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五章
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予定よりもかなり早くついてしまった吉野とアレンは先に個室に通され、残りのメンバーが揃うのを待っていた。
今年のイースターは去年よりも半月ほど遅い。それにあわせた休暇も四月後半にまでずれ込んでいる。そんな休暇中に迎えるアレンの誕生日のために、サウードがレストランの個室を用意してくれたのだ。
久しぶりに顔を合わせたというのに、口を開けば要らぬことばかりを言ってしまいそうで、アレンは吉野からそっぽを向いて、窓外に広がるロンドンの街並みを眺めていた。
「誕生日おめでとう」
そんなアレンの鼻先に、ぽっこりと丸いガラス瓶が差しだされる。透明ガラスの内側には、砕かれた葉や花びらのようなものが入っている。アレンは、思いがけないプレゼントに驚いて目を瞠った。
「ありがとう。ポプリかな?」
声をうわずらせて慌ててお礼を言い、吉野を見遣る。
「ローズティーだよ」
楽しげな吉野の口調に、アレンの上にも嬉しそうな笑みがこぼれていた。
だが、その瓶の蓋を開けた瞬間、そこから香る特徴のある甘やかな香りに、アレンの瞳には怪訝そうな色が浮かび、その疑念はそのまま吉野に向けられていた。
「ロスの自宅に咲いている薔薇の香りみたいだ――」
「同じか?」
あの薔薇でお茶を作れるはずがない――。そう訝しみながら、アレンは自信なさげに頷く。
「母の薔薇みたいだ」
普段はロスの自宅になんて寄りつきもしない母が、この薔薇が咲く間だけ、思いだしたように帰ってくる。そして、今年もちゃんと咲いているのを確かめると、またすぐどこかの別荘かリゾート地へと行ってしまう。アレンにとって、この香りはそんな嫌なことしか思いださせない記憶につながっていた。
アレンは手にしたガラス瓶に蓋をして、静かにテーブルに置いた。
「どうやってこの薔薇を手に入れたの?」
特別に品種改良した、どこでも手に入らない品種のはずなのに――。
「マーシュコート」
もどかしげなアレンとは裏腹に、吉野は鳶色の瞳を悪戯っ子のように輝かせている。
「これ、リチャードの作った薔薇なんだよ。マーシュコートに薔薇園があるんだ」
アレンは、息が止まるかと思った。信じられずに眉を寄せる彼に、吉野はにこにこと自慢するような笑みを向けている。
「二回目にお前んちに行った時、そうじゃないかって思ってさぁ、ゴードンに頼んでおいたんだ」
これだから、きみは――。
アレンは腹立たしげに唇を噛んで俯く。
「なんだ、気に入らなかったのか?」
吉野はちょっとつまらなそうに、唇を尖らせた。
「きみは、僕に酷いことをしているってことが判らないの?」
悔しさでアレンの声は震えていた。案の定、吉野は訳が判らないといった体で、首を傾げている。
「母のようになれって言うの? この香りを嗅ぐたびに、そこにいないきみを思いだせって?」
長い指先で口許を覆い、アレンは吉野から顔を背ける。
「僕たちを置いて、どこかへ行ってしまうくせに!」
「そんなんじゃないよ。ただ、お前が喜ぶかと思っただけで――」
吉野は困った顔をして、段々と語調を弱めている。
「嬉しいよ! 嬉しいに決まっているだろ。父の薔薇だもの」
駄目だ。きっと吉野には、怒っているようにしか聞こえない――。
アレンは、歯ぎしりして瞼を伏せる。どうしてこう、上手くできないのだろう、かと。自問自答してみても思うように感情を操れない。
「いいよ、もう……。要するにお前、これが気に入らなかったんだろ? じゃあ、何がいい?」
それなのに、甘えるように首を傾げた吉野にアレンは笑ってしまっていたのだ。彼でもこんな顔をするんだ、と。アレンはクスクスと笑い続け、しばらくしてから、深く息をつき、真っすぐに吉野を見つめた。
「きみの時間を僕に下さい」
ずいぶん間を置いてから、吉野は応えた。
「どのくらい?」
「あと二年、卒業まで」
「なんで?」
「僕の自由になるのは、その間だけだから。――きみや、みんなと一緒にいたい」
「その後は? また祖父さんの言いなりか?」
「約束だから。きみが――、祖父から買い取ってくれた時間だよ」
そうだ、みんな僕が元凶だったんだ……。
吉野は僕のために無茶をし、僕のせいでフレッドまで危険に晒した。
僕自身の問題だったのに。僕に、祖父に逆らう勇気がなかったから……。
アレンの脳裏には、そんな悔恨の想いがほとばしっていた。吉野のくれた時間を無為に浪費してきたような、そんな恐怖に囚われていた。だからこそ――。
「今度は、僕がきみの時間を買う」
「無理だ」
吉野は残念そうに小さく笑った。
嫌だ! 諦めない!
アレンは大きく息を吸い込んでいた。意識の奥底に、厳しいけれど真っ直ぐに自分に向けられた兄の視線を感じながら――。
まだ、諦めたりしない。
「俺の時間を買うなら、五年だ」
息を呑み、アレンは思わず吉野の顔を凝視した。
「こっちの大学を受けろ。それが条件だ。来年度、お前は監督生になって、監督生代表になる。できるか?」
吉野はじっと探るような視線をアレンに向けている。
「俺はその間に、欧州の全ルベリーニをお前に跪かせる」
「また、ルベリーニ――。ルベリーニって、いったい何なの?」
「あいつらが、この世界のインフラのほとんどを押さえているんだよ」
吉野は、くっと咽喉の奥で嗤っていた。
「お前、無知すぎる。世間一般で言われているような、マフィアか何かだと思っているんだろう?」
ぷいっと頬を膨らませて、アレンはまた顔を背ける。だって、その通りだったから。これ以上、吉野に笑われるのは嫌だったのだ。
「そんなもんじゃない」
アレンの解りやすい反応に、吉野はくしゃっと笑顔になった。
「お前がここにいるなら、俺も逃げ廻るのは止めるよ」
だらしなく椅子にもたれかかり、長い足を投げだして座っていた吉野は、気だるげに休暇中にかなり伸びた前髪をかき上げ、切れ長の鳶色の目を細めて言った。
「アレン、他人に自分の人生を渡すな。お前の好きなように生きろ」
今年のイースターは去年よりも半月ほど遅い。それにあわせた休暇も四月後半にまでずれ込んでいる。そんな休暇中に迎えるアレンの誕生日のために、サウードがレストランの個室を用意してくれたのだ。
久しぶりに顔を合わせたというのに、口を開けば要らぬことばかりを言ってしまいそうで、アレンは吉野からそっぽを向いて、窓外に広がるロンドンの街並みを眺めていた。
「誕生日おめでとう」
そんなアレンの鼻先に、ぽっこりと丸いガラス瓶が差しだされる。透明ガラスの内側には、砕かれた葉や花びらのようなものが入っている。アレンは、思いがけないプレゼントに驚いて目を瞠った。
「ありがとう。ポプリかな?」
声をうわずらせて慌ててお礼を言い、吉野を見遣る。
「ローズティーだよ」
楽しげな吉野の口調に、アレンの上にも嬉しそうな笑みがこぼれていた。
だが、その瓶の蓋を開けた瞬間、そこから香る特徴のある甘やかな香りに、アレンの瞳には怪訝そうな色が浮かび、その疑念はそのまま吉野に向けられていた。
「ロスの自宅に咲いている薔薇の香りみたいだ――」
「同じか?」
あの薔薇でお茶を作れるはずがない――。そう訝しみながら、アレンは自信なさげに頷く。
「母の薔薇みたいだ」
普段はロスの自宅になんて寄りつきもしない母が、この薔薇が咲く間だけ、思いだしたように帰ってくる。そして、今年もちゃんと咲いているのを確かめると、またすぐどこかの別荘かリゾート地へと行ってしまう。アレンにとって、この香りはそんな嫌なことしか思いださせない記憶につながっていた。
アレンは手にしたガラス瓶に蓋をして、静かにテーブルに置いた。
「どうやってこの薔薇を手に入れたの?」
特別に品種改良した、どこでも手に入らない品種のはずなのに――。
「マーシュコート」
もどかしげなアレンとは裏腹に、吉野は鳶色の瞳を悪戯っ子のように輝かせている。
「これ、リチャードの作った薔薇なんだよ。マーシュコートに薔薇園があるんだ」
アレンは、息が止まるかと思った。信じられずに眉を寄せる彼に、吉野はにこにこと自慢するような笑みを向けている。
「二回目にお前んちに行った時、そうじゃないかって思ってさぁ、ゴードンに頼んでおいたんだ」
これだから、きみは――。
アレンは腹立たしげに唇を噛んで俯く。
「なんだ、気に入らなかったのか?」
吉野はちょっとつまらなそうに、唇を尖らせた。
「きみは、僕に酷いことをしているってことが判らないの?」
悔しさでアレンの声は震えていた。案の定、吉野は訳が判らないといった体で、首を傾げている。
「母のようになれって言うの? この香りを嗅ぐたびに、そこにいないきみを思いだせって?」
長い指先で口許を覆い、アレンは吉野から顔を背ける。
「僕たちを置いて、どこかへ行ってしまうくせに!」
「そんなんじゃないよ。ただ、お前が喜ぶかと思っただけで――」
吉野は困った顔をして、段々と語調を弱めている。
「嬉しいよ! 嬉しいに決まっているだろ。父の薔薇だもの」
駄目だ。きっと吉野には、怒っているようにしか聞こえない――。
アレンは、歯ぎしりして瞼を伏せる。どうしてこう、上手くできないのだろう、かと。自問自答してみても思うように感情を操れない。
「いいよ、もう……。要するにお前、これが気に入らなかったんだろ? じゃあ、何がいい?」
それなのに、甘えるように首を傾げた吉野にアレンは笑ってしまっていたのだ。彼でもこんな顔をするんだ、と。アレンはクスクスと笑い続け、しばらくしてから、深く息をつき、真っすぐに吉野を見つめた。
「きみの時間を僕に下さい」
ずいぶん間を置いてから、吉野は応えた。
「どのくらい?」
「あと二年、卒業まで」
「なんで?」
「僕の自由になるのは、その間だけだから。――きみや、みんなと一緒にいたい」
「その後は? また祖父さんの言いなりか?」
「約束だから。きみが――、祖父から買い取ってくれた時間だよ」
そうだ、みんな僕が元凶だったんだ……。
吉野は僕のために無茶をし、僕のせいでフレッドまで危険に晒した。
僕自身の問題だったのに。僕に、祖父に逆らう勇気がなかったから……。
アレンの脳裏には、そんな悔恨の想いがほとばしっていた。吉野のくれた時間を無為に浪費してきたような、そんな恐怖に囚われていた。だからこそ――。
「今度は、僕がきみの時間を買う」
「無理だ」
吉野は残念そうに小さく笑った。
嫌だ! 諦めない!
アレンは大きく息を吸い込んでいた。意識の奥底に、厳しいけれど真っ直ぐに自分に向けられた兄の視線を感じながら――。
まだ、諦めたりしない。
「俺の時間を買うなら、五年だ」
息を呑み、アレンは思わず吉野の顔を凝視した。
「こっちの大学を受けろ。それが条件だ。来年度、お前は監督生になって、監督生代表になる。できるか?」
吉野はじっと探るような視線をアレンに向けている。
「俺はその間に、欧州の全ルベリーニをお前に跪かせる」
「また、ルベリーニ――。ルベリーニって、いったい何なの?」
「あいつらが、この世界のインフラのほとんどを押さえているんだよ」
吉野は、くっと咽喉の奥で嗤っていた。
「お前、無知すぎる。世間一般で言われているような、マフィアか何かだと思っているんだろう?」
ぷいっと頬を膨らませて、アレンはまた顔を背ける。だって、その通りだったから。これ以上、吉野に笑われるのは嫌だったのだ。
「そんなもんじゃない」
アレンの解りやすい反応に、吉野はくしゃっと笑顔になった。
「お前がここにいるなら、俺も逃げ廻るのは止めるよ」
だらしなく椅子にもたれかかり、長い足を投げだして座っていた吉野は、気だるげに休暇中にかなり伸びた前髪をかき上げ、切れ長の鳶色の目を細めて言った。
「アレン、他人に自分の人生を渡すな。お前の好きなように生きろ」
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