページを捲る指が震える。

至福の時間。

誰にも邪魔されない、完璧な夜。

そう思っていた。

――コンコン。

控えめなノックの音が、私の至福を中断させた。

「……何かしら?」

私は本を隠し(読む速度が速すぎて引かれるため)、努めて冷静な声を出した。

ハンナだろうか。

約束の焼き菓子を持ってきてくれたのかもしれない。

「ローゼン様、旦那様からです」

扉の向こうから聞こえたのは、執事長の声だった。

「今しがた、王宮騎士団の方から早馬が参りまして」

「騎士団?」

嫌な予感がした。

背筋に冷たいものが走る。

「グランディ公爵閣下より、書簡が届いております。『明日の朝、朝食をご一緒したいので、6時に迎えに行く。拒否権はない』とのことです」

「…………は?」

私は持っていた本を取り落とした。

6時?

朝の、6時?

ニート生活初日の朝に、早起きを強要されるだと?

しかも『拒否権はない』?

「……あの、執事長。私の聞き間違いでなければ、明日の朝6時とおっしゃいました?」

「はい、左様でございます。なお、公爵閣下は『もし起きていなければ、寝起きを襲うのもやぶさかではない』との伝言も……」

「警察(騎士団)を呼んで! ……あ、駄目だ、相手がトップだわ」

私は頭を抱えた。

どうやら、私が手に入れた自由は、想像以上に脆いものだったらしい。

ベッドの上で膝を抱え、私は本気で遠い目をした。

「……私の安眠を妨害する奴は、王太子だろうが公爵だろうが、絶対に許さない」

静かな怒りが、ふつふつと湧き上がってくる。

悲しんでいると誤解されている場合ではない。

これは戦争だ。

私の平穏無事な引きこもりライフを守るための、負けられない戦いが始まったのだ。
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