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午前5時55分。
私は、地獄の底から響いてくるような低い唸り声を上げながら、鏡の前に立っていた。
「……殺す」
鏡に映る自分の顔は、いつにも増して凶悪だった。
寝不足による目の下のクマ。
低血圧による顔色の悪さ。
そして、強制的に早起きさせられたことへの激しい憤り。
それらが絶妙なハーモニーを奏で、ただでさえ目つきの悪い私を、もはや「通り魔」レベルの形相へと変貌させていた。
「お、お嬢様……ファンデーションを厚めに塗って、クマを隠しましょうか?」
侍女のハンナが、震える手でパフを差し出してくる。
私は首を横に振った。
「いいえ、必要ないわ。ありのままの姿を見せて、相手をドン引きさせる作戦よ」
「は、はあ……(ドン引きというか、気絶させそうな迫力ですが……)」
「大体、朝の6時に訪問してくるなんて、非常識にも程があるわ。公爵だか何だか知らないけれど、睡眠妨害罪で訴えてやる」
私はブツブツと文句を垂れ流しながら、身支度を整えた。
ドレスは着ない。
動きやすく、かつ相手に「貴方を歓迎していません」という意思表示をするため、あえて地味な平服(家着に近いワンピース)を選んだ。
ボサボサの髪も、適当に一つに束ねただけ。
これでいい。
「百年の恋も冷める」という言葉があるが、今日の私は「千年の恋も凍りつく」レベルのはずだ。
これでアイザック・グランディとかいう変人が、「やっぱり結婚はやめる」と言い出せば、私の勝利である。
ゴーン、ゴーン、ゴーン……。
屋敷の古時計が、午前6時を告げた。
その瞬間。
「ローゼン嬢! 迎えに来たぞ!」
玄関ホールから、馬鹿でかい声が響き渡った。
早すぎる。
時間厳守にも程がある。
私は舌打ちを一つして、重い足取りで応接間へと向かった。
***
応接間には、すでに父と母が正装して待機していた。
二人とも顔面蒼白で、ガタガタと震えている。
「お、おいローゼン! なんだその格好は! 相手はグランディ公爵だぞ!?」
父が私の姿を見て悲鳴を上げた。
「おはようございます、お父様。早朝の突然の来客に対応するのですから、これで十分です」
「ば、馬鹿者! 先方は『求婚』に来たと言っておられるのだぞ! もっと色気のある格好は……」
「ありません(断固拒否)」
私が父を一刀両断したその時、扉が開かれた。
「失礼する」
現れたのは、朝の光よりも眩しい、銀髪の美丈夫だった。
アイザック・グランディ。
彼は完璧に仕立てられた騎士服に身を包み、一点の曇りもない爽やかな(ただし目つきは鋭い)表情で立っていた。
その背後には、山のような荷物を抱えた部下たちが控えている。
アイザック様は私を見るなり、目を見開いた。
そして、みるみるうちに頬を紅潮させた。
「……素晴らしい」
「はい?」
「寝起きの不機嫌さ全開の顔。髪の乱れ。そして、『帰れ』と全身で語っているその殺気……。これほど無防備な君を見られるのは、夫となる俺だけの特権というわけか」
「……頭、打ってます?」
「いや、打たれたのは心だ。君という存在にな」
アイザック様は流れるような動作で私の手を取り、跪いた。
「おはよう、我が愛しきローゼン。今日も最高の軽蔑をありがとう」
「どういたしまして。で、何をしに来たのですか? 今は朝食の時間ですが」
「そう、朝食だ。君と一緒に食べたくて、我が家のシェフごと持ってきた」
彼が指をパチンと鳴らすと、部下たちがテキパキと動き出した。
あれよあれよという間に、応接間のテーブルに豪華絢爛な料理が並べられていく。
焼きたてのパンの香り。
とろけるようなオムレツ。
旬のフルーツに、最高級の紅茶。
私の腹の虫が、盛大に鳴った。
「ぐぅ~……」
静寂。
父と母が凍りつく。
しかし、アイザック様は満面の笑み(当社比)で言った。
「食欲旺盛で何よりだ。さあ、座ってくれ。冷めないうちに」
……悔しいが、今の私に空腹へ抗う術はない。
私は無言で席に着き、ナイフとフォークを構えた。
「いただきます(合理的判断)」
一口食べた瞬間、口の中に天国が広がった。
美味しい。
王城の堅苦しい料理とは比べ物にならないほど、繊細で優しい味だ。
私が無心でオムレツを口に運んでいると、アイザック様が頬杖をついて、じっとこちらを見つめていることに気づいた。
「……何ですか。食べにくいのですが」
「いや、小動物が餌を頬張っているようで可愛いと思ってな」
「私は猛獣です。噛みつきますよ」
「ぜひ頼む。甘噛みではなく、本気で噛みついてくれ」
「……」
会話のドッジボールが成立しない。
私は諦めて食事に集中することにした。
一通り食べ終え、紅茶を飲んで人心地ついたところで、アイザック様が本題を切り出した。
「さて、ローゼン。単刀直入に言おう。俺と結婚してくれ」
「お断りします」
私は即答した。
「理由は?」
「第一に、私は昨日婚約破棄されたばかりで、恋愛などする気力がありません。第二に、私はこれから自堕落な生活を送ると決めています。第三に、貴方のような変態に関わるのはリスクが高すぎます」
論理的な反論だ。
しかし、アイザック様は涼しい顔で、懐から一枚の書類を取り出した。
「ふむ。君の希望は『働きたくない』『自堕落に生きたい』『面倒ごとは嫌だ』。これで合っているか?」
「……まあ、要約すればそうです」
「ならば、尚更俺と結婚するべきだ。これを見ろ」
彼が差し出したのは、羊皮紙に書かれた契約書だった。
そこには、驚くべき条件が羅列されていた。
『甲(アイザック)は乙(ローゼン)に対し、以下の権利を保証する』
1.公務および家事の一切を免除する。
2.乙の生活費、遊興費、図書費は無制限に支給する。
3.乙の睡眠時間を最優先し、午前10時前の起床を強要しない。
4.乙の実家であるベルク公爵家の借金(約5億ゴールド)を、甲が全額肩代わりする。
「……はい?」
私は目を疑った。
1から3までは、ただの好条件だ。
だが、4番。
「ち、父上? 我が家に借金が?」
私は震える声で父に尋ねた。
父は滝のような冷や汗を流しながら、目を泳がせた。
「あー、その、なんだ……。事業に失敗したというか、詐欺に遭ったというか……。王太子殿下との婚約があったから、なんとか返済を待ってもらっていたのだが……」
「婚約破棄された今、一括返済を迫られているというわけですか」
「……面目ない!」
父が土下座した。
私は目の前が真っ暗になった。
ニート生活どころではない。
このままでは路頭に迷うか、借金のカタにどこかの好色爺の元へ売られるかだ。
アイザック様が、悪魔の微笑みを浮かべて囁く。
「どうだ? 俺と結婚すれば、借金はチャラ。君は一生、遊んで暮らせる。衣食住は最高ランクを保証しよう。君が望むなら、一日中本を読んでいてもいいし、俺を無視しても構わない」
「……対価は? 貴方に何のメリットがあるのですか?」
「君が家にいる。それだけでいい」
彼は真剣な眼差しで言った。
「俺は、君のその『他人に一切期待していない目』が好きなんだ。仕事から帰って、君に『おかえり』と言われる必要はない。『まだ帰ってこなくてよかったのに』という顔で出迎えられたい」
「……」
「君が俺の金で勝手に本を買い、俺の存在を無視して読み耽る姿を、酒を飲みながら鑑賞したい」
「……」
「つまり、俺にとって君は、最高級の観賞用植物であり、癒やしの存在なのだ。どうだ、悪い話ではないだろう?」
私は、脳内で天秤を揺らした。
右の皿には、変態公爵との結婚生活。
左の皿には、実家の破産と路頭に迷う未来。
……比べるまでもない。
私はスッと手を差し出した。
「ペンを貸してください」
「交渉成立か?」
「はい。その条件、飲みましょう。ただし、特約事項を追加します」
私は契約書の余白に、さらさらと書き加えた。
5.寝室は別々にすること。
6.過度なスキンシップ(公共の場を除く)は、一回につき追加料金10万ゴールドを支払うこと。
「これでどうですか」
アイザック様はそれを読み、ニヤリと笑った。
「……金で解決できるなら安いものだ。契約しよう」
「商談成立ですね」
私たちは、ガッチリと握手を交わした。
愛などない。
あるのは利害の一致のみ。
これは結婚ではない。「永久就職」だ。
私は心の中でガッツポーズをした。
(勝った! 借金返済、衣食住確保、そしてニート権の獲得! 多少、夫が変態でも、無視していれば問題ないわ!)
こうして私は、婚約破棄からわずか12時間後に、氷の公爵アイザック・グランディの婚約者となったのである。
「では、早速だが荷物をまとめてくれ。今日中に我が家へ引っ越そう」
「は? 今日?」
「善は急げだ。それに、クラーク殿下が復縁を迫ってくる可能性もある。君の身柄は、俺のテリトリーに置いておくのが一番安全だ」
確かに、その点に関しては彼の方が正しい。
あのナルシスト王子のことだ。「やはりお前には俺が必要だろう?」などと言ってきかねない。
「わかりました。ハンナ、荷造りを」
「はい! お嬢様、おめでとうございます……うっ、ううっ……こんなに早く貰い手がつくなんて……!」
「ハンナ、泣かないで。これは『就職』よ」
「いいえ、愛ですわ! あんなに熱烈なプロポーズ、初めて見ました!」
違う、そうじゃない。
あれはプロポーズというより、変態の犯行予告だ。
けれど、ハンナが幸せそうなら訂正する必要もないか。
私は溜息をつきながら、自室へと戻ろうとした。
その時。
ドタドタと慌ただしい足音が廊下から聞こえてきた。
「ローゼン! ローゼンはいるか!?」
聞き覚えのある、無駄に良い声。
私はピタリと足を止めた。
まさか。
いや、早すぎる。
玄関の扉がバーンと開かれ、そこに立っていたのは――
バラの花束を抱えた、クラーク王太子だった。
「クラーク様……?」
私が呟くと、彼は輝くような笑顔でこちらに駆け寄ってきた。
「おお、ローゼン! やはり家にいたか! 昨日は言い過ぎた! 君が泣きながら走り去る姿を見て、僕も眠れなかったんだ!」
……走ってはいない。競歩だ。
そして泣いてもいない。笑いを堪えていただけだ。
クラーク様は、私の隣にいるアイザック様の存在に気づき、眉を顰めた。
「む、グランディ公爵? なぜ貴殿がここにいる?」
アイザック様は、私を背に庇うようにして前に出た。
その表情からは、先ほどまでのふざけた笑みは消え失せ、文字通り「氷」のような冷気が漂っていた。
「……王太子殿下。私の婚約者に、何か御用でしょうか?」
「は? 婚約者?」
クラーク様が鳩が豆鉄砲を食らったような顔をする。
「何を言っている。ローゼンは僕の……」
「貴方が捨てたゴミ……いいえ、貴方が手放した宝石を、私が拾い上げたのです」
アイザック様は私の肩を抱き寄せ、勝ち誇ったように宣言した。
「ローゼン・ベルクは、もはや貴殿のものではない。私の妻になる女性だ」
「なっ……!?」
クラーク様の手から、バラの花束がボトりと落ちた。
私はその様子を、アイザック様の背中越しに無表情で見つめながら思った。
(ああ、面倒くさいことになった……)
私の平穏なニート生活は、前途多難である。
私は、地獄の底から響いてくるような低い唸り声を上げながら、鏡の前に立っていた。
「……殺す」
鏡に映る自分の顔は、いつにも増して凶悪だった。
寝不足による目の下のクマ。
低血圧による顔色の悪さ。
そして、強制的に早起きさせられたことへの激しい憤り。
それらが絶妙なハーモニーを奏で、ただでさえ目つきの悪い私を、もはや「通り魔」レベルの形相へと変貌させていた。
「お、お嬢様……ファンデーションを厚めに塗って、クマを隠しましょうか?」
侍女のハンナが、震える手でパフを差し出してくる。
私は首を横に振った。
「いいえ、必要ないわ。ありのままの姿を見せて、相手をドン引きさせる作戦よ」
「は、はあ……(ドン引きというか、気絶させそうな迫力ですが……)」
「大体、朝の6時に訪問してくるなんて、非常識にも程があるわ。公爵だか何だか知らないけれど、睡眠妨害罪で訴えてやる」
私はブツブツと文句を垂れ流しながら、身支度を整えた。
ドレスは着ない。
動きやすく、かつ相手に「貴方を歓迎していません」という意思表示をするため、あえて地味な平服(家着に近いワンピース)を選んだ。
ボサボサの髪も、適当に一つに束ねただけ。
これでいい。
「百年の恋も冷める」という言葉があるが、今日の私は「千年の恋も凍りつく」レベルのはずだ。
これでアイザック・グランディとかいう変人が、「やっぱり結婚はやめる」と言い出せば、私の勝利である。
ゴーン、ゴーン、ゴーン……。
屋敷の古時計が、午前6時を告げた。
その瞬間。
「ローゼン嬢! 迎えに来たぞ!」
玄関ホールから、馬鹿でかい声が響き渡った。
早すぎる。
時間厳守にも程がある。
私は舌打ちを一つして、重い足取りで応接間へと向かった。
***
応接間には、すでに父と母が正装して待機していた。
二人とも顔面蒼白で、ガタガタと震えている。
「お、おいローゼン! なんだその格好は! 相手はグランディ公爵だぞ!?」
父が私の姿を見て悲鳴を上げた。
「おはようございます、お父様。早朝の突然の来客に対応するのですから、これで十分です」
「ば、馬鹿者! 先方は『求婚』に来たと言っておられるのだぞ! もっと色気のある格好は……」
「ありません(断固拒否)」
私が父を一刀両断したその時、扉が開かれた。
「失礼する」
現れたのは、朝の光よりも眩しい、銀髪の美丈夫だった。
アイザック・グランディ。
彼は完璧に仕立てられた騎士服に身を包み、一点の曇りもない爽やかな(ただし目つきは鋭い)表情で立っていた。
その背後には、山のような荷物を抱えた部下たちが控えている。
アイザック様は私を見るなり、目を見開いた。
そして、みるみるうちに頬を紅潮させた。
「……素晴らしい」
「はい?」
「寝起きの不機嫌さ全開の顔。髪の乱れ。そして、『帰れ』と全身で語っているその殺気……。これほど無防備な君を見られるのは、夫となる俺だけの特権というわけか」
「……頭、打ってます?」
「いや、打たれたのは心だ。君という存在にな」
アイザック様は流れるような動作で私の手を取り、跪いた。
「おはよう、我が愛しきローゼン。今日も最高の軽蔑をありがとう」
「どういたしまして。で、何をしに来たのですか? 今は朝食の時間ですが」
「そう、朝食だ。君と一緒に食べたくて、我が家のシェフごと持ってきた」
彼が指をパチンと鳴らすと、部下たちがテキパキと動き出した。
あれよあれよという間に、応接間のテーブルに豪華絢爛な料理が並べられていく。
焼きたてのパンの香り。
とろけるようなオムレツ。
旬のフルーツに、最高級の紅茶。
私の腹の虫が、盛大に鳴った。
「ぐぅ~……」
静寂。
父と母が凍りつく。
しかし、アイザック様は満面の笑み(当社比)で言った。
「食欲旺盛で何よりだ。さあ、座ってくれ。冷めないうちに」
……悔しいが、今の私に空腹へ抗う術はない。
私は無言で席に着き、ナイフとフォークを構えた。
「いただきます(合理的判断)」
一口食べた瞬間、口の中に天国が広がった。
美味しい。
王城の堅苦しい料理とは比べ物にならないほど、繊細で優しい味だ。
私が無心でオムレツを口に運んでいると、アイザック様が頬杖をついて、じっとこちらを見つめていることに気づいた。
「……何ですか。食べにくいのですが」
「いや、小動物が餌を頬張っているようで可愛いと思ってな」
「私は猛獣です。噛みつきますよ」
「ぜひ頼む。甘噛みではなく、本気で噛みついてくれ」
「……」
会話のドッジボールが成立しない。
私は諦めて食事に集中することにした。
一通り食べ終え、紅茶を飲んで人心地ついたところで、アイザック様が本題を切り出した。
「さて、ローゼン。単刀直入に言おう。俺と結婚してくれ」
「お断りします」
私は即答した。
「理由は?」
「第一に、私は昨日婚約破棄されたばかりで、恋愛などする気力がありません。第二に、私はこれから自堕落な生活を送ると決めています。第三に、貴方のような変態に関わるのはリスクが高すぎます」
論理的な反論だ。
しかし、アイザック様は涼しい顔で、懐から一枚の書類を取り出した。
「ふむ。君の希望は『働きたくない』『自堕落に生きたい』『面倒ごとは嫌だ』。これで合っているか?」
「……まあ、要約すればそうです」
「ならば、尚更俺と結婚するべきだ。これを見ろ」
彼が差し出したのは、羊皮紙に書かれた契約書だった。
そこには、驚くべき条件が羅列されていた。
『甲(アイザック)は乙(ローゼン)に対し、以下の権利を保証する』
1.公務および家事の一切を免除する。
2.乙の生活費、遊興費、図書費は無制限に支給する。
3.乙の睡眠時間を最優先し、午前10時前の起床を強要しない。
4.乙の実家であるベルク公爵家の借金(約5億ゴールド)を、甲が全額肩代わりする。
「……はい?」
私は目を疑った。
1から3までは、ただの好条件だ。
だが、4番。
「ち、父上? 我が家に借金が?」
私は震える声で父に尋ねた。
父は滝のような冷や汗を流しながら、目を泳がせた。
「あー、その、なんだ……。事業に失敗したというか、詐欺に遭ったというか……。王太子殿下との婚約があったから、なんとか返済を待ってもらっていたのだが……」
「婚約破棄された今、一括返済を迫られているというわけですか」
「……面目ない!」
父が土下座した。
私は目の前が真っ暗になった。
ニート生活どころではない。
このままでは路頭に迷うか、借金のカタにどこかの好色爺の元へ売られるかだ。
アイザック様が、悪魔の微笑みを浮かべて囁く。
「どうだ? 俺と結婚すれば、借金はチャラ。君は一生、遊んで暮らせる。衣食住は最高ランクを保証しよう。君が望むなら、一日中本を読んでいてもいいし、俺を無視しても構わない」
「……対価は? 貴方に何のメリットがあるのですか?」
「君が家にいる。それだけでいい」
彼は真剣な眼差しで言った。
「俺は、君のその『他人に一切期待していない目』が好きなんだ。仕事から帰って、君に『おかえり』と言われる必要はない。『まだ帰ってこなくてよかったのに』という顔で出迎えられたい」
「……」
「君が俺の金で勝手に本を買い、俺の存在を無視して読み耽る姿を、酒を飲みながら鑑賞したい」
「……」
「つまり、俺にとって君は、最高級の観賞用植物であり、癒やしの存在なのだ。どうだ、悪い話ではないだろう?」
私は、脳内で天秤を揺らした。
右の皿には、変態公爵との結婚生活。
左の皿には、実家の破産と路頭に迷う未来。
……比べるまでもない。
私はスッと手を差し出した。
「ペンを貸してください」
「交渉成立か?」
「はい。その条件、飲みましょう。ただし、特約事項を追加します」
私は契約書の余白に、さらさらと書き加えた。
5.寝室は別々にすること。
6.過度なスキンシップ(公共の場を除く)は、一回につき追加料金10万ゴールドを支払うこと。
「これでどうですか」
アイザック様はそれを読み、ニヤリと笑った。
「……金で解決できるなら安いものだ。契約しよう」
「商談成立ですね」
私たちは、ガッチリと握手を交わした。
愛などない。
あるのは利害の一致のみ。
これは結婚ではない。「永久就職」だ。
私は心の中でガッツポーズをした。
(勝った! 借金返済、衣食住確保、そしてニート権の獲得! 多少、夫が変態でも、無視していれば問題ないわ!)
こうして私は、婚約破棄からわずか12時間後に、氷の公爵アイザック・グランディの婚約者となったのである。
「では、早速だが荷物をまとめてくれ。今日中に我が家へ引っ越そう」
「は? 今日?」
「善は急げだ。それに、クラーク殿下が復縁を迫ってくる可能性もある。君の身柄は、俺のテリトリーに置いておくのが一番安全だ」
確かに、その点に関しては彼の方が正しい。
あのナルシスト王子のことだ。「やはりお前には俺が必要だろう?」などと言ってきかねない。
「わかりました。ハンナ、荷造りを」
「はい! お嬢様、おめでとうございます……うっ、ううっ……こんなに早く貰い手がつくなんて……!」
「ハンナ、泣かないで。これは『就職』よ」
「いいえ、愛ですわ! あんなに熱烈なプロポーズ、初めて見ました!」
違う、そうじゃない。
あれはプロポーズというより、変態の犯行予告だ。
けれど、ハンナが幸せそうなら訂正する必要もないか。
私は溜息をつきながら、自室へと戻ろうとした。
その時。
ドタドタと慌ただしい足音が廊下から聞こえてきた。
「ローゼン! ローゼンはいるか!?」
聞き覚えのある、無駄に良い声。
私はピタリと足を止めた。
まさか。
いや、早すぎる。
玄関の扉がバーンと開かれ、そこに立っていたのは――
バラの花束を抱えた、クラーク王太子だった。
「クラーク様……?」
私が呟くと、彼は輝くような笑顔でこちらに駆け寄ってきた。
「おお、ローゼン! やはり家にいたか! 昨日は言い過ぎた! 君が泣きながら走り去る姿を見て、僕も眠れなかったんだ!」
……走ってはいない。競歩だ。
そして泣いてもいない。笑いを堪えていただけだ。
クラーク様は、私の隣にいるアイザック様の存在に気づき、眉を顰めた。
「む、グランディ公爵? なぜ貴殿がここにいる?」
アイザック様は、私を背に庇うようにして前に出た。
その表情からは、先ほどまでのふざけた笑みは消え失せ、文字通り「氷」のような冷気が漂っていた。
「……王太子殿下。私の婚約者に、何か御用でしょうか?」
「は? 婚約者?」
クラーク様が鳩が豆鉄砲を食らったような顔をする。
「何を言っている。ローゼンは僕の……」
「貴方が捨てたゴミ……いいえ、貴方が手放した宝石を、私が拾い上げたのです」
アイザック様は私の肩を抱き寄せ、勝ち誇ったように宣言した。
「ローゼン・ベルクは、もはや貴殿のものではない。私の妻になる女性だ」
「なっ……!?」
クラーク様の手から、バラの花束がボトりと落ちた。
私はその様子を、アイザック様の背中越しに無表情で見つめながら思った。
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私の平穏なニート生活は、前途多難である。
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