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「……生き返りました」
私は、深いため息と共にその言葉を漏らした。
場所は公爵邸のサンルーム。
全面ガラス張りの窓からは、夕日に染まる美しい庭園が一望できる。
しかし、私が感動しているのは景色ではない。
目の前のテーブルに鎮座する、艶やかな暗褐色のアレだ。
「そうか。それは良かった」
対面に座るアイザック様が、優雅に紅茶を啜りながら微笑んでいる。
「約束通り、王都で一番人気のパティスリー『銀の匙』のザッハトルテを用意させた。君の疲労回復には、最高級のカカオが必要だと思ってな」
「……貴方のその判断力だけは、高く評価します」
私はフォークを構え、神妙な面持ちでケーキと対峙した。
先ほどの騎士団訪問での精神的疲労は甚大だ。
筋肉と汗とマゾヒズムの嵐に晒され、私のSAN値(正気度)は限りなくゼロに近づいていた。
だが、このケーキがあれば回復できる。
私はナイフを入れ、一口大に切り分ける。
ずっしりと重厚な生地。
その間に挟まれたアプリコットジャムの層。
そして全体をコーティングする、シャリッとした食感のチョコレート。
(……美しい)
口へと運ぶ。
瞬間、濃厚な甘さとほろ苦さが舌の上で爆発した。
(んんっ……!)
声には出さないが、脳内でファンファーレが鳴り響く。
カカオの芳醇な香り。
ジャムの酸味が、チョコレートの甘さを引き締める。
そして、添えられた無糖のホイップクリームが、全てをまろやかに包み込んでいく。
美味しい。
あまりにも美味しすぎる。
私の脳髄に、幸せ物質(エンドルフィン)がドバドバと放出されていくのがわかる。
強張っていた肩の力が抜け、眉間の皺が消え、自然と呼吸が深くなる。
私は、無意識のうちに頬を緩めていたらしい。
フォークを口に咥えたまま、うっとりと目を細め、小さく呟いた。
「……ん、幸せ……」
その時だった。
ガタンッ!!
突然、大きな音がしてテーブルが揺れた。
「!?」
驚いて顔を上げると、アイザック様がテーブルに突っ伏していた。
片手で胸を強く鷲掴みにし、荒い息を吐いている。
「あ、アイザック様!? どうされました!?」
私は慌ててケーキを置き、立ち上がった。
まさか、毒?
いや、私が食べたケーキは無事だ。
なら、持病の発作か?
「くっ……ぐぅ……」
「しっかりしてください! 誰か、医者を……!」
私が叫ぼうとすると、アイザック様が震える手で私を制した。
「ま、待て……医者はいらん……」
「ですが、顔が真っ赤です! 呼吸も乱れていますし、心拍数が異常に上がっているのでは!?」
「ああ、心臓が……止まるかと思った……」
彼は顔を上げ、潤んだ瞳(?)で私を見つめた。
「ローゼン……今の、なんだ?」
「今の、とは?」
「さっきの顔だ。フォークを咥えて、蕩けるように目を細めて、『幸せ』と……」
「……? それが何か?」
ただ、美味しいものを食べて感想を述べただけだ。
効率的なエネルギー摂取に対する、生理的な反応に過ぎない。
アイザック様は、ふらりと立ち上がり、私の肩を掴んだ。
「破壊力が……凄まじすぎる」
「はあ」
「普段の君は、絶対零度の氷壁のような無表情だ。罵倒する時の冷たい目も最高だが……そのギャップ!!」
彼は叫んだ。
「不意打ちでそんな、花が綻ぶような無防備な笑顔を見せられたら……俺の理性が蒸発する!」
「……大袈裟ですね」
「大袈裟ではない! 今、俺の寿命が3年縮んだぞ! いや、逆に5年伸びたかもしれん!」
混乱している。
どうやら、私のささやかな笑顔(と自分では思っているが、実際は微かに口角が上がった程度)が、この変態公爵にはクリティカルヒットしたらしい。
「尊い……。ああ、神よ感謝します……」
彼は再び胸を押さえて座り込んだ。
「もう一度だ。もう一度やってくれ、ローゼン」
「やりません。笑顔は安売りするものではありません」
「金を払おう。いくらだ? 金貨100枚か?」
「笑顔の切り売りはしません」
私は冷たく一蹴し、席に戻った。
せっかくのケーキが温まってしまう。
「……でも、そんなに美味しいなら、もっと食べるといい」
アイザック様は、まだ動悸が治まらない様子だが、嬉しそうにホールケーキの残りを指差した。
「ほら、口を開けて」
「……自分で食べられます」
「いいから。俺が食べさせたいんだ。君が美味しそうに食べる姿を、特等席で見たい」
彼は新しいフォークでケーキを切り取り、私の口元へ差し出した。
「あーん」
「……子供扱いしないでください」
「君の手を煩わせない、効率的な食事法だぞ?」
痛いところを突いてくる。
確かに、自分でフォークを動かすカロリーすら節約できるなら、それに越したことはない。
それに、拒否して押し問答をするのも面倒だ。
私は小さなため息をつき、観念して口を開けた。
「……あむ」
パクり。
再び広がる至福の味。
「……どうだ?」
アイザック様が期待に満ちた目で見つめてくる。
尻尾があれば、ブンブンと振っていそうだ。
私は咀嚼し、飲み込み、そして正直に答えた。
「……とても、美味しいです」
「そうか、そうか!」
彼は満足げに笑い、次々とケーキを私の口へ運んでくる。
まるで小動物に餌付けをしているようだ。
「ここのクリームが多い部分もどうだ?」
「はい」
「スポンジの端も美味いぞ」
「んっ……」
気づけば、私の皿は空になり、彼の皿も空になっていた。
満腹だ。
「ふぅ……ごちそうさまでした」
私がナプキンで口元を拭おうとすると、アイザック様の手が伸びてきた。
「待って、ついている」
彼の親指が、私の唇の端をすっと撫でた。
そこについていたクリームを拭い取り――
あろうことか、彼はその指を自分の口に含んだ。
「!!?」
私はカッと目を見開いた。
全身の毛穴が開くような感覚。
「な、ななな、何をしているのですか!?」
「ん? クリームが勿体無いと思ってな」
彼は平然と、舌なめずりをした。
「……甘いな。ケーキよりも、君についていたからかもしれない」
「~~っ!!」
不潔! 非衛生! セクハラ!
様々な単語が脳裏を駆け巡るが、言葉にならない。
顔が熱い。
これは怒りだ。断じて照れではない。
「……追加料金!!」
私はようやく声を絞り出した。
「今の行為は、契約条項第6項『過度なスキンシップ』に該当します! 追加料金10万ゴールドを請求します!」
「お安い御用だ。……なんなら、もう10万払って、反対側も舐めようか?」
「結構です!!」
私は席を蹴って立ち上がった。
これ以上、この空間にいると調子が狂う。
「部屋に戻ります! ……ごちそうさまでした!」
私は逃げるようにサンルームを後にした。
背後から、「照れている顔も絶品だなぁ」というニヤニヤした声が聞こえたが、全力で無視した。
*
廊下を早足で歩きながら、私は熱くなった頬を両手で包んだ。
(……あいつ、絶対におかしい)
心臓がうるさい。
糖分の摂りすぎで血糖値が急上昇したせいだろうか。
それとも、あの紫色の瞳に見つめられたせいだろうか。
「……落ち着け、私。あれはただの変態よ」
自分に言い聞かせ、深呼吸をする。
そうだ、私は悪役令嬢ローゼン・ベルク。
鉄壁の無表情と合理主義の塊。
あんな安っぽい色仕掛け(?)に動揺するなんて、私のキャラではない。
部屋に戻ったら、難しい哲学書でも読んで、この乱れた精神を沈静化させなければ。
そう決意して角を曲がろうとした時、向こうから歩いてくる人影に気づいた。
「あら、ローゼン様じゃありませんか」
甘ったるい、砂糖菓子を煮詰めたような声。
そこに立っていたのは、桃色の髪をふわふわと巻いた少女――
「ミーナ……様?」
元婚約者クラーク王太子の、現在の恋人。
そして私を陥れた張本人、ミーナ男爵令嬢だった。
なぜ、彼女がここに?
私の警戒レベルが一気に跳ね上がった。
先ほどまでの甘い雰囲気は霧散し、私の顔は瞬時に「業務モード(鉄仮面)」へと切り替わった。
「これは珍しいお客様ですね。公爵邸に何かご用で?」
私が冷ややかに尋ねると、ミーナは小首を傾げ、可愛らしく(と本人は思っているであろう)微笑んだ。
「ええ、ローゼン様にご挨拶をと思いまして。クラーク様がどうしてもっておっしゃるから……」
彼女の背後に、気まずそうな顔をしたクラーク王太子の姿も見えた。
また来たのか、あの暇人は。
「それに、私、心配だったんですぅ」
ミーナが一歩近づいてくる。
その瞳の奥には、隠しきれない優越感と、昏い悪意が見え隠れしていた。
「ローゼン様、公爵様に無理やり連れ去られたって噂を聞きましたから。……きっと、酷い扱いを受けて、泣いてらっしゃるんじゃないかって」
「……」
「だから、私が助けてあげようと思って! ねえ、辛いなら正直におっしゃってください? 私たちが保護してあげますから」
彼女は私の手を取ろうとした。
その瞬間。
私の脳内で、瞬時に損益計算が行われた。
(……この女、マウントを取りに来ただけね)
私が不幸でなければ気が済まないのだろう。
「可哀想なローゼン様を助ける優しい私」というシナリオに酔っているだけだ。
だが、残念だったな。
今の私は、最高級のケーキでお腹が満たされ、イケメン公爵(変態だが)に溺愛され(餌付けされ)、住環境に関しては文句なしの状態だ。
「……ご心配には及びません」
私はミーナの手を避けた。
「私は今、かつてないほど充実しておりますので」
「え……?」
「特に、食生活に関しては王城よりも遥かに高水準です。……ああ、貴女にはわからないかもしれませんね。王城のパティシエは優秀ですが、予算削減で材料のランクを落としたそうですから」
私がさらりと事実(元事務担当としての知識)を告げると、ミーナの笑顔がピクリと引きつった。
「そ、そんなこと……! 強がりを仰らないでください!」
「強がりではありません。事実です。……ところで、私の口元に何か?」
「え?」
私はわざとらしく、先ほどアイザック様に拭われた唇の端を指差した。
「さきほど、アイザック様に『甘い』と舐め取られた名残があるかもしれませんので」
「は……?」
ミーナとクラーク様が、同時に凍りついた。
「な、なめ……!?」
「ええ。少々過保護な方でして。食事の世話まで焼いてくださるのです」
私は無表情のまま、爆弾を投下した。
嘘は言っていない。
解釈次第で、とんでもなく淫靡に聞こえるだけで。
「そ、そんな……あの『氷の公爵』が……!?」
「嘘だ! ありえない!」
二人が狼狽える様を見て、私は心の中でニヤリと笑った。
(ふん。私の平穏を乱すなら、これくらいの精神攻撃はお返しします)
さあ、どう出る?
私の「幸せアピール(物理)」は、彼らにとって最強の毒になるはずだ。
戦いの火蓋は、再び切って落とされた。
私は、深いため息と共にその言葉を漏らした。
場所は公爵邸のサンルーム。
全面ガラス張りの窓からは、夕日に染まる美しい庭園が一望できる。
しかし、私が感動しているのは景色ではない。
目の前のテーブルに鎮座する、艶やかな暗褐色のアレだ。
「そうか。それは良かった」
対面に座るアイザック様が、優雅に紅茶を啜りながら微笑んでいる。
「約束通り、王都で一番人気のパティスリー『銀の匙』のザッハトルテを用意させた。君の疲労回復には、最高級のカカオが必要だと思ってな」
「……貴方のその判断力だけは、高く評価します」
私はフォークを構え、神妙な面持ちでケーキと対峙した。
先ほどの騎士団訪問での精神的疲労は甚大だ。
筋肉と汗とマゾヒズムの嵐に晒され、私のSAN値(正気度)は限りなくゼロに近づいていた。
だが、このケーキがあれば回復できる。
私はナイフを入れ、一口大に切り分ける。
ずっしりと重厚な生地。
その間に挟まれたアプリコットジャムの層。
そして全体をコーティングする、シャリッとした食感のチョコレート。
(……美しい)
口へと運ぶ。
瞬間、濃厚な甘さとほろ苦さが舌の上で爆発した。
(んんっ……!)
声には出さないが、脳内でファンファーレが鳴り響く。
カカオの芳醇な香り。
ジャムの酸味が、チョコレートの甘さを引き締める。
そして、添えられた無糖のホイップクリームが、全てをまろやかに包み込んでいく。
美味しい。
あまりにも美味しすぎる。
私の脳髄に、幸せ物質(エンドルフィン)がドバドバと放出されていくのがわかる。
強張っていた肩の力が抜け、眉間の皺が消え、自然と呼吸が深くなる。
私は、無意識のうちに頬を緩めていたらしい。
フォークを口に咥えたまま、うっとりと目を細め、小さく呟いた。
「……ん、幸せ……」
その時だった。
ガタンッ!!
突然、大きな音がしてテーブルが揺れた。
「!?」
驚いて顔を上げると、アイザック様がテーブルに突っ伏していた。
片手で胸を強く鷲掴みにし、荒い息を吐いている。
「あ、アイザック様!? どうされました!?」
私は慌ててケーキを置き、立ち上がった。
まさか、毒?
いや、私が食べたケーキは無事だ。
なら、持病の発作か?
「くっ……ぐぅ……」
「しっかりしてください! 誰か、医者を……!」
私が叫ぼうとすると、アイザック様が震える手で私を制した。
「ま、待て……医者はいらん……」
「ですが、顔が真っ赤です! 呼吸も乱れていますし、心拍数が異常に上がっているのでは!?」
「ああ、心臓が……止まるかと思った……」
彼は顔を上げ、潤んだ瞳(?)で私を見つめた。
「ローゼン……今の、なんだ?」
「今の、とは?」
「さっきの顔だ。フォークを咥えて、蕩けるように目を細めて、『幸せ』と……」
「……? それが何か?」
ただ、美味しいものを食べて感想を述べただけだ。
効率的なエネルギー摂取に対する、生理的な反応に過ぎない。
アイザック様は、ふらりと立ち上がり、私の肩を掴んだ。
「破壊力が……凄まじすぎる」
「はあ」
「普段の君は、絶対零度の氷壁のような無表情だ。罵倒する時の冷たい目も最高だが……そのギャップ!!」
彼は叫んだ。
「不意打ちでそんな、花が綻ぶような無防備な笑顔を見せられたら……俺の理性が蒸発する!」
「……大袈裟ですね」
「大袈裟ではない! 今、俺の寿命が3年縮んだぞ! いや、逆に5年伸びたかもしれん!」
混乱している。
どうやら、私のささやかな笑顔(と自分では思っているが、実際は微かに口角が上がった程度)が、この変態公爵にはクリティカルヒットしたらしい。
「尊い……。ああ、神よ感謝します……」
彼は再び胸を押さえて座り込んだ。
「もう一度だ。もう一度やってくれ、ローゼン」
「やりません。笑顔は安売りするものではありません」
「金を払おう。いくらだ? 金貨100枚か?」
「笑顔の切り売りはしません」
私は冷たく一蹴し、席に戻った。
せっかくのケーキが温まってしまう。
「……でも、そんなに美味しいなら、もっと食べるといい」
アイザック様は、まだ動悸が治まらない様子だが、嬉しそうにホールケーキの残りを指差した。
「ほら、口を開けて」
「……自分で食べられます」
「いいから。俺が食べさせたいんだ。君が美味しそうに食べる姿を、特等席で見たい」
彼は新しいフォークでケーキを切り取り、私の口元へ差し出した。
「あーん」
「……子供扱いしないでください」
「君の手を煩わせない、効率的な食事法だぞ?」
痛いところを突いてくる。
確かに、自分でフォークを動かすカロリーすら節約できるなら、それに越したことはない。
それに、拒否して押し問答をするのも面倒だ。
私は小さなため息をつき、観念して口を開けた。
「……あむ」
パクり。
再び広がる至福の味。
「……どうだ?」
アイザック様が期待に満ちた目で見つめてくる。
尻尾があれば、ブンブンと振っていそうだ。
私は咀嚼し、飲み込み、そして正直に答えた。
「……とても、美味しいです」
「そうか、そうか!」
彼は満足げに笑い、次々とケーキを私の口へ運んでくる。
まるで小動物に餌付けをしているようだ。
「ここのクリームが多い部分もどうだ?」
「はい」
「スポンジの端も美味いぞ」
「んっ……」
気づけば、私の皿は空になり、彼の皿も空になっていた。
満腹だ。
「ふぅ……ごちそうさまでした」
私がナプキンで口元を拭おうとすると、アイザック様の手が伸びてきた。
「待って、ついている」
彼の親指が、私の唇の端をすっと撫でた。
そこについていたクリームを拭い取り――
あろうことか、彼はその指を自分の口に含んだ。
「!!?」
私はカッと目を見開いた。
全身の毛穴が開くような感覚。
「な、ななな、何をしているのですか!?」
「ん? クリームが勿体無いと思ってな」
彼は平然と、舌なめずりをした。
「……甘いな。ケーキよりも、君についていたからかもしれない」
「~~っ!!」
不潔! 非衛生! セクハラ!
様々な単語が脳裏を駆け巡るが、言葉にならない。
顔が熱い。
これは怒りだ。断じて照れではない。
「……追加料金!!」
私はようやく声を絞り出した。
「今の行為は、契約条項第6項『過度なスキンシップ』に該当します! 追加料金10万ゴールドを請求します!」
「お安い御用だ。……なんなら、もう10万払って、反対側も舐めようか?」
「結構です!!」
私は席を蹴って立ち上がった。
これ以上、この空間にいると調子が狂う。
「部屋に戻ります! ……ごちそうさまでした!」
私は逃げるようにサンルームを後にした。
背後から、「照れている顔も絶品だなぁ」というニヤニヤした声が聞こえたが、全力で無視した。
*
廊下を早足で歩きながら、私は熱くなった頬を両手で包んだ。
(……あいつ、絶対におかしい)
心臓がうるさい。
糖分の摂りすぎで血糖値が急上昇したせいだろうか。
それとも、あの紫色の瞳に見つめられたせいだろうか。
「……落ち着け、私。あれはただの変態よ」
自分に言い聞かせ、深呼吸をする。
そうだ、私は悪役令嬢ローゼン・ベルク。
鉄壁の無表情と合理主義の塊。
あんな安っぽい色仕掛け(?)に動揺するなんて、私のキャラではない。
部屋に戻ったら、難しい哲学書でも読んで、この乱れた精神を沈静化させなければ。
そう決意して角を曲がろうとした時、向こうから歩いてくる人影に気づいた。
「あら、ローゼン様じゃありませんか」
甘ったるい、砂糖菓子を煮詰めたような声。
そこに立っていたのは、桃色の髪をふわふわと巻いた少女――
「ミーナ……様?」
元婚約者クラーク王太子の、現在の恋人。
そして私を陥れた張本人、ミーナ男爵令嬢だった。
なぜ、彼女がここに?
私の警戒レベルが一気に跳ね上がった。
先ほどまでの甘い雰囲気は霧散し、私の顔は瞬時に「業務モード(鉄仮面)」へと切り替わった。
「これは珍しいお客様ですね。公爵邸に何かご用で?」
私が冷ややかに尋ねると、ミーナは小首を傾げ、可愛らしく(と本人は思っているであろう)微笑んだ。
「ええ、ローゼン様にご挨拶をと思いまして。クラーク様がどうしてもっておっしゃるから……」
彼女の背後に、気まずそうな顔をしたクラーク王太子の姿も見えた。
また来たのか、あの暇人は。
「それに、私、心配だったんですぅ」
ミーナが一歩近づいてくる。
その瞳の奥には、隠しきれない優越感と、昏い悪意が見え隠れしていた。
「ローゼン様、公爵様に無理やり連れ去られたって噂を聞きましたから。……きっと、酷い扱いを受けて、泣いてらっしゃるんじゃないかって」
「……」
「だから、私が助けてあげようと思って! ねえ、辛いなら正直におっしゃってください? 私たちが保護してあげますから」
彼女は私の手を取ろうとした。
その瞬間。
私の脳内で、瞬時に損益計算が行われた。
(……この女、マウントを取りに来ただけね)
私が不幸でなければ気が済まないのだろう。
「可哀想なローゼン様を助ける優しい私」というシナリオに酔っているだけだ。
だが、残念だったな。
今の私は、最高級のケーキでお腹が満たされ、イケメン公爵(変態だが)に溺愛され(餌付けされ)、住環境に関しては文句なしの状態だ。
「……ご心配には及びません」
私はミーナの手を避けた。
「私は今、かつてないほど充実しておりますので」
「え……?」
「特に、食生活に関しては王城よりも遥かに高水準です。……ああ、貴女にはわからないかもしれませんね。王城のパティシエは優秀ですが、予算削減で材料のランクを落としたそうですから」
私がさらりと事実(元事務担当としての知識)を告げると、ミーナの笑顔がピクリと引きつった。
「そ、そんなこと……! 強がりを仰らないでください!」
「強がりではありません。事実です。……ところで、私の口元に何か?」
「え?」
私はわざとらしく、先ほどアイザック様に拭われた唇の端を指差した。
「さきほど、アイザック様に『甘い』と舐め取られた名残があるかもしれませんので」
「は……?」
ミーナとクラーク様が、同時に凍りついた。
「な、なめ……!?」
「ええ。少々過保護な方でして。食事の世話まで焼いてくださるのです」
私は無表情のまま、爆弾を投下した。
嘘は言っていない。
解釈次第で、とんでもなく淫靡に聞こえるだけで。
「そ、そんな……あの『氷の公爵』が……!?」
「嘘だ! ありえない!」
二人が狼狽える様を見て、私は心の中でニヤリと笑った。
(ふん。私の平穏を乱すなら、これくらいの精神攻撃はお返しします)
さあ、どう出る?
私の「幸せアピール(物理)」は、彼らにとって最強の毒になるはずだ。
戦いの火蓋は、再び切って落とされた。
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