胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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六章

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 吉野は、プラットホームにもうし訳程度に設置された旅客上屋があるだけの、無人駅で列車をおりた。数段の階段を下って地面を踏みしめる。
 大地に張りつくように自生する背の低い植物たち。そこかしこに晒された岩肌。ゆるやかな斜面を下り、ぎりぎりの場所から眼下を覗く。ノミを振るって削り取ったような断崖に挟まれ、遥か下方に蒼く輝く流れがある。これは海なのだ。引きずり込まれそうになる深い蒼から顔をあげると、向こう岸の崖の上で、トナカイがじっと自分を見つめていた。ピクリとも動かずに。
 吉野は目を逸らしたら負けのような気がして、自分を観察するトナカイの大きなつぶらな瞳を睨めつけた。

 夏とはいえ肌寒ささえ感じる断崖にどれほどの時間佇んでいたのか、トナカイはふいっと頭を廻し悠然と去っていった。
 静寂の中に吹き抜ける澄み切った風に今さらながら意識が緩む。ほっと息をついて腰を下ろし、胡坐をかいて座りこんだ。そしてようやく、背にしたリュックサックから愛用の龍笛を取りだした。



「ヨシノ、次が最終だよ」

 何度か列車が行き交った。けれど、こんな何もない荒野の真ん中の小さな駅で降りる客などいないはずだ。背後からかけられた声に、吉野は意外そうに笛を下ろして振り向いた。

「なんだ、戻ってきたの?」
「きみ、野宿する気なんじゃないかと思ってね。それにしちゃ、軽装すぎるよ。日が沈まないからって甘く見すぎだ」
「心配性だな、マルセル」
 吉野は笛をしまい、立ちあがった。
「ああ、まだいいよ。次の列車は一時間後だ」
 長身の黒髪の青年は、吉野の肩をぽんと叩いて座るように促した。
「それより、さっきの笛を聴かせてくれよ」

 だが吉野はもう笛を吹く気はないようだ。まるで聞こえていないかのように無視して頭の上で手を組み、ゴロリと寝転がる。

「空が近いな」
「ここはもう北極圏だもの」
「列車が来たら起こして」

 そのまま目を瞑る吉野に、マルセルは慌てて肩を揺すった。
「おい、寝るな! 乗りすごしたら翌朝まで野宿だよ! この辺には狼がでるんだ!」
「へぇー、そりゃすごいな! ノルウェーの野生狼って国内に六十八頭しかいないらしいぞ。会えたらラッキーてやつだな」
 目を瞑ったまま返事をする吉野を、マルセルは呆れた顔で見下ろした。

「――コーヒーを持ってきている。パンと、ハムにチーズも」
 目を開けてにっと笑い、跳ね起きる吉野。そんな彼をマルセルは声を立てて笑った。
「きみは、案外分かりやすい奴だね!」
「腹が減っているんだ」

 マルセルは、肩に掛けていた小さなナップサックから全粒粉の大きな茶色い丸パン、ハム、チーズと取りだして、アーミーナイフで切り分けて挟むと吉野に渡した。

「よくこんな何もないところで一日すごせるね」
「じゃ、なんであんたはその何もないところまで、わざわざ来たんだ?」
「ここからさらに北上してトロムソまで行って、舟遊びに参加するためだよ。白夜の中、沈まない夕日を見ながら海に漕ぎだすんだ」
「ロマンチックだな」

 吉野は貰ったパンにかぶりつき、ポットから注がれた携帯カップのコーヒーを口に運ぶ。

「一緒に来るかい?」
「残念。あんたとはここでお別れだ。短い間だったけれど楽しかったよ、マルセル」
 吉野はにかっと笑って立ちあがった。

「ほら、俺の列車が来た」

 マルセルは驚いて吉野を見あげ、慌てて立ちあがる。
 吉野とはフランスから同じ列車に乗り合わせ、ここまで行動をともにしてきたのだ。ノルウェーの北極圏にまで来たのだから、当然、観光地のトロムソまで行くものだと思いこんでいた。

 こんな最果ての地まで来て、こんな名も無い駅が旅の目的地だなんて!

「きみ、ここで戻るの? これからどこへ?」
「南」

 すでに歩きだしている吉野は、呆然としているマルセルに肩越しに一瞥した。

「あんたの列車が来るまで、狼に襲われないようにな!」

 ガタゴトと列車が近づき、止まった。長細いコンクリートのホームに立った吉野は、もう一度振り返り軽く手を振る。
 荒涼とした大地に一人残されたマルセルは、吹き荒ぶ風の中、茫然とただ立ち尽くしていた。





「充分に楽しめましたか?」
 オスロ駅ストックホルム行きホームでウィリアムとアリーの姿を見つけ、そんなゆったりとした声で迎えられた吉野は、苦笑して肩をすくめた。
「うん、ありがとう。お陰で有意義にすごせたよ。一週間も自由にさせてくれたんだものな」

 特に怒った様子を見せる訳でもないウィリアムと、悪びれた様子もない吉野を見比べて、アリーは理解できない風に頭を振っている。そんな彼を尻目にウィリアムは、「さぁ、次は?」と余裕しゃくしゃくの笑みを浮かべて軽く首を傾げている。

「ストックホルムで一泊。それからドイツの主要都市を順繰りに。スイスのアーカシャーHDの研究所には、俺は、やっぱり立ち入り禁止なの? 飛鳥、八月には来るんだろう? 会えないかな?」

 スウェーデン鉄道高速列車の灰色のシートに腰をおろし、吉野は大あくびをしながら、矢継ぎ早に訊ねていた。まるで、ここまでの空白などなかったように、巻いてきた護衛の彼らに接しているのだ。

「なぁ、ウィル、あんたGPSどこに仕込んだの? 今回ばかりは俺でも見つけられなかったよ」
「おや、とっくに見つけているものだと思っていましたよ」

 澄ました顔で言うウィリアムを、吉野は鼻で嗤った。

「なぁ、アリーどう思う? こいつ、俺を泳がせて、獲物がかかるのを待っているんだぞ。いたいけな未成年を餌にしてさ!」
「その未成年者が、ふらふらと一人で彷徨わないで下さい。あなたに何かあったら、彼だって堪ったものじゃないでしょう?」
「そうなん? サウード怖えの?」


 吉野はシートにもたれかかったまま、半分眠りかけている。ウィリアムは彼の瞼にそっと長細く折りたたんだハンカチをかけた。

「白夜っていうものは、なかなかに堪えるんですよ。夜、眠れなくてね」

 眠りに落ちた吉野に目を細め、声のトーンを落とすと、ほっとしたようにウィリアムはアリーに向き直る。

「この地に何かあるのですか?」
「私も詳しくは――。ただ、以前聞いた話では、彼の亡くなった祖父の想い出のある土地なんだそうですよ」
「我々を振り切ってでも行きたいほどの?」
 呆れた声のアリーに、ウィリアムは困ったような笑みを浮かべる。
「何か意味があるんでしょうね。この子は無駄なことはしませんからね」

 すやすやと寝息を立てている吉野に二人して視線を戻すと、また一つ、何とも言えない吐息を二人して漏らしていた。そして、苦笑いまで申し合わせたように。

 列車は、静かにホームを離れ滑りだしていた。




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