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「……いない。ここにもいない」
王城の夜。
私は回廊の柱の影に隠れながら、周囲を警戒していた。
まるで敵国のスパイのような動きだが、私が探知しようとしているのは敵ではない。
私の上司であり、先日私の額にキスをした張本人、キース閣下だ。
(会えない! 今の顔で閣下に会うなんて無理!)
あれから三日。
私は「体調不良(主に動悸と赤面)」を理由に、宰相執務室を欠勤し、資料室の奥や庭園の茂みを転々として仕事をしていた。
だって、顔を見たら思い出してしまう。
あの熱い唇の感触や、「お気に入りは私だ」なんていう殺し文句を。
「はぁ……心臓が持たないわ」
私は胸を押さえて溜息をついた。
今まで「推し」を見て荒ぶることはあっても、自分に向けられた好意でこんなに苦しくなるなんて。
「乙女ゲーのヒロインって、こんな過酷な環境で生きてたのね……尊敬するわ」
夜風に当たりたくて、人気のない西のバルコニーへと出る。
ここは普段、カップルたちが密会に使う場所だが、今夜は誰もいない。
月が綺麗だ。
「……ふぅ。落ち着こう。私はあくまで『観察者』。主役になっちゃいけないのよ」
自分に言い聞かせる。
そう、私はエリック殿下とルーカス様の恋路を見守るモブ。
キース閣下とのことも、きっと何かの間違いだ。
あの人はただ、おもちゃを独占したい子供のようなもので……。
「……誰がおもちゃだ」
「ひゃっ!?」
心臓が口から飛び出るかと思った。
背後から、低い声が降ってきたのだ。
恐る恐る振り返ると、バルコニーの入り口に、腕を組んだキース閣下が立っていた。
月光を背負い、逆光で表情が見えない。
だが、その纏っているオーラは明らかに「怒」だ。
「き、キース閣下……! こ、こんばんは! 月が綺麗ですね!」
「三日間だ」
閣下は私の挨拶を無視して、カツン、カツンと近づいてくる。
「私の執務室に来ず、城内を逃げ回ること三日間。……随分と良い度胸だな、アイビー」
「い、家出ではありません! フィールドワークです! 現場の空気を肌で感じるための!」
私は後ずさる。
すぐに背中が手すりに当たった。
袋小路だ。
「現場? ……私の目から逃れることが現場の仕事か?」
閣下が目の前に立つ。
近い。
影が私を覆い隠す。
「捕まえたぞ」
「ひっ……」
閣下の両手が、私の顔の横の手すりに置かれた。
いわゆる「手すりドン」。
逃げ場は左右にも、後ろにもない。
前には魔王。
「……なぜ逃げる」
低く、甘い声が耳を打つ。
「嫌われたか?」
その声に、ほんの少しだけ不安の色が混じっている気がして、私はハッとして顔を上げた。
眼鏡の奥のアイスブルーの瞳が、切なげに揺れている。
「そ、そんなことありません! 嫌いなわけ……ないじゃないですか!」
「なら、なぜ避ける」
「それは……その……」
私は視線を泳がせた。
「……恥ずかしいからです」
「恥ずかしい?」
「だって! あんな……あんなことされて、平気な顔で会えるわけないじゃないですか! 私の心臓は鋼鉄製じゃないんです!」
自白してしまった。
閣下は一瞬きょとんとして、それから……ふわりと笑った。
それは、いつもの冷笑や意地悪な笑みではない。
とろけるような、甘い微笑みだった。
「……そうか。意識していたのか」
「うぐっ……」
「私だけが空回りしているのかと思ったが……安心した」
閣下の手が、私の頬に伸びる。
そして、親指でくいっと顎を持ち上げられた。
(出たァァァァッ! 顎クイ!!)
私の脳内実況が絶叫する。
王道中の王道。
攻略対象が本気を出した時の必殺技!
「アイビー。こっちを見ろ」
「み、見てます……」
「逸らすな」
視線が絡み合う。
逃げられない。
「私は……お前が思っているほど、忍耐強くない」
閣下の指が、私の唇をなぞる。
「弟たちの恋路を見守るのもいい。お前のその奇妙な趣味も、百歩譲って認めよう」
「あ、ありがとうございます……?」
「だが」
閣下の瞳が、妖しく光った。
「私の前で、他の男の話をするな。他の男を見て鼻血を出すな。……私だけを見ろ」
「そ、それは無理難題です! 私のライフワークが!」
「無理ではない。……私が、それ以上に夢中にさせてやる」
「へ?」
「お前のその『萌え』とやらを、全部私に向けろと言っているんだ」
傲慢で、独占欲にまみれた言葉。
でも、それはどんな愛の言葉よりも、私の胸に刺さった。
「……閣下、それって」
「好きだ、アイビー」
直球だった。
変化球も、皮肉もなし。
ただ真っ直ぐな、熱い告白。
「お前の、その訳の分からない思考回路も、ふざけた行動力も、私の前で見せる赤くなった顔も……全て愛おしい」
「……っ」
涙が出そうになった。
婚約破棄され、変人扱いされ、誰にも理解されないと思っていた私。
そんな私を、この人は「愛おしい」と言ってくれた。
「……物好きですね、閣下は」
私は泣き笑いのような顔で言った。
「私なんかより、もっと淑やかで素敵な令嬢がたくさんいるのに」
「他の女など興味ない。……私を退屈させないのは、世界でお前だけだ」
キース閣下は、ゆっくりと顔を近づけた。
「……許可を」
「え?」
「キスをする。……嫌なら、突き飛ばせ」
嫌なわけがない。
突き飛ばせるわけがない。
私は静かに目を閉じた。
「……お手柔らかに、お願いします」
「善処する」
唇が重なる。
額へのキスとは違う、大人の口づけ。
甘くて、少し苦くて、そして何より温かい。
月明かりの下、私は宰相閣下の腕の中で、今までの人生で一番の「尊さ」を味わっていた。
それは、観察する尊さではない。
自分が愛されるという、震えるような幸福だった。
「……んッ」
長い口づけが終わる。
私は腰が抜けて、閣下の胸に崩れ落ちた。
「……あ、危なかった……」
「何がだ?」
「あまりに尊すぎて、昇天するところでした……」
「……この期に及んで、まだそんなことを言うか」
閣下は呆れつつも、愛おしそうに私を抱きしめ直した。
「覚悟しておけよ、アイビー。……一度捕まえた獲物は、二度と逃がさない主義だ」
「……はい。捕まりました」
私は観念して、その胸に顔を埋めた。
こうして。
悪役令嬢アイビーは、ついに「氷の宰相」の恋人(公式)となったのである。
ただ、これで私の「推し活」が終わるわけではない。
むしろ、最強のパートナー(権力者)を得て、私の腐った野望はさらに加速することになるのだが……それはまた、別のお話。
いや、まずは目の前のこの男をどうにかしないと。
「……もう一回、いいか?」
「えっ、おかわりですか!?」
宰相閣下の独占欲は、予想以上に底なしだった。
王城の夜。
私は回廊の柱の影に隠れながら、周囲を警戒していた。
まるで敵国のスパイのような動きだが、私が探知しようとしているのは敵ではない。
私の上司であり、先日私の額にキスをした張本人、キース閣下だ。
(会えない! 今の顔で閣下に会うなんて無理!)
あれから三日。
私は「体調不良(主に動悸と赤面)」を理由に、宰相執務室を欠勤し、資料室の奥や庭園の茂みを転々として仕事をしていた。
だって、顔を見たら思い出してしまう。
あの熱い唇の感触や、「お気に入りは私だ」なんていう殺し文句を。
「はぁ……心臓が持たないわ」
私は胸を押さえて溜息をついた。
今まで「推し」を見て荒ぶることはあっても、自分に向けられた好意でこんなに苦しくなるなんて。
「乙女ゲーのヒロインって、こんな過酷な環境で生きてたのね……尊敬するわ」
夜風に当たりたくて、人気のない西のバルコニーへと出る。
ここは普段、カップルたちが密会に使う場所だが、今夜は誰もいない。
月が綺麗だ。
「……ふぅ。落ち着こう。私はあくまで『観察者』。主役になっちゃいけないのよ」
自分に言い聞かせる。
そう、私はエリック殿下とルーカス様の恋路を見守るモブ。
キース閣下とのことも、きっと何かの間違いだ。
あの人はただ、おもちゃを独占したい子供のようなもので……。
「……誰がおもちゃだ」
「ひゃっ!?」
心臓が口から飛び出るかと思った。
背後から、低い声が降ってきたのだ。
恐る恐る振り返ると、バルコニーの入り口に、腕を組んだキース閣下が立っていた。
月光を背負い、逆光で表情が見えない。
だが、その纏っているオーラは明らかに「怒」だ。
「き、キース閣下……! こ、こんばんは! 月が綺麗ですね!」
「三日間だ」
閣下は私の挨拶を無視して、カツン、カツンと近づいてくる。
「私の執務室に来ず、城内を逃げ回ること三日間。……随分と良い度胸だな、アイビー」
「い、家出ではありません! フィールドワークです! 現場の空気を肌で感じるための!」
私は後ずさる。
すぐに背中が手すりに当たった。
袋小路だ。
「現場? ……私の目から逃れることが現場の仕事か?」
閣下が目の前に立つ。
近い。
影が私を覆い隠す。
「捕まえたぞ」
「ひっ……」
閣下の両手が、私の顔の横の手すりに置かれた。
いわゆる「手すりドン」。
逃げ場は左右にも、後ろにもない。
前には魔王。
「……なぜ逃げる」
低く、甘い声が耳を打つ。
「嫌われたか?」
その声に、ほんの少しだけ不安の色が混じっている気がして、私はハッとして顔を上げた。
眼鏡の奥のアイスブルーの瞳が、切なげに揺れている。
「そ、そんなことありません! 嫌いなわけ……ないじゃないですか!」
「なら、なぜ避ける」
「それは……その……」
私は視線を泳がせた。
「……恥ずかしいからです」
「恥ずかしい?」
「だって! あんな……あんなことされて、平気な顔で会えるわけないじゃないですか! 私の心臓は鋼鉄製じゃないんです!」
自白してしまった。
閣下は一瞬きょとんとして、それから……ふわりと笑った。
それは、いつもの冷笑や意地悪な笑みではない。
とろけるような、甘い微笑みだった。
「……そうか。意識していたのか」
「うぐっ……」
「私だけが空回りしているのかと思ったが……安心した」
閣下の手が、私の頬に伸びる。
そして、親指でくいっと顎を持ち上げられた。
(出たァァァァッ! 顎クイ!!)
私の脳内実況が絶叫する。
王道中の王道。
攻略対象が本気を出した時の必殺技!
「アイビー。こっちを見ろ」
「み、見てます……」
「逸らすな」
視線が絡み合う。
逃げられない。
「私は……お前が思っているほど、忍耐強くない」
閣下の指が、私の唇をなぞる。
「弟たちの恋路を見守るのもいい。お前のその奇妙な趣味も、百歩譲って認めよう」
「あ、ありがとうございます……?」
「だが」
閣下の瞳が、妖しく光った。
「私の前で、他の男の話をするな。他の男を見て鼻血を出すな。……私だけを見ろ」
「そ、それは無理難題です! 私のライフワークが!」
「無理ではない。……私が、それ以上に夢中にさせてやる」
「へ?」
「お前のその『萌え』とやらを、全部私に向けろと言っているんだ」
傲慢で、独占欲にまみれた言葉。
でも、それはどんな愛の言葉よりも、私の胸に刺さった。
「……閣下、それって」
「好きだ、アイビー」
直球だった。
変化球も、皮肉もなし。
ただ真っ直ぐな、熱い告白。
「お前の、その訳の分からない思考回路も、ふざけた行動力も、私の前で見せる赤くなった顔も……全て愛おしい」
「……っ」
涙が出そうになった。
婚約破棄され、変人扱いされ、誰にも理解されないと思っていた私。
そんな私を、この人は「愛おしい」と言ってくれた。
「……物好きですね、閣下は」
私は泣き笑いのような顔で言った。
「私なんかより、もっと淑やかで素敵な令嬢がたくさんいるのに」
「他の女など興味ない。……私を退屈させないのは、世界でお前だけだ」
キース閣下は、ゆっくりと顔を近づけた。
「……許可を」
「え?」
「キスをする。……嫌なら、突き飛ばせ」
嫌なわけがない。
突き飛ばせるわけがない。
私は静かに目を閉じた。
「……お手柔らかに、お願いします」
「善処する」
唇が重なる。
額へのキスとは違う、大人の口づけ。
甘くて、少し苦くて、そして何より温かい。
月明かりの下、私は宰相閣下の腕の中で、今までの人生で一番の「尊さ」を味わっていた。
それは、観察する尊さではない。
自分が愛されるという、震えるような幸福だった。
「……んッ」
長い口づけが終わる。
私は腰が抜けて、閣下の胸に崩れ落ちた。
「……あ、危なかった……」
「何がだ?」
「あまりに尊すぎて、昇天するところでした……」
「……この期に及んで、まだそんなことを言うか」
閣下は呆れつつも、愛おしそうに私を抱きしめ直した。
「覚悟しておけよ、アイビー。……一度捕まえた獲物は、二度と逃がさない主義だ」
「……はい。捕まりました」
私は観念して、その胸に顔を埋めた。
こうして。
悪役令嬢アイビーは、ついに「氷の宰相」の恋人(公式)となったのである。
ただ、これで私の「推し活」が終わるわけではない。
むしろ、最強のパートナー(権力者)を得て、私の腐った野望はさらに加速することになるのだが……それはまた、別のお話。
いや、まずは目の前のこの男をどうにかしないと。
「……もう一回、いいか?」
「えっ、おかわりですか!?」
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