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第6章 アストルフォ月へ行く
16 忘却の川レテ
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糸仕事をしている女性たちは、ギリシャ神話において「モイライ」と呼ばれる、運命の三女神である。
紡ぐ者クロ―トー、長さを割り当てる者ラケシス、そして断ち切る者アトロポスの三姉妹。彼女たちの扱う糸の長さは「寿命」を表しており、人間がいつ生まれ、どれだけ生き、そして死を迎えるのかが決定されるという。
温和で非力に見える彼女たちだが、実はティターン族との戦争では青銅の棍棒を用い、二人の巨人を撲殺するという戦果を上げた事もある武闘派であった。
「ほっほ。ここで紡がれる糸は人の命。これから後の世に生まれる予定の者たちの糸もあるぞい」
と聖ヨハネは言う。すると妙にキリッとした顔のアストルフォが、後世にて生を受けるらしい糸の束の中から、一際光り輝く一本の糸を手に取った。
「見たまえロジェロ君! この素晴らしい糸を!
宝石をすり潰して糸にしたとしても、こんな綺麗な色にはきっとならないよ!」
「綺麗……か? オレからすれば、派手に輝きすぎに見えるけどな……」
黄金色にギラギラと輝き、やたら自己主張の激しい糸。
ロジェロ――黒崎八式はかつて、アストルフォが銀梅花の木だった時の事を思い出した。あの時のアストルフォも無駄に花が咲き乱れていた。自己主張の激しい者同士、気が合うのかもしれない。
「聖ヨハネ殿。この糸によって生まれるのは、さぞや大人物なのだろう?
一体いつ頃この世に生まれ、どのような素晴らしきお方なのか、是非ともお教え願いたいね!」
黒崎も、ブラダマンテ――司藤アイも感じた。
アストルフォの台詞に、得も言われぬわざとらしさを。
まるで彼の意思ではなく、物語の外から大いなる存在によって無理矢理喋らされているかのような不自然さであった。
「流石はアストルフォ殿、お目が高い。
その糸の持ち主は空前絶後、唯一無二の高貴なる魂でな。これほど優れた魂は、未だかつて生まれた事もなく、今後も生まれる事はないという。
かの者の名は――イッポリト・デステというのじゃ」
聖ヨハネは情感たっぷりに口上を述べたが――黒崎はツッコミを入れたくてウズウズしている。
アストルフォもメリッサも、何故か阿呆みたいに感嘆するばかりで、話の不自然さに気づいている様子はない。
「――なあ、聖ヨハネの爺さん」
「何じゃねロジェロ君」
黒崎は思わず身体が動き、聖者の老人の首根っこを掴み、耳元で囁いた。
「誰だよイッポリトって! なんで唐突に知らない奴の名前が出てくるんだよ!」
「こらこら、失礼な事を抜かすでないぞ! イッポリト殿がおらねば、この世界が誕生したかどうかだって疑わしいのじゃぞ!?」
「そんな凄い人物ならオレだって聞いた事ある筈だし。そもそも爺さん、今の台詞カンペ使って読んでただろ!?
ホラ、今隠した! パピルス懐に隠した!
そいつを見ずに今の台詞もういっぺん言ってみろよ!」
半ばヤケクソ気味でまくし立てた黒崎であったが、どうやら聖ヨハネにとっては痛い所を突かれたようだ。
顔を引きつらせ、とんでもなくバツが悪そうに押し黙ってしまう。
そんな二人のやり取りを見ながら、アイは再び下田に念話を送っていた。
ииииииииии
「下田教授。イッポリト……何とかって誰? 聞いた事ないんだけど……」
『ああ、そいつは――"狂えるオルランド"の作者アリオストのスポンサーをやっていた枢機卿だな』
イッポリト・デステ(ダ・エステ)。その家名の示す通り、イタリアの名門貴族エステ家の人物。かのイタリアの梟雄チェーザレ・ボルジアの妹、ルクレツィアの三人目の夫となったフェラーラ公アルフォンソ1世の弟である。
「なんか物凄く褒め称えられてるけど……そんなに凄い人物だった訳?」
『……きみも黒崎君も知らない時点で、察しがつくと思わないかね』
スポンサーの悪口を書く訳にもいかなかったのだろう。"狂えるオルランド"中において度々、おべんちゃらとも取れるイッポリトへの賛辞の言葉が散見される。
しかし実際の所はどうだったのか? イッポリト枢機卿は随分と人使いの荒い、気紛れな御仁だったようで――アリオストの遺した別の詩文には、宮仕えに対する苦労や理不尽さを嘆く、愚痴のような文章がこれでもかと並んでいたりする。いつの世も公職の世知辛さは変わらないらしい。
「じゃあ、さっきのやたら賞賛してた台詞って――」
『リップサービスって奴だろう。まあ、実際金を出して貰って出版させてもらっていたからな。
彼がいなければ"この世界が誕生したかどうかだって疑わしい"という言い分はあながち間違ってもいない』
物語誕生の裏に隠された生臭い逸話を聞き、司藤アイはいつにも増してげんなりしたのだった。
ииииииииии
運命の三女神のいる地を離れ、聖ヨハネに連れられたブラダマンテ達四人は、川のほとりに辿り着いた。
凄まじい速さで動く機敏な老人がいて、マントに沢山の名札を抱えては、せわしなく動き回り川の中へと放り投げている。
「あの老人と、名札――それにこの川は一体……?」尼僧メリッサが尋ねた。
「あの老人の名は『時間』。札はこれまでに死した者たちの名を記したもの。
そしてこの川の名はレテ。人は『忘却の川』と呼ぶようじゃのう」
忘却の川に流された名札を求めて、無数の小鳥、鷹、烏、禿鷲などがやかましく騒ぎながら川底を彷徨い、名札をすくい上げようとしては失敗している。
「やかましい鳥たちはヘボ詩人どもじゃ。
彼らは自分の庇護者たるお偉方の名を不滅のものとせんと、懸命になって詩歌を捧げたが、叶わず忘却される運命だったのじゃ」
アストルフォは川に捨てられる名札を見て、不穏を感じたのか口を開いた。
「聖ヨハネ殿。気のせいでしょうか――名札に書かれた名が段々と薄れ、見づらくなっているように思うのですが」
「気のせいではない。このレテ川は忘却の川であると同時に、死の川でもある。
死して名を忘れらし者は、存在すらも消え果てて――誰も覚えておる者はおらんようになる。
あまり近づきすぎるでないぞ、アストルフォ殿。うっかり水に触れれば、お主の存在も忘却と死に近づく」
思った以上に物騒な川である。黒崎は訝しんで言った。
「おい爺さん。そんな危ない場所に何でオレたちを連れて来たんだ?」
「それを今から説明する所だったんじゃよ。この川の水を、手で触れぬようにして汲むのじゃ。
お主らが救いたいと思っておるエチオピア王セナプスの、見えなくなった目を元に戻すのに必要なのじゃからな――」
聖ヨハネが言葉を切ったのは、異変にいち早く気づいたからだ。
ブラダマンテ――司藤アイが、ぼんやりとした様子で忘却の川の底を覗き込んでいる。
「ブラダマンテ。その川は近づくとヤバいらしい。離れ――」
黒崎が警告し、アイを川面から離そうとした時だった。
川底で名札を漁っていた騒がしい鳥たちが一斉に飛び出してきて、二人に水飛沫がかかってしまった。
「うッ…………!?」
川の水を浴びたアイは、ふらふらと目眩を起こし、その場に倒れてしまった。
「ブラダマンテッ!?」
「しまった……大丈夫か、しっかりするんだ!」
メリッサとアストルフォが駆け寄り、倒れたブラダマンテを介抱するものの――彼女は一向に目覚めない。
「嘘――だろ――? 司藤! おい司藤ッ! 目ェ覚ませよッ!?」
人目も憚らず、黒崎は彼女の本来の名を呼んで身体に触れた。
もはや気のせいではない。今まで見えていた幼馴染の顔は――金髪碧眼の女騎士ブラダマンテのものに完全に変化していたのだ。
(なッ……オレは何ともないのに、なんで司藤だけ気絶しちまったんだ!?)
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温和で非力に見える彼女たちだが、実はティターン族との戦争では青銅の棍棒を用い、二人の巨人を撲殺するという戦果を上げた事もある武闘派であった。
「ほっほ。ここで紡がれる糸は人の命。これから後の世に生まれる予定の者たちの糸もあるぞい」
と聖ヨハネは言う。すると妙にキリッとした顔のアストルフォが、後世にて生を受けるらしい糸の束の中から、一際光り輝く一本の糸を手に取った。
「見たまえロジェロ君! この素晴らしい糸を!
宝石をすり潰して糸にしたとしても、こんな綺麗な色にはきっとならないよ!」
「綺麗……か? オレからすれば、派手に輝きすぎに見えるけどな……」
黄金色にギラギラと輝き、やたら自己主張の激しい糸。
ロジェロ――黒崎八式はかつて、アストルフォが銀梅花の木だった時の事を思い出した。あの時のアストルフォも無駄に花が咲き乱れていた。自己主張の激しい者同士、気が合うのかもしれない。
「聖ヨハネ殿。この糸によって生まれるのは、さぞや大人物なのだろう?
一体いつ頃この世に生まれ、どのような素晴らしきお方なのか、是非ともお教え願いたいね!」
黒崎も、ブラダマンテ――司藤アイも感じた。
アストルフォの台詞に、得も言われぬわざとらしさを。
まるで彼の意思ではなく、物語の外から大いなる存在によって無理矢理喋らされているかのような不自然さであった。
「流石はアストルフォ殿、お目が高い。
その糸の持ち主は空前絶後、唯一無二の高貴なる魂でな。これほど優れた魂は、未だかつて生まれた事もなく、今後も生まれる事はないという。
かの者の名は――イッポリト・デステというのじゃ」
聖ヨハネは情感たっぷりに口上を述べたが――黒崎はツッコミを入れたくてウズウズしている。
アストルフォもメリッサも、何故か阿呆みたいに感嘆するばかりで、話の不自然さに気づいている様子はない。
「――なあ、聖ヨハネの爺さん」
「何じゃねロジェロ君」
黒崎は思わず身体が動き、聖者の老人の首根っこを掴み、耳元で囁いた。
「誰だよイッポリトって! なんで唐突に知らない奴の名前が出てくるんだよ!」
「こらこら、失礼な事を抜かすでないぞ! イッポリト殿がおらねば、この世界が誕生したかどうかだって疑わしいのじゃぞ!?」
「そんな凄い人物ならオレだって聞いた事ある筈だし。そもそも爺さん、今の台詞カンペ使って読んでただろ!?
ホラ、今隠した! パピルス懐に隠した!
そいつを見ずに今の台詞もういっぺん言ってみろよ!」
半ばヤケクソ気味でまくし立てた黒崎であったが、どうやら聖ヨハネにとっては痛い所を突かれたようだ。
顔を引きつらせ、とんでもなくバツが悪そうに押し黙ってしまう。
そんな二人のやり取りを見ながら、アイは再び下田に念話を送っていた。
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「下田教授。イッポリト……何とかって誰? 聞いた事ないんだけど……」
『ああ、そいつは――"狂えるオルランド"の作者アリオストのスポンサーをやっていた枢機卿だな』
イッポリト・デステ(ダ・エステ)。その家名の示す通り、イタリアの名門貴族エステ家の人物。かのイタリアの梟雄チェーザレ・ボルジアの妹、ルクレツィアの三人目の夫となったフェラーラ公アルフォンソ1世の弟である。
「なんか物凄く褒め称えられてるけど……そんなに凄い人物だった訳?」
『……きみも黒崎君も知らない時点で、察しがつくと思わないかね』
スポンサーの悪口を書く訳にもいかなかったのだろう。"狂えるオルランド"中において度々、おべんちゃらとも取れるイッポリトへの賛辞の言葉が散見される。
しかし実際の所はどうだったのか? イッポリト枢機卿は随分と人使いの荒い、気紛れな御仁だったようで――アリオストの遺した別の詩文には、宮仕えに対する苦労や理不尽さを嘆く、愚痴のような文章がこれでもかと並んでいたりする。いつの世も公職の世知辛さは変わらないらしい。
「じゃあ、さっきのやたら賞賛してた台詞って――」
『リップサービスって奴だろう。まあ、実際金を出して貰って出版させてもらっていたからな。
彼がいなければ"この世界が誕生したかどうかだって疑わしい"という言い分はあながち間違ってもいない』
物語誕生の裏に隠された生臭い逸話を聞き、司藤アイはいつにも増してげんなりしたのだった。
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運命の三女神のいる地を離れ、聖ヨハネに連れられたブラダマンテ達四人は、川のほとりに辿り着いた。
凄まじい速さで動く機敏な老人がいて、マントに沢山の名札を抱えては、せわしなく動き回り川の中へと放り投げている。
「あの老人と、名札――それにこの川は一体……?」尼僧メリッサが尋ねた。
「あの老人の名は『時間』。札はこれまでに死した者たちの名を記したもの。
そしてこの川の名はレテ。人は『忘却の川』と呼ぶようじゃのう」
忘却の川に流された名札を求めて、無数の小鳥、鷹、烏、禿鷲などがやかましく騒ぎながら川底を彷徨い、名札をすくい上げようとしては失敗している。
「やかましい鳥たちはヘボ詩人どもじゃ。
彼らは自分の庇護者たるお偉方の名を不滅のものとせんと、懸命になって詩歌を捧げたが、叶わず忘却される運命だったのじゃ」
アストルフォは川に捨てられる名札を見て、不穏を感じたのか口を開いた。
「聖ヨハネ殿。気のせいでしょうか――名札に書かれた名が段々と薄れ、見づらくなっているように思うのですが」
「気のせいではない。このレテ川は忘却の川であると同時に、死の川でもある。
死して名を忘れらし者は、存在すらも消え果てて――誰も覚えておる者はおらんようになる。
あまり近づきすぎるでないぞ、アストルフォ殿。うっかり水に触れれば、お主の存在も忘却と死に近づく」
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「おい爺さん。そんな危ない場所に何でオレたちを連れて来たんだ?」
「それを今から説明する所だったんじゃよ。この川の水を、手で触れぬようにして汲むのじゃ。
お主らが救いたいと思っておるエチオピア王セナプスの、見えなくなった目を元に戻すのに必要なのじゃからな――」
聖ヨハネが言葉を切ったのは、異変にいち早く気づいたからだ。
ブラダマンテ――司藤アイが、ぼんやりとした様子で忘却の川の底を覗き込んでいる。
「ブラダマンテ。その川は近づくとヤバいらしい。離れ――」
黒崎が警告し、アイを川面から離そうとした時だった。
川底で名札を漁っていた騒がしい鳥たちが一斉に飛び出してきて、二人に水飛沫がかかってしまった。
「うッ…………!?」
川の水を浴びたアイは、ふらふらと目眩を起こし、その場に倒れてしまった。
「ブラダマンテッ!?」
「しまった……大丈夫か、しっかりするんだ!」
メリッサとアストルフォが駆け寄り、倒れたブラダマンテを介抱するものの――彼女は一向に目覚めない。
「嘘――だろ――? 司藤! おい司藤ッ! 目ェ覚ませよッ!?」
人目も憚らず、黒崎は彼女の本来の名を呼んで身体に触れた。
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