胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

文字の大きさ
上 下
163 / 739
三章

しおりを挟む
「あんたは、食べないの?」
 窓の色ガラスから昼下がりの明るい日差しがゆらゆらと差し込むテーブルに、ティーセットと桜色のスコーンののった皿を置いて、アンは、ジャックとの会話を終え、やっとテーブルに着いた吉野にわざと素っ気なく訊ねていた。久しぶりに顔を合わせたというのに、仏頂面でだらしなく椅子に腰かけている吉野が、無性に腹立たしい。それは、吉野が一人ではなく、連れがいて、ゆっくり話すこともできないためかもしれなかったが。

「俺、甘いもの嫌いなんだ」
 チラッ、と皿に目をやっただけで、吉野は光の揺れる窓ガラスに顔を向ける。
「あんたのレシピじゃないの?」
 意外な返答にアンは驚いて訊き返した。
「砂糖の量を決めたのは、ジェシカおばさんだよ。俺にはあんたたちの味覚、理解できないもの」
 どことなく棘のある物言いにムカッときて、アンは、「悪かったわね」と吉野の頭をパシッとしばく。
「痛て! まだ試験半分残ってるんだぞ、頭悪くなったらどうしてくれるんだよ!」
 叩かれた箇所を撫でながら、吉野は唇を尖らせて上目遣いにアンを見上げた。


「アン!」
 ジャックに呼ばれてアンは淹れ立てのコーヒーを受け取り、吉野の前に置いた。テーブルではアンが離れたとたんに、先輩二人に挟まれた吉野は、お説教を食らっている。

「ヨシノ、発音。スピーキングのテストもあるんだよ」
「はい、先輩。なんなら、これからはフランス語で会話しますか?」
「どうしたんだ、ヨシノ? 試験のできが思わしくなかったのかい?」
 ベンジャミンが揶揄うように言い、チャールズと目を見合せて笑っている。
「先輩のASレベルよりはずっとマシな結果をだせていますよ」
 吉野はふんと鼻で嗤い、流暢なエリオティアン・アクセントで答えた。
「僕はA評価は固いと思っているけれどね。じゃ、きみ、何でそんなに不貞腐れているんだい?」
「試験が終わるまで、お兄さんから弓道を禁止されているのさ」
 チャールズが吉野に代わって答え、可笑しそうに付け加えた。

「おまけに、せっかくの日曜日も監視つき」
「『パブの出入りは上級生のつき添いの下』は、規則だもんな」
 ベンジャミンはニヤニヤしながら、スコーンを頬ばっている。

「あーあ、残っているのは、もう理数系ばかりなんだからいいじゃないですか、自由にしてくれたって」
「きみは、ちょっと目を離すと糸の切れた凧みたいにどこかに飛んでいってしまうからね」
 チャールズは、手を伸ばして吉野の頭をくしゃっと撫でる。吉野は、くいっと頭を傾げてチャールズの長い指先を振り払うと、少し機嫌を直して呟いた。
「凧、凧かぁ――、こっちでも凧上げってするんですか?」
「するよ、六月には大きな大会もあったと思う」

「ここだ!」
 カラン、カランと、入って来た三人に、吉野は立ち上がって手を振った。
「あ、ヨシノ!」
 クリスがぱたぱたと客で埋まったテーブルの間をぬって、やって来る。フレデリックとアレンがその後に続いた。

「席が足りないね」
 ベンジャミンはすっと腕を上げて人指し指を立て、アンを呼んだ。
「きみ、椅子を貰えるかな?」
「3ポンド50ペンス」
 アンは意地悪く笑って呟いた。だがすぐにひょいと肩をすくめて、怪訝そうに見返したベンジャミンに、「冗談よ、もう予備の椅子はないの。カウンターに座って」と不機嫌な顔のまま告げる。

「ヘンな女――」
 苦笑するベンジャミンに、吉野は立ち上がって顎をしゃくる。
「先輩、ダーツ勝負しますか? 負けた方がおごり」
「きみ、利き腕を使うなよ。それにハンデを貰わないと。フェアとは言えないだろ?」
 ベンジャミンは返事を聞く前に立ち上がり、吉野の肩に腕を廻す。
「カウントダウン、フィニッシュをダブルエリア限定でどうです?」
「OK」
 パンっと肩を叩くと、早速テールコートを脱いで意気揚々とダーツに向かう。吉野は空いた席に座るようにクリスたちを促し、ベンジャミンの後に続いた。

「ヨシノが不利だな。僕はベンにクラブハウスサンドを賭けるよ!」
 チャールズが言うと、「ヨシノに、桜スコーン!」と、クリスが言い、
「じゃぁ、僕もヨシノに紅茶を」と、フレデリック。
「僕は……」
 アレンが口ごもる。

「俺が勝ったら、何か弾いて」と、吉野がダーツのスローイングラインから振り返って言った。





「リクエストは?」
 ピアノに向かい、アレンはカウンターに座る吉野に声をかけた。
「何でもいい」
 吉野は、にっと笑って答えた。もう、それっきりアレンの方を向くこともなく、ジャックと話し込んでいる。

 アレンはそんな吉野を眺めてしばらく考えていたが、気を取り直してピアノに向き直ると弾き始めた。カウンター内で洗い物をしていたアンは、手を止め、顔を上げてアレンの背中を見つめ、耳を傾ける。

「お前、あの子のピアノを聞くのは初めてか?」
 ジャックが会話の合間にアンを振り返って訊いた。
「エリオットの天使さまだ」


「月の光だね、ドビュッシーの」
 チャールズは、勝負が決まるなりテーブルに置かれたクラブハウスサンドを、もじもじと恐縮して座る下級生たちに勧めながら、クスクスと笑って言った。
「ハンデが足りなかったな」
「あの勝負強さはどこから来るんだろうね?」
 ベンジャミンは、チャールズと顔を見合わせて苦笑しながら、また指を立てる。
「きみ、クラブハウスサンド追加でもう一皿!」

 ヨシノ、よくこんなポッシュ連中とつき合っていられるわ!

 と、アンは怒りで沸騰しながら、吉野の背中をぎろりと睨みつける。その横ではエリアスがクスクス笑い、すれ違いざま小声で囁いた。

「彼らがお気に召さないようだね」
「ヨシノにポッシュアクセントなんか似合わないわ」
「その点には同感だね」
 アンは、バタンッ、とドアをわざと乱暴に閉めて厨房に入っていった。

「なんだ、あいつ――」
 吉野は、その様子を怪訝そうに目で追って、「他のバイト辞めて、ここ一本にしたんだろう? 大丈夫なのか?」と心配そうに眉をしかめてジャックに訊ねた。

「大忙しだよ。もう一人雇いたいくらいだ」
 ジャックは、笑って軽くウインクして答える。
「じゃ、疲れているのかな……。アンの親父さんは?」
「ああ、夜には店に入って真面目に働いているよ」
 ジャックは嬉しそうに笑うと、吉野の頭をポンポンと撫でた。
「坊主のお陰だ」
「あんたの息子だろ。家に戻って来ただけじゃないか」
「ああ、そうだな」
「俺だってここに来るとほっとするもの」
 吉野も嬉しそうに、にっこりと微笑んだ。


 演奏が終わり振り返ったアレンに、吉野は、「ありがとう。俺、西洋音楽は好きじゃないけれどお前の音は好きだよ」と告げると、カウンターからハイチェアーを抱えて、みんなのいる席に戻ていく。

 くすぐったそうに顔を伏せて微笑むアレンの背後で、「まるで恋しているみたい」とアンが呟いた。
「あなたが? だからそう聴こえるんですよ。僕は、神を想う心を込めて弾いていたのですから」
 アレンは立ち上がって、セレストブルーの瞳を真っ直ぐにアンに向けてそう言い放つと、ぷいっと顔を背けてテーブル席に戻った。



 運んできた椅子には座らずに、吉野はテーブル横につっ立ったままクラブハウスサンドをつまんでいる。
「じゃんけんしよう。勝ったやつが王様」とベンジャミンが、ハイチェアーをトンっと叩く。

「王様の特権は?」
「夕食のカレー!」
「OK!」
 いきなり始まったじゃんけん大会に、アレンはまったくついていけず、唖然と立ち尽くしている。

「アレン、早く!」
 クリスに手を引っ張られテーブルに寄ると、すかさずゲームが始まった。
「シザーズ、ペーパー、ストーン!」


 二カ月に渡る試験期間の、束の間の休日がこうして過ぎていった。






しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

腐違い貴婦人会に出席したら、今何故か騎士団長の妻をしてます…

BL / 連載中 24h.ポイント:30,623pt お気に入り:2,244

婚約者は聖女を愛している。……と、思っていたが何か違うようです。

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:11,707pt お気に入り:9,133

懐いてた年下の女の子が三年空けると口が悪くなってた話

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:278pt お気に入り:36

乙女ゲーム関連 短編集

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:1,782pt お気に入り:155

婚約者の彼から彼女の替わりに嫁いでくれと言われた

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:5,581pt お気に入り:138

痴漢冤罪に遭わない為にー小説版・こうして痴漢冤罪は作られるー

ミステリー / 連載中 24h.ポイント:753pt お気に入り:0

男はエルフが常識?男女比1:1000の世界で100歳エルフが未来を選ぶ

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:269pt お気に入り:366

最上級超能力者~明寿~ 社会人編 ☆主人公総攻め

BL / 連載中 24h.ポイント:946pt お気に入り:234

【完結】私がいなくなれば、あなたにも わかるでしょう

nao
恋愛 / 完結 24h.ポイント:16,186pt お気に入り:937

処理中です...