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第二章 現代編

最終公演4

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着替え終わった頃、スマホの着信音が鳴った。メッセージアプリに表示されたのは聖子の名前だった。

「聖子さん!」
「あぁ、お疲れさま」

人波が去ったロビーの隅に聖子と美蘭親子はいた。お揃いのワンピースで着飾った親子はよく目立つからすぐ見つかった。

美蘭から手渡されたのは、黄色のバラと青い小花の可愛らしいフラワーアレンジメントだった。礼を言うと美蘭は少しもためらわずに聞いた。

「れいせんせー、ピアノの先生やめちゃうの?」
「え、どうしてそう思うの?」
「だってせんせー、これからあのヴァイオリンのお兄さんの伴奏するんでしょっ」
「……いや、まだ決まったわけじゃないよ」
信じて疑いようもないといった無垢な瞳に射貫かれ、どうしてだろう、違うよと否定できなかった。

「みら、先生がいなくなっちゃっても、ピアノ続けるからね!」
「……ありがとう、美蘭ちゃん。お花もありがとうね」
「美蘭、行くわよー」

彼女達は差し入れを渡した後、何枚か伶との記念撮影を撮った。ばいばーい! と威勢のいい返事を残して、美蘭とお母さんは手を振って帰って行った。

「あのふたりが私の席まで来て声をかけてきたから、ビックリしたわ。あなたがリサイタルに出るなんて一言もいってないはずなのに」
去っていくふたりの背中を見送りながら、聖子はあなたのストーカーかしらね、と他人事のようにからからと笑った。 

「それにしても久々に落ち着かなかったわ、あなたが本番でちゃんとやれるのかって。親でもないのにね。だってあなたの舞台での演奏なんて初めて聴くんだもの。2年も一緒にいたのに」
「確かに、そうでした」

音楽教室の発表会での講師演奏も、ポップスや映画音楽を弾くくらいで、クラシックは演奏したことがない。

「でも心配なんていらなかった。久しぶりに胸が躍ったわ。若いんだからもったいぶらずに、あんな風にいつも死に物狂いでやりなさいよ。その方があなたらしいし、ずっと魅力的よ」

聖子と話は、なんとなくポール先生を彷彿とさせる。すっぽりと身を任せられるような包容力があって人間味があった。

「あの、聖子さん」
「何?」
「......さっきレオに、伴奏者としてパリに来ないかと誘われたんです」

驚いて、聖子はハタと立ち止まった。
「嘘、ほんとに? で、何て返事したの?」
「もちろん断りました。そんなこと......できるわけないって」
「できるわけないって、それがあなたの答えなわけ?」

本番で見た、彼の神々しい姿が今もくっきりと目に浮かぶ。演奏後に取り乱した、少年みたいなレオの姿も。

「僕はただの代理です。今の自分じゃ、何もかもレオには遠く及ばない、それが一緒に弾いていてよく分かりました」 
「まあ、伶先生はピアノ講師であって、プロの伴奏者ってわけじゃないものね、確かにそれはそうだけど……」

聖子はふっと含み笑いをした。
「でも、迷いがあるから私に話したんでしょう? あなたが私に打ち明けるなんてよっぽどのことよ」
「いえ、そんなつもりじゃ……!」

ホールに続く大きな扉から女性達が大勢出てきた。リサイタル後に予定されていた、ファンとの撮影会が終わったようだ。途端にロビーは賑やかなった。邪魔にならないように、ロビーの隅のベンチに腰をかける。

「で、正直いってどうだったのよ、ステージに立った気分は?」
「まだ自分は浮かれてるみたいなんです。ステージで弾いた時も、あれだけの大歓声を浴びたことも、焼き付いたみたいに離れません」

映画を見終えて、外に出た時に似てる。自分がまだ映画の世界に君臨しているかのような、ふわふわと浮き立つ高揚感。

「魔法にかけられたみたいね。その魔力は強烈よ、みんなその興奮が忘れられなくて、次のステージを目指すの」

確かに子どもの頃は、そうだったかもしれない。最初は母に褒められ、次に発表会、そしてコンクールへと。そのどれもは賞賛にあふれていて、自分が認められた気がして誇らしかった。

ただ自分に聴かせるため、生徒のためにピアノを弾き続けるうちに、いつの間にか忘れ去られていた感覚った。

「でもね。ステージに立ち続け、それを喜びと報酬に変えられるのは、神に選ばれし才能を花束にしたようなほんのひと握りの人間だけ」

レオのように、と聖子は暗に示しているようだった。彼はそう、存在するだけでパッと華やぐような神様の残り香がするブーケだった。

自販機で買ってきた緑茶を、聖子は一口飲んでから答えた。
「ま、それは主役の話だけどね。主役だけがステージに上がるわけじゃないわよ。あなたが今日弾いたみたいに、大勢の人がひとつのために協力しあって舞台は成り立ってる。それを忘れないで」

自分がステージに立つ資格があるとは、とても思えなかった。でも、もう一度弾きたいというそんな強い欲望だけは、消すことができなくなっていた。その思いはどんどんと今も膨らんでいる。

「聖子さん、ありがとうございます」
伶はその場で深く頭を下げた。
「なによ、急に改まって」
「なんの取り柄もない僕に、人に教えるなんて経験をさせてくれた。本当に感謝してます」

 「いやだわ、あなたにはまだまだ頑張ってもらわなきゃいけないんだから」
伶の肩をはたきながら、親しみやすい声をあげて笑った。

2年過ごした音楽教室。愛着がないといえば嘘になる。悪戦苦闘したピアノ講師の仕事もやっと板についてきた。

少しは認められ、まだここにいて良いんだと安心できる居場所ができた。でも。

「僕は......やっぱりアドミの社員にはなれません。せっかく誘ってもらったのに、すみません」
「なあに、まったくもう。他にやりたいことができたわけ?」

伶は曖昧にうなずきかけて、でもはっきりと言った。
「はい、ひとつだけ――」
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