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王宮の大広間は、むせ返るような香水の匂いと、上辺だけの笑い声で満ちていた。
月に一度の夜会。
貴族たちが己の権力を誇示し、腹の探り合いをする戦場だ。
私は壁の花として、グラス片手に会場の隅に陣取っていた。
今日のドレスは、マリーの見立て通り濃紺のシルク。
装飾は控えめだが、その分、生地の光沢が美しく、周囲の煌びやかな令嬢たちの中で逆に異彩を放っている――らしい。
さっきから数人の令息がチラチラとこちらを見ているが、私はそれどころではなかった。
(来たわね、本日の主役)
入り口付近がざわつき、人垣が割れる。
現れたのは、我が婚約者ジェラルド殿下。
そしてその腕には、当然のようにミナ様がしがみついていた。
「まあ、あれは……」
「婚約者がいるのに、他の女性をエスコートするなんて」
「でも、シャロ様は冷酷な方だというし……殿下もお寂しいのでは?」
周囲の囁き声が、さざ波のように広がる。
噂好きの貴族たちにとっては、格好の餌だ。
ジェラルド殿下は周囲の視線を「自分への称賛」と受け取っているのか、胸を張り、堂々とこちらへ歩いてくる。
その顔には「見ていろ、今こそ真実の愛を貫く時だ」という決意が滲んでいた。
(顔が良いのが本当に腹立たしいわね。中身が残念すぎるけれど)
私はグラスをウェイターに預け、扇子を閉じた。
戦闘開始の合図だ。
殿下が私の前で立ち止まる。
ミナ様は私の顔を見ると、怯えるように殿下の背後に隠れた。
「シャロ。少し話がある」
殿下が重々しく口を開く。
周囲の音楽が止まり、静寂が訪れた。
皆、固唾を飲んでこの修羅場を見守っている。
「ごきげんよう、殿下。それにミナ様も。奇遇ですね、私も殿下に大切なお話がありましたの」
私はあくまで優雅に、微笑みを絶やさずに応じた。
「ほう? 君から僕に話だと? どうせまた、小言だろう。もっとシャンと歩けだの、書類は期限までに読めだの……僕は君のそういう口うるさいところが我慢ならないんだ!」
いきなりの逆ギレである。
まだ何も言っていないのに。
「ああ、怖い……。ジェラルド様、シャロ様が睨んでいますぅ」
「大丈夫だ、ミナ。僕が守る。……シャロ、君には失望したよ。ミナのような純粋な心を傷つけるなんて、君には人の心がないのか?」
ミナ様の虚偽報告を鵜呑みにしているようだ。
本来ならここで「誤解です」と弁明するか、あるいは涙を流してショックを受けるのが「婚約者」としての正しい反応だろう。
だが、私はそのどちらも選ばない。
「人の心、ですか。ええ、私にもございますわ。だからこそ、殿下のそのお気持ちを尊重したいと考えております」
「……なに?」
「殿下はミナ様を愛していらっしゃる。違いますか?」
単刀直入な問いに、殿下がたじろぐ。
まさか私が直球を投げてくるとは思わなかったのだろう。
「あ、愛している! ミナこそが僕の運命の相手だ! 君のような冷たい女とは違う!」
「素晴らしい! おめでとうございます!」
私はパチパチと拍手をした。
あまりに明るい声を出したので、殿下もミナ様も、そして周囲の野次馬たちもぽかんとしている。
「で、殿下のおっしゃる通りですわ。私のような可愛げのない女は、殿下の隣にはふさわしくありません。真実の愛を見つけられたこと、心より祝福いたします」
「え……あ、ああ? わ、分かればいいんだ。君が反省しているなら……」
殿下は毒気を抜かれたような顔をしている。
彼の中のシナリオでは、私が泣いて縋り付くか、激昂してミナ様を罵る予定だったのだろう。
だが、私は間髪入れずに懐から封筒を取り出した。
「つきましては、こちらの書類にサインをお願いできますか?」
「なんだこれは。反省文か?」
「似たようなものですわ。私たちの未来のための、前向きな合意書です。これを交わせば、殿下は晴れて自由の身。誰に気兼ねすることなく、ミナ様と愛を育むことができます」
「自由……! おお、なんて甘美な響きだ」
殿下の目が輝いた。
単純で助かる。
「さあ、こちらへ。ペンも用意してございます」
私は近くのテーブルを指し示すと、流れるような動作でインク壺の蓋を開け、ペンを渡した。
殿下は疑うことなくペンを受け取る。
「ジェラルド様、その……読まなくてよろしいのですか?」
ミナ様が小声で囁くが、殿下は「ふん」と鼻を鳴らした。
「読むまでもない。シャロが僕のために書いた謝罪と、身を引くという誓約だろう。僕の寛大な心で、受け入れてやるのが男の度量というものさ」
(その通りです、殿下! 貴方のその、文章を読むのを極端に嫌う性格に、今ほど感謝したことはありません!)
心の中でガッツポーズをする。
殿下のペン先が紙に触れる。
さらさらと、特徴的な筆跡でサインが記されていく。
最後のハネが終わった瞬間、私は素早く書類を回収した。
インクが乾くのを待つ間に、念のため確認する。
「ありがとうございます。確かに、ジェラルド殿下の署名であることを確認いたしました。これで手続きは完了です」
「うむ。苦しゅうない。……で、いつ実家に帰るんだ? ほとぼりが冷めるまで、領地で反省しているといい」
殿下はまだ、状況を「私が謹慎する」程度にしか捉えていないらしい。
私は丁寧に書類を封筒に戻し、満面の笑みを向けた。
「いいえ、殿下。反省などいたしませんわ。だって、これは『双方合意による婚約解消』ですもの」
「は?」
「本日、ただいまをもちまして、私シャロ・フォン・ベルグとジェラルド殿下の婚約は白紙となりました。これより私は自由な一貴族、殿下は……どうぞミナ様とお幸せに」
私はスカートの裾をつまみ、完璧なカーテシーを披露した。
「え、ちょ、ちょっと待て。婚約解消? 僕がいつそんなことを許可した!」
「今です。たった今、ご自身でサインなさいましたよ?」
ひらりと封筒を振ってみせる。
「あ、あれは反省文では……」
「『婚約解消に関する合意書』と一番上に大きく書いてございました。お読みにならなかったのですか? 王族たるもの、署名する書類の中身を確認しないなんて、ありえませんわよね?」
「ぐっ……!」
殿下の顔が赤くなったり青くなったりと忙しい。
図星だ。
周囲からは「読まなかったのか……」「自業自得だな」「シャロ様、手際が良すぎる」といった声が漏れ聞こえる。
「そ、そんな詐欺みたいなこと、認められるか! 破棄だ、その書類は無効だ!」
殿下が手を伸ばしてくるが、私はひらりと身をかわす。
「往生際が悪うございますよ、殿下。公衆の面前での署名です。ここにいる皆様が証人ですわ」
「くそっ、シャロ! 待て!」
「いいえ、待ちません。こちらから願い下げです!」
私はきっぱりと言い放った。
会場がどよめく。
ずっと言いたかった言葉を口にした瞬間、私の心は羽根が生えたように軽くなった。
「では、私はこれで失礼いたします。明日からは赤の他人ですので、どうぞお気兼ねなく。ごきげんよう!」
私は踵を返し、出口へと向かった。
背後で殿下が何か叫んでいるが、雑音にしか聞こえない。
ミナ様が「ジェラルド様ぁ、落ち着いてぇ」と甘い声を出しているのが聞こえる。
お似合いだ。どうぞ末長く、二人だけでその世界に浸っていてほしい。
颯爽と会場を後にしようとしたその時。
「ぷっ……くくく」
誰かの、こらえきれないような笑い声が聞こえた。
会場の入り口近く、ちょうど私が通り過ぎようとした柱の陰。
そこに、一人の男性が立っていた。
夜の闇を溶かしたような黒髪に、冷ややかな美貌を持つ男。
この国の宰相、アレクセイ・フォン・クロイツ公爵だ。
普段は「氷の宰相」と呼ばれ、笑顔一つ見せない鉄仮面のような彼が、肩を震わせて笑っていた。
(……え、何? 今のやり取り、見られてた?)
目が合う。
彼は笑いを噛み殺したような、なんとも言えない表情で私を見下ろした。
「……見事だ。これほど鮮やかな手際は、長年政務に携わっている私でも見たことがない」
「は、はあ。恐縮です」
「面白い。君のような女性が、まだこの国にいたとはな」
アレクセイ様は、興味深そうに目を細めた。
その瞳の奥にある光が、単なる面白がり方ではないような気がして、私は少しだけ背筋が寒くなるのを感じた。
(まさか、変な人に目をつけられたんじゃ……)
関わらないのが吉だ。
私は軽く会釈をし、逃げるようにその場を去った。
だが、その時の私はまだ知らなかったのだ。
この「氷の宰相」こそが、私の平穏なスローライフ計画を阻む、最大の障害(溺愛)になることを。
月に一度の夜会。
貴族たちが己の権力を誇示し、腹の探り合いをする戦場だ。
私は壁の花として、グラス片手に会場の隅に陣取っていた。
今日のドレスは、マリーの見立て通り濃紺のシルク。
装飾は控えめだが、その分、生地の光沢が美しく、周囲の煌びやかな令嬢たちの中で逆に異彩を放っている――らしい。
さっきから数人の令息がチラチラとこちらを見ているが、私はそれどころではなかった。
(来たわね、本日の主役)
入り口付近がざわつき、人垣が割れる。
現れたのは、我が婚約者ジェラルド殿下。
そしてその腕には、当然のようにミナ様がしがみついていた。
「まあ、あれは……」
「婚約者がいるのに、他の女性をエスコートするなんて」
「でも、シャロ様は冷酷な方だというし……殿下もお寂しいのでは?」
周囲の囁き声が、さざ波のように広がる。
噂好きの貴族たちにとっては、格好の餌だ。
ジェラルド殿下は周囲の視線を「自分への称賛」と受け取っているのか、胸を張り、堂々とこちらへ歩いてくる。
その顔には「見ていろ、今こそ真実の愛を貫く時だ」という決意が滲んでいた。
(顔が良いのが本当に腹立たしいわね。中身が残念すぎるけれど)
私はグラスをウェイターに預け、扇子を閉じた。
戦闘開始の合図だ。
殿下が私の前で立ち止まる。
ミナ様は私の顔を見ると、怯えるように殿下の背後に隠れた。
「シャロ。少し話がある」
殿下が重々しく口を開く。
周囲の音楽が止まり、静寂が訪れた。
皆、固唾を飲んでこの修羅場を見守っている。
「ごきげんよう、殿下。それにミナ様も。奇遇ですね、私も殿下に大切なお話がありましたの」
私はあくまで優雅に、微笑みを絶やさずに応じた。
「ほう? 君から僕に話だと? どうせまた、小言だろう。もっとシャンと歩けだの、書類は期限までに読めだの……僕は君のそういう口うるさいところが我慢ならないんだ!」
いきなりの逆ギレである。
まだ何も言っていないのに。
「ああ、怖い……。ジェラルド様、シャロ様が睨んでいますぅ」
「大丈夫だ、ミナ。僕が守る。……シャロ、君には失望したよ。ミナのような純粋な心を傷つけるなんて、君には人の心がないのか?」
ミナ様の虚偽報告を鵜呑みにしているようだ。
本来ならここで「誤解です」と弁明するか、あるいは涙を流してショックを受けるのが「婚約者」としての正しい反応だろう。
だが、私はそのどちらも選ばない。
「人の心、ですか。ええ、私にもございますわ。だからこそ、殿下のそのお気持ちを尊重したいと考えております」
「……なに?」
「殿下はミナ様を愛していらっしゃる。違いますか?」
単刀直入な問いに、殿下がたじろぐ。
まさか私が直球を投げてくるとは思わなかったのだろう。
「あ、愛している! ミナこそが僕の運命の相手だ! 君のような冷たい女とは違う!」
「素晴らしい! おめでとうございます!」
私はパチパチと拍手をした。
あまりに明るい声を出したので、殿下もミナ様も、そして周囲の野次馬たちもぽかんとしている。
「で、殿下のおっしゃる通りですわ。私のような可愛げのない女は、殿下の隣にはふさわしくありません。真実の愛を見つけられたこと、心より祝福いたします」
「え……あ、ああ? わ、分かればいいんだ。君が反省しているなら……」
殿下は毒気を抜かれたような顔をしている。
彼の中のシナリオでは、私が泣いて縋り付くか、激昂してミナ様を罵る予定だったのだろう。
だが、私は間髪入れずに懐から封筒を取り出した。
「つきましては、こちらの書類にサインをお願いできますか?」
「なんだこれは。反省文か?」
「似たようなものですわ。私たちの未来のための、前向きな合意書です。これを交わせば、殿下は晴れて自由の身。誰に気兼ねすることなく、ミナ様と愛を育むことができます」
「自由……! おお、なんて甘美な響きだ」
殿下の目が輝いた。
単純で助かる。
「さあ、こちらへ。ペンも用意してございます」
私は近くのテーブルを指し示すと、流れるような動作でインク壺の蓋を開け、ペンを渡した。
殿下は疑うことなくペンを受け取る。
「ジェラルド様、その……読まなくてよろしいのですか?」
ミナ様が小声で囁くが、殿下は「ふん」と鼻を鳴らした。
「読むまでもない。シャロが僕のために書いた謝罪と、身を引くという誓約だろう。僕の寛大な心で、受け入れてやるのが男の度量というものさ」
(その通りです、殿下! 貴方のその、文章を読むのを極端に嫌う性格に、今ほど感謝したことはありません!)
心の中でガッツポーズをする。
殿下のペン先が紙に触れる。
さらさらと、特徴的な筆跡でサインが記されていく。
最後のハネが終わった瞬間、私は素早く書類を回収した。
インクが乾くのを待つ間に、念のため確認する。
「ありがとうございます。確かに、ジェラルド殿下の署名であることを確認いたしました。これで手続きは完了です」
「うむ。苦しゅうない。……で、いつ実家に帰るんだ? ほとぼりが冷めるまで、領地で反省しているといい」
殿下はまだ、状況を「私が謹慎する」程度にしか捉えていないらしい。
私は丁寧に書類を封筒に戻し、満面の笑みを向けた。
「いいえ、殿下。反省などいたしませんわ。だって、これは『双方合意による婚約解消』ですもの」
「は?」
「本日、ただいまをもちまして、私シャロ・フォン・ベルグとジェラルド殿下の婚約は白紙となりました。これより私は自由な一貴族、殿下は……どうぞミナ様とお幸せに」
私はスカートの裾をつまみ、完璧なカーテシーを披露した。
「え、ちょ、ちょっと待て。婚約解消? 僕がいつそんなことを許可した!」
「今です。たった今、ご自身でサインなさいましたよ?」
ひらりと封筒を振ってみせる。
「あ、あれは反省文では……」
「『婚約解消に関する合意書』と一番上に大きく書いてございました。お読みにならなかったのですか? 王族たるもの、署名する書類の中身を確認しないなんて、ありえませんわよね?」
「ぐっ……!」
殿下の顔が赤くなったり青くなったりと忙しい。
図星だ。
周囲からは「読まなかったのか……」「自業自得だな」「シャロ様、手際が良すぎる」といった声が漏れ聞こえる。
「そ、そんな詐欺みたいなこと、認められるか! 破棄だ、その書類は無効だ!」
殿下が手を伸ばしてくるが、私はひらりと身をかわす。
「往生際が悪うございますよ、殿下。公衆の面前での署名です。ここにいる皆様が証人ですわ」
「くそっ、シャロ! 待て!」
「いいえ、待ちません。こちらから願い下げです!」
私はきっぱりと言い放った。
会場がどよめく。
ずっと言いたかった言葉を口にした瞬間、私の心は羽根が生えたように軽くなった。
「では、私はこれで失礼いたします。明日からは赤の他人ですので、どうぞお気兼ねなく。ごきげんよう!」
私は踵を返し、出口へと向かった。
背後で殿下が何か叫んでいるが、雑音にしか聞こえない。
ミナ様が「ジェラルド様ぁ、落ち着いてぇ」と甘い声を出しているのが聞こえる。
お似合いだ。どうぞ末長く、二人だけでその世界に浸っていてほしい。
颯爽と会場を後にしようとしたその時。
「ぷっ……くくく」
誰かの、こらえきれないような笑い声が聞こえた。
会場の入り口近く、ちょうど私が通り過ぎようとした柱の陰。
そこに、一人の男性が立っていた。
夜の闇を溶かしたような黒髪に、冷ややかな美貌を持つ男。
この国の宰相、アレクセイ・フォン・クロイツ公爵だ。
普段は「氷の宰相」と呼ばれ、笑顔一つ見せない鉄仮面のような彼が、肩を震わせて笑っていた。
(……え、何? 今のやり取り、見られてた?)
目が合う。
彼は笑いを噛み殺したような、なんとも言えない表情で私を見下ろした。
「……見事だ。これほど鮮やかな手際は、長年政務に携わっている私でも見たことがない」
「は、はあ。恐縮です」
「面白い。君のような女性が、まだこの国にいたとはな」
アレクセイ様は、興味深そうに目を細めた。
その瞳の奥にある光が、単なる面白がり方ではないような気がして、私は少しだけ背筋が寒くなるのを感じた。
(まさか、変な人に目をつけられたんじゃ……)
関わらないのが吉だ。
私は軽く会釈をし、逃げるようにその場を去った。
だが、その時の私はまだ知らなかったのだ。
この「氷の宰相」こそが、私の平穏なスローライフ計画を阻む、最大の障害(溺愛)になることを。
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