胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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六章

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 人ひとりいない通路をひた走り、ヘンリーは映写調整室のドアを激しく叩いた。

「僕だ! 開けろ!」

 鍵が外されドアが開く。まっさきに視界に飛びこんできたのは、床に散乱するガラスの破片だ。それを避けた部屋の片隅に、ハンカチを真っ赤に染めあげ、顔を押さえて横たわる吉野がいた。

「ヨシノ!」
「大声出すなよ、ヘンリー」
「傷は、」
「大したことないよ。それより、アリーを早くここから出してくれ。アラブ、パキスタン系は疑われて拘束される」
「身分証がある」
「サウードの名をだすな」
 覗きこむアリーを吉野は睨み返す。

「これを。きみの身分証だ。もし止められたら使ってくれ」
 ヘンリーはポケットからアリーの写真付きアーカシャ―HD社員証を取りだし、押しつけるように手渡した。

「ウィル、すぐに病院へ連れていくんだ。裏に車を呼んである」
 ヘンリーの指示に、すぐさま吉野を担ぎあげようとしたウィリアムに、「いいよ、自分で歩けるよ。出血のわりにさ、ホント、大した怪我じゃないんだ」と本人は苦笑しながら身体を起こす。
「ほら、ぴんぴんしているだろ?」
「貧血でふらふらじゃないですか。甘えておきなさい」
 ウィリアムは、問答無用でその背に吉野を担ぎあげた。
「あなたも。あなたの方が酷い怪我だ」
 血だらけのアリーの背中に眉をしかめ、ともに部屋をでるようにと促したそのとき、ロレンツォが駆けこんできた。


「お前、何だってこんなところにいるんだ!」
 ロレンツォの非難を聞き流して、ヘンリーはウィリアムに、さっさと行けと目配せする。
「待て、案内させる。じきに警察とコマンド対策部隊が突入してくるぞ」

 ロレンツォは背後で控えていた部下に指示をだして誘導させると、「お前もだ」、とヘンリーの腕を掴んでぐいぐいと引っ張り部屋をでた。掴まれた腕を振り払い、ヘンリーは皮肉な笑みを浮かべる。

「シナリオと違う結果を誤魔化すために、今から客席を襲撃するのかい?」
「冗談でもそんなことを言うな」
「ヨシノを襲われた」
「分かっている。先手を打つんだ。ルベリーニは裏切りを絶対に許さない」
 ロレンツォの緊迫した表情に、ヘンリーは冷ややかな笑みを向けて応えていた。
「段取りは? 僕の身内を傷つけたんだ。それなりの報復はさせてもらうよ」



 同日午後一時、パリで開催中のパリ国際通信機器見本市で起きた銃撃および爆発物によるテロ事件は、死者十二名、爆発物による負傷者五十数名。テロ実行犯三名は自爆により死亡、残る九名は全員射殺された模様。

 事件発生後一時間も経たないうちに、警察ではなく事件の会場となった通信機器見本市主催者、フランス見本市協会からそんなニュースが公式発表された。

 協会側は、匿名で会場爆破、及び、ルノー上院議員暗殺予告の電話を受け、警察に警備の強化を依頼。それと同時にルノー議員の安全確保のため、同日午後一時に予定されていた同氏の舞台挨拶の3D立体映像をアーカシャーHDに依頼。また、広範囲に及ぶ見本市会場の警備強化のため、多数の警官、警備員の3D立体映像を随所に配置してテロリストを威嚇、事前に不審人物を特定することに成功し、被害を最小限に抑えることができた。

 襲撃された見本市会場での立体映像制作を請け負ったアーカシャ―HD、CEOヘンリー・ソールスベリーはこう語った。

『暗殺予告で襲撃時間を絞れたことが、被害を抑えることができた要因だと思っています。
 ルノー上院議員の開会挨拶映像に加え、テロリストを威嚇するために、ステージ上からマシンガンを乱射する特殊部隊の映像を作って欲しいとの依頼を受けました。悩みましたよ。テロリストとは断固闘わなければならない。けれどその場には三千人もの観客がいるのです。
 僕たちアーカシャ―HDは、たとえ映像であっても、銃口を一般市民に向けることを良しとすることはできませんでした。実際に身体が傷つけられることがなくても、銃口に晒される恐怖が、その人の心を傷つけてしまう、そう考えたからです。
 そこで原点に立ち戻って考えてみたのです。これは、なんのためのテロなのかと。これは本当に彼らの言う通り聖戦ジハートなのかと。テロ行為による殺戮が、黙示録で語られる終末の日に堂々と神の前に立てる行為であるのか、彼ら自身に問い直して欲しかったのです』
『あれは、黙示録を題材にした、テロリストに向けてのAR映像だったのですか?』
『もちろんそうです。黙示録は、イスラム教、キリスト教ともに通じるテーマですから。ですがあの会場にいたすべての人々を励ますためのものでもありました。正しい者を神は常に見ておられる、恐怖に負けるな、と――』



「よく言うよ!」
 病室のベッドで、備えつけの小さなテレビ画面を眺めながら、吉野はクスクスと笑った。

「ヨシノ……」
「ほら、もう泣くなよ。ホントに大したことないって。アリーが庇ってくれたからな。あいつの方がよっぽどの重症なんだぞ」

 今は傍らの椅子に腰かけているアレンの髪を、吉野はクシャクシャと撫でてやる。彼は病室に駆けこんできて、ベッドヘッドにもたれていた吉野の顔を見るなり、ぼろぼろと泣きだして止まらなくなっているのだ。

「今回のテロな、こんな最小限の被害で済んだのは、お前のおかげなんだ」

 グズグズと鼻を啜りあげ、涙の溜まった目で訝しげに見つめるアレンに、吉野は嬉しそうに目を細めて言った。

「飛鳥に話したんだろう? 銃が怖いって」
 こくんと頷いたアレンの頭を、吉野はもう一度クシャッと撫でる。
「ありがとな。それで助かったんだ。危うく騙されるところだった。――このテロな、テロじゃないんだよ、本当は。ルノーの自作自演のテロ工作だよ。イスラム過激派の起こした凄惨なテロ事件、てことで国民感情を煽ってさ、次の選挙で極右政党躍進の足掛かりにするつもりだったんだよ。言われた通りのマシンガンを乱射する映像なんか作っていたら、あいつら、それに紛れて観客を殺戮するつもりだったんだ。犠牲者が多い方が対イスラム感情を煽れるからな」
「嘘だ……」
「本当だよ。事前にテロ情報拾ってきたの、俺だもの。テロリストの実行犯は騙されてのせられた馬鹿な若者たちだ。一般人じゃなくて、イスラム排斥主義派のルノーを殺すことしか頭になかった。そいつらを騙して煽って行動させ、捨て駒に使ったんだ。自分は安全なところにいてな。だからいらないことを喋らないように、捕まる前に全員射殺だろ? 初めは偽装テロだなんて思わなかったよ。でも途中で、あれ、おかしいぞって。もっとも確信できたのは、全てが終わってからだったけどな――。俺もさ、おめでたい馬鹿だよ」

 吉野は自嘲的に唇を歪め、肩をすくめた。この予想外の内幕に、愕然として吉野を見つめるアレンの涙もいつの間にか止まっている。

「飛鳥も、気がついていたのかなぁ……。だってあの映像、イスラム教徒に、ていうよりも、完全にキリスト教徒の潜在意識に揺さぶりをかけるための映像じゃん。ヘンリーも上手いこと言うよな、神に顔向けできるのか、なんて。自分は神なんかこれぽっちも信じちゃいないくせに!」

「――どんな映像だったの?」
「ヨハネの黙示録。七つの封印が解かれ、七人の天使がラッパを吹くくだりと、最後の、神と子羊の玉座からいのちの水の川が流れる、のところ」
「僕も見たい」
「やめといた方がいいぞ」

 首を傾げるアレンに吉野はテレビを指さした。
 そこでは、テロリストに襲撃された恐怖などそっちのけで、興奮して、嬉々として自分の信仰と神の顕在を語る講演会参加者の姿があった。

「なんでこうなっちまうんだろうな?」

 吉野の呟きに対してアレンは弱々しい笑みを見せただけだった。何が起こったのかを明確に捉えることはできないものの、アレンにも、テレビに映し出されている彼らの反応はとても奇異なものに映ったのだ。

 吉野はそんな鬱屈した空気から気持ちを引き立たせようと、話題を変えた。

「で、お前、ずっとなに握ってんの?」
「きみの手紙の返事だよ」
 アレンはやっと思いだしたように握っていた紙を開いて、吉野に渡した。

 『美味しかった。また作って』

「OK」

 『だし巻き、旨かっただろ?』
 手紙は、アリーをあの場から遠ざけるための、ただの口実だったのに――。

 結局、アリーはこの手紙を誰かに託し、吉野のもとに戻ってきたのだ。おかげで助かった。映写調整室に銃弾が撃ちこまれたとき、直前でアリーが吉野を引き倒し覆い被さってくれたから、割れて飛び散る窓ガラスから身を守ることができた。

 吉野は、イスラム過激派を装ったテロリスト捜査でアラブ人のアリーが尋問され、サウードにつながる身分であることが表に知られるのはどうしても避けたかったのだ。ルノー上院議員は、米国の石油系財閥と通じている。そしてその財閥は、サウードと敵対するアブド・H・アル=マルズークを支援しているのだから――。

 ヘンリーもとっくにお見通しか――。
 本当に食えない奴だよ、お前らの祖父さんは――。


 吉野は顔を傾げて自分を見つめるアレンに、唇の右端をあげ、無邪気ににっと笑いかけた。

「なんかさ、だし巻きを思いだしたら、腹減ったよ。ここ、ぬけだしてさ、メシ食いに行こうか?」
「駄目、駄目、駄目! 絶対に駄目!」

 アレンは慌てて唇を尖らせ、ぶんぶんと首を横に振った。




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