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第二章 現代編

最終公演2

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開演5分前の鐘が鳴り響く。

舞台へと続く扉の前にはステージの様子を映し出すモニターと、リサイタルの進行表が貼ってある。ソリストはもちろんレオだ。

お客さん達の熱気が少しだけ漏れ聞こえてくる。

慌ただしい劇場スタッフとは反対に、レオは静かだった。うーんと背中を伸ばし始めた。出番を待つ奏者らしい緊張感もいらだちも一切感じさせない。どういう神経をしているのだろう。

ステージに向かう最後の扉の前で、彼は振り返った。

「もしかして緊張してる?」
「少しね」
「レイでもあがるんだね、意外だな」
「コンクールに失敗する悪夢を見るくらいにはね」
ははっとレオは軽く笑い飛ばした。

「ステージはこわいよ。地獄の谷底を裸で綱渡りするくらいにはね。でもブラボーって初めて歓声を浴びた日から、僕はステージに取り憑かれてるんだ」

レオはテーブル脇に置かれたヴァイオリンのネックを掴み、左脇に構えた。一瞬で稀代のヴァイオリニストへと変身する。

「お客さんの顔が見えたら、笑顔でひとつ深呼吸して、あとはなすがままだよ」


レオはおもむろに跪き十字を切り、神に祈った。

「先に行ってるね」

足音がホールに響くと同時に、歓声と拍手が耳を貫いた。胸に広がる鼓動は速まり、指先は微かな震えを抱えている。


ステージ裏で聴く、二度目のパガニーニ。

ソリストはいつもひとり。
それはひとりで弾くからじゃない、すべての音楽をひとりで表現するから。

寂しくないの?
寂しくないよ、すべての聴衆とひとつになれるからね。

奏者の訪れを待つ黒光りするフルコンサートピアノ。琴葉が譜面をめくってくれる。観客席には聖子さんもいるはずだ。

伶は観客に向かって深く頭を下げる。

さっき聞いたとおりに、深呼吸する。
レオのファンが温かくステージへと迎え入れてくれた。ここはオーディションでもコンクールでもない。批判も誰かとの比較も関係ない。でも自分の中で良いと思うものだけは届けたい。

目の前にはレオの姿。これ以上、幸せなことってあるだろうか。母もきっとどこかの席で聴いてくれているはず。

ピアノの前に座るなり、レオは横目で聞いてくる。
「ビビってない?」
「冗談でしょ」
レオは口元だけで微笑した。
「そう、楽しまなきゃ」


ロンカプの後は、3日間練習を重ねた、ツィガーヌが待っている。奇想天外な楽譜と喧嘩別れしそうなところをなんとか踏みとどまった。

どの曲もそう。音のすべてを忠実にあるべき姿で弾こう。素直に譜面に従おうと決めてからは、迷わず練習できるようになってきた。


二度目の序奏とロンドカプリチオーソは本当に踊っているみたいだった。レオとふたりで何もない空間に映像が浮かび、場面はお祭り会場へと移った。

あぁ終わって欲しくない。

まだずっと弾いていたいと願ってしまう。この心が燃えるような快感を永遠に味わっていたい。曲が終わる頃には息は上がり、額に汗が滲んでいた。10分間、グラウンドを全力疾走した後みたいだ。

でもなんだか心地いい。背負っていた重い心の荷物が汗と共に滴り落ち、すっと晴れていく。

いつぶりだろう、こんなにわくわくするのは。
心は現実を超えて、今ある音に身を委ねた。
ーーまだ、ずっと弾いていたい!


ツィガーヌが熱狂的なラストで走り抜けた一瞬、「え、終わり?」と呆けたように観客席も怯んだ。伶もきょとんと譜面に目を落とす。確かにすべての音符を弾き終えた。琴葉も紅潮した顔を向けている。

レオは目尻を下げて、潤んだ瞳を伶に向けた。
「もう、終わりなの?」
「ありがとう、レイ」

我に返った観客達の喝采を前に、ふたりは目を合わせて熱い息を揃って吐いた。







するりとなんの躊躇もなく、レオは高いところから低いところへ流れるように奏ではじめた。

同じ楽器、同じ人間が奏でているとは思えない。

さっきまでの熱気が嘘のように、会場の空気が一瞬で下がった。顔に刃物をあてられているかのような冷たさだった。

今自分がどこにいるか、迷子になった気分だった。このままどこへも辿りつけなかったら、自分が人間であったことすら忘れてしまいそうだった。


シャコンヌ
無伴奏ヴァイオリンソナタ イ短調第2番 BWV1003

ヴァイオリンの聖典ともいわれるこの傑作を、すべてを演奏するのには3時間を要する。6曲あるうちの終曲が、シャコンヌだ。

楽譜には音符がただ五線譜にぶら下がっているだけなのに。レオが弾くとバッハが音符を記したそばから、インクが乾く前にヴァイオリンの音色に変化させていくみたいだった。

彼が弾くと、どの音符も生まれたてみたいにみずみずしい。

大人になるって、傷つくことなの?
我慢することなの?
愛想笑いと、偽り、媚びればいいの?

シャコンヌを弾くレオの魂は純粋なままだ。彼自身が自ら磨き、涙に暮れ、それでも立ち上がってきた。

やっぱり彼はすごい。
彼の隣で弾けたことは、二度とない幸運なのだと改めて気づかされる。

そう、分かってたはずなのに。
終わりが見えているのは辛い。

レオは手を上げて歓声に応えている。何度も晴れやかな笑顔で頭を下げていた。


鳴り止まない拍手と悲鳴のような熱狂が続くあいだ、伶は耐え抜こうときつく目を閉じた。

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