婚約破棄されたので、心置きなく殿下×騎士を推します!

パリパリかぷちーの

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「……書けない」

私はペンを置き、天井を見上げた。

執筆室の窓から差し込む夕日が、羊皮紙をオレンジ色に染めている。

ここ数日、私の筆はピタリと止まっていた。

スランプではない。

頭の中には『エリック×ルーカス』の新作ネタも、『キース×アイビー(自分)』の甘々な展開も溢れている。

なのに、それを「文字」にしようとすると、何かが違う気がしてしまうのだ。

「……虚しい、とかじゃないのよね」

私は自分の胸に手を当てた。

かつては、現実の辛さ(悪役令嬢としての立場など)から逃げるために妄想に没頭していた。

脳内で完璧な世界を作り上げ、そこで推したちを愛でることが私の全てだった。

でも今は。

「現実が……充実しすぎちゃってるのよね」

ポツリと漏らす。

キース閣下との日々は、私のどんな妄想よりも刺激的で、温かくて、予測不能だ。

彼の不器用な優しさも、時折見せる嫉妬も、私を抱きしめる腕の力強さも。

すべてが「本物」の質量を持って、私を満たしている。

(小説の中の恋は美しい。傷つかないし、裏切らない)

(でも……閣下のくれる愛は、時々痛くて、苦しくて、でも泣きたくなるほど嬉しい)

私は書きかけの原稿(キース閣下監修の『愛の重い公爵』の話)を見つめた。

「……勝てないなぁ」

フィクションが、現実に負けた瞬間だった。

ガチャリ。

静かにドアが開く。

「……また悩んでいるのか」

キース閣下が入ってきた。

手には、湯気の立つマグカップを二つ持っている。

「閣下……。お仕事は?」

「早めに切り上げてきた。お前の顔が見たくなってな」

閣下は私の隣に腰掛け、マグカップを差し出した。

「ココアだ。糖分が足りていない顔をしている」

「……ありがとうございます」

温かいカップを受け取る。

甘い香りが鼻腔をくすぐる。

「……アイビー」

閣下が私を覗き込む。

眼鏡の奥の瞳が、心配そうに揺れている。

「最近、様子がおかしいぞ。……私が、何かしたか?」

「いえ! 閣下は何も!」

私は慌てて否定した。

「ただ……少し、考えていたんです」

「何を?」

「……『愛』について」

私がそう言うと、閣下は少し驚いた顔をして、それから苦笑した。

「お前が愛を語るとはな。……また、エリックたちのカップリング論争か?」

「違いますよ」

私は首を横に振った。

「私の、閣下への愛についてです」

「……!」

閣下の動きが止まる。

私はカップを置いて、閣下に向き直った。

「私、ずっと『妄想』が一番だと思ってました。理想の展開、理想のセリフ、理想の関係……それを頭の中で組み立てるのが、最高の幸せだと」

「……ふむ」

「でも、閣下と恋人になって、気づいてしまったんです」

私は閣下の手を取り、自分の頬に寄せた。

ゴツゴツとした、大きな男性の手。

温かくて、少しインクの匂いがする。

「妄想の中の王子様は、風邪を引いた時に看病してくれますけど……実際に熱いタオルを変えてくれたり、不味いお粥を作ってくれたりはしません」

「……あのお粥は、レシピ通りに作ったはずだが」

閣下がバツが悪そうに視線を逸らす。

「妄想の中の公爵様は、愛の言葉を囁いてくれますけど……私が不安な時に、何も言わずにただ抱きしめて、背中を撫でてくれたりはしません」

私は閣下の目をまっすぐに見つめた。

「フィクションは完璧です。でも、体温がない」

「アイビー……」

「私は、閣下の『現実』が好きなんです」

言葉が、自然と溢れてくる。

「たまに意地悪で、独占欲が強くて、仕事人間で、料理が下手で……でも、誰よりも私を見てくれる、生身の閣下が」

私は、自分でも驚くような「キラーワード」を口にした。

「どんなに美しい物語よりも、私は……閣下の現実に触れていたいんです」

シーン……。

部屋に沈黙が落ちた。

時計の針の音だけが聞こえる。

「…………」

キース閣下は、彫像のように固まっていた。

そして、ゆっくりと、本当にゆっくりと。

その顔が、耳まで、首筋まで、真っ赤に染まっていく。

「……か、閣下?」

「……反則だ」

閣下は片手で顔を覆い、呻くように言った。

「そんなことを言われて……私が平気でいられると思うか」

「えっ、あ、嫌でした?」

「逆だ、馬鹿者」

閣下は私を引き寄せ、強く、壊れ物を扱うように抱きしめた。

心臓の音が聞こえる。

トクトクと、速いリズムを刻んでいる。

「……私は、お前の妄想に勝てないと思っていた」

閣下の声が、耳元で震えている。

「お前の中には完璧な世界があって、私はそこに土足で踏み込んだ邪魔者なんじゃないかと……ずっと、不安だった」

「閣下が……不安?」

あの「氷の宰相」が?

「当たり前だ。……恋をすれば、誰だって臆病になる」

閣下は顔を上げ、少し潤んだ瞳で私を見た。

「だが、今ので自信がついた。……お前を、現実の世界に繋ぎ止めておけるのは、私だけだとな」

「……はい。繋ぎ止められました。ガッチリと」

「二度と逃がさん」

閣下の唇が、私の唇を塞ぐ。

今までのどのキスよりも優しくて、深い口づけ。

それは、私たちが「恋人」から、もっと深い「パートナー」へと変わった瞬間だった。

「……んっ」

唇が離れると、閣下は愛おしそうに私の前髪を払った。

「アイビー。……近いうちに、正式な手続きをするぞ」

「手続き?」

「婚約の儀だ。……もう『ツバをつけた』だけでは我慢ならん」

閣下の瞳に、強い意志の光が宿る。

「国中に知らしめる。お前が、キース・クリフォードの妻になる女だと」

「……はい。謹んで、お受けいたします」

私は微笑んだ。

「でも閣下。妻になっても、腐活動は辞めませんからね?」

「……分かっている。『別腹』なんだろう?」

閣下は呆れつつも、笑って許してくれた。

「ただし、私の前では私だけを見ろ。……それ以外の時間は、好きにすればいい」

「太っ腹ですね! さすがスパダリ!」

「変な呼び方をするな」

デコピン。

でも、ちっとも痛くない。

私たちは笑い合い、夕暮れの中に溶けていく時間を楽しんだ。

妄想も楽しい。

でも、現実はもっと美味しい。

それに気づけた私は、きっと世界一幸せな悪役令嬢(元)だ。

(……あ、でも。この『現実の愛』を知ったことで、私の書く小説にも深みが出るかも……?)

転んでもタダでは起きない。

それが私、アイビー・ローズブレイドなのだから。
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