胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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一章

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「何もございません。陛下」
「何も?」
「何もないところからは何も生まれぬ。もう一度、申してみよ」

 あ、ここだ。塩のように、の場面――。飛鳥はじっと舞台を眺めながら、心のなかで呟いていた。

 リア王は、三人の娘に自分をどれほど愛しているか尋ねたのだ。上の二人は美辞麗句を並べて、リア王が一番愛しんでいた末娘のコーディリアだけが、見え透いたお世辞を言わなかったのだ。


 そんなリア王の逸話の元になったイギリスの昔話だよ、とデヴィッドは教えてくれた。
 昔話ではこの場面で、「塩のように愛しています」と言うらしい。そのあと、王様は塩抜きの料理を食べさせられてその味気なさを知り、「塩」が日常に欠かせないもの、生きていくために不可欠なものだと気づかされる。
 だから情熱的な愛ではなくて、家族の情愛を意味する時、この言葉を使うのだという。もっともリア王の物語は、末娘の真意に気づいたときには遅すぎた、という悲劇だけどね。と、デヴィッドは付け加えて言った。



「若くして、これほどつれないのか?」
「若いからこそ、陛下、真実です」

 広いホールを埋める観客を前にして、劇は粛々と進んでいる。舞台上のデヴィッドは、清楚なドレスを身に着け、優雅でたおやかなお姫様そのものだ。
 すごいな、デヴィッド。かわいい女の子にしか見えないよ。それに、なんてよく通る声――。シェイクスピアどころか、演劇すら鑑賞したことのない飛鳥は、華麗で豪奢な衣装やセットに圧倒され、堂々とした彼ら達の演技にただただ見惚れている。

 午前中の他寮の発表も、かなりのレベルだった。大がかりなモニュメントや、コンサート、この劇にしても、たった二週間でできあがったなんて、とても信じられない。各寮の意気込みが感じられ、本当のスタートは新学期と同時に切られているという噂も、あながち誇張でもないのかもしれない。

 そうだとしても仕方がない。ベストをつくすだけだ。

 飛鳥は、自分の知る日本の学校の文化祭とは、情熱も、予算もけた違いに注ぎ込まれたこのイベントに、己の卑小さを感じながら、歯を食い縛って耐えるしかない。



「トヅキ先輩ですね?」
 劇も終盤にさしかかった頃、真剣に見入っていた飛鳥の肩をそっと叩く人影があった。見知らぬ下級生が声をかけてきたのだ。
「ルベリーニ先輩から言づかってきました。予定変更があるそうです。僕らと一緒に来て下さい」
「わかった。すぐ行く」
 飛鳥は周囲の邪魔にならぬように身を屈め、下級生たちと連れ立って観客席を後にした。



「アスカが席を立った」
 後部座席から飛鳥を見守っていたヘンリーとエドワードは、急いでその後を追いかける。大した時間差はないのに、劇場前広場には、それらしい姿はもうすでにない。
「車か!」

 どこだ。今日の市街地は交通規制が敷かれていて、車で移動できる場所は限られているはずだ。犯罪すれすれでも、見つかったときに問題にならない場所は……? 学校内なら、礼拝堂、厩舎……。

 ヘンリーは思考をフル回転させ、学内地図を思い描く。

 そうか、厩舎だ!


「エド、車を呼んでくれ。厩舎だ!」
「あれの方が早いだろ?」
 エドワードが指さした場所には、ウイスタン校がイベントサービスのために用意した二頭立ての四輪馬車があった。御者役の生徒は、のんびりと観光客の女の子とおしゃべりしている。

「きみは会場で待機していてくれ」
 ヘンリーはエドワードにそれだけ言い残すと馬車に走り寄り、
「すまない、一頭貸してくれ」と、素早くハーネスを外して裸馬に跨る。

「ハッ!」
 長すぎる手綱をムチのようにしならせ、馬を走らせる。


「今の人、ヘンリー・ソールスベリーですよね?」
「さぁ、どうだったかな?」
 エドワードは呆れ顔で肩をすくめて見送りながら、「この馬車、これから一時間俺が貸切るよ、いくらだ?」と、あっけに取られている御者の方へと大股で歩みよった。




 ウイスタン校の馬場と厩舎は、校舎からは2、3マイル離れた小高い丘の上にあった。だが市街地を迂回しここまで来るだけで、もう10分も経過している。

 厩舎にたどり着いたヘンリーは柵に馬を繋ぐと、大声で飛鳥の名を連呼する。

「アスカ! アスカ!」

 馬の出払った空っぽの厩舎内を、彼は一つ一つ見てまわる。

「アスカ!」

 ようやくうず高く積まれた干し草の陰に、それらしい足先を見つけ、ヘンリーは駆けよって彼を抱き起し、大声で名前を呼んだ。

「ん……」
 意識はあるようだ。だが、軽く頬を叩いてみても、飛鳥は目を覚まさなかった。
「薬か――」
 ヘンリーは、飛鳥に顔を寄せ、臭いを嗅いでみる。
「麻薬じゃないとすれば、トリアゾラム、それとも、フルニトラゼパムか」

 これが睡眠薬ならなんとかなる。

 ヘンリーは飛鳥を担ぎ上げ、表に出た。


 壁に彼の体をもたせかけて襟首を掴むと、ヘンリーは、一発、二発、とその頬を張った。
「起きろ、アスカ!」
 次いでヘンリーは飛鳥の頭を胸に抱えるとそばの蛇口を捻り、こじ開けた蒼褪めた唇から、ホースの先を突っこんだ。
「飲め。もっと飲むんだ」
 いきなり冷たい水を流し込まれ、さすがに意識の朦朧としていたあすかも目を開けてむせ返した。
「もっと飲んで、吐くんだ」
 だがあすかは眉をしかめて、ぼーとしたままだ。
「ちょっと、待って、」
「時間がないんだ!」

 訳の分からないまま、言われた通りに、飛鳥はホースを片手で掴んでゴクゴクと流れる水を飲み下した。

「もっと?」
 顔を上げた飛鳥の後頭部を押さえると、彼はいきなりその口の中に指をねじ込んで、舌の根元を押さえつける。
「吐くんだ。全部出せ」
「……! ちょ……」
 飛鳥は身をよじってその手から逃れると、涙目になって抗議する。
「無理だよ、そんな……」
「そうか」

 飛鳥を引き摺り立たせて、ヘンリーはみぞおちに一発、拳を入れた。

「うぅ……」

 前のめりに倒れ、今度こそ飛鳥は胃の中をからにしていた。
 背中を撫でてくれているヘンリーを、口を拭い肩で息をしながら真っ蒼な顔で肩越しに振り返る。

「きみって本当に容赦ないね」

 ヘンリーは地面に流しっ放しのホースを拾い上げ、飛鳥の手前に向けた。どくどくと溢れ出す水流が、周囲の柔らかな地面をどろどろにぬかるませていく。

「顔ぐらい洗っておけよ」

 言われるままに飛鳥はその水を梳くい、口を漱ぎ、顔を洗う。

「また制服がドロドロだ。やっとクリーニングから戻ってきたのに」
「急げば着替える時間くらいあるよ」

 ヘンリーはもう馬の手綱を手に取っていて、飛鳥を急かしている。
 だが、飛鳥の憎まれ口にやっと安心したのか、いつもの柔らかな口調に戻っていた。
 
「これに乗るの? 馬具もないのに」
 ヘンリーは先に馬に跨ると、躊躇している飛鳥を引っ張り上げた。

「怖いなら、しがみついているといい」

 


 いまだ半分夢心地で、飛鳥は何がなんだか判らなかった。無理やり叩き起こされたせいか、頭がズキズキしていた。
 でも、温かい。

 西洋人って、本当に、体温高いんだ――。

 しっかりと抱え込まれている温もりに、規則正しく刻まれる振動。蹄の音。そして、空を切るひゅうひゅうとした切るような風の感触を肌に感じながら、飛鳥は回らない頭で、ぼんやりとそんなことを考えていた。



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