『未来郵便局』

月影 朔

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第四章:四本足の家族より

第三十二話:時雨と犬

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 正一と千代の家を後にした時雨は、午後の日差しを浴びながら、静かに街を歩いていた。

 彼が届けた手紙は、いつも誰かの人生にささやかな、しかし確かな変化をもたらす。

 今日の夫婦もまた、コタロウからの手紙によって、深い悲しみから立ち直り、新しい家族を迎えることができた。

 陽という名の保護犬が、あの窓辺の陽だまりで穏やかに眠る姿は、時雨の心にも、温かい光を灯した。

 配達人として、彼は受取人の人生に干渉しない「観測者」であると自らを律している。

 だが、手紙がもたらす変化を間近で見るたび、彼の内面に、微かな、しかし確かな影響を与えていることを、時雨自身も感じ始めていた。

 正一と千代の家からほど近い公園の脇道に差し掛かった時、時雨はふと足を止めた。

 彼の視線の先には、一匹の野良犬がいた。痩せた体で、毛並みは汚れ、耳は垂れ、尻尾は股の間に挟まっている。

 周囲を警戒するように、きょろきょろとあたりを見回しながら、ゴミ箱の周りを嗅ぎ回っていた。

 時雨は、いつも動物に好かれない。

 彼が近づくと、なぜか犬や猫は一様に彼から距離を取る。

 それは彼が未来郵便局の配達人として、ある種の「境界」に属する存在だからなのかもしれない、と漠然と考えていた。

 だから、彼自身も、積極的に動物に近づくことはなかった。

 しかし、その日の時雨は、なぜかその野良犬から目を離すことができなかった。

 その犬の目に宿る、諦めと、ほんのわずかな怯え。

 それは、幼い頃の時雨自身の瞳と、どこか重なるように思えた。

 時雨は、静かに、ゆっくりと、野良犬に近づいてみた。

 警戒する野良犬は、低い唸り声を上げ、すぐにでも逃げ出せるように身構える。

 時雨は、それ以上近づくことはせず、ただその場に立ち止まった。

「……」

 言葉を発することなく、時雨はただ、その犬を見つめ続けた。

 彼の深い色の瞳に、犬の姿が映る。時間だけが、静かに流れていく。

 やがて、不思議なことが起こった。

 あれほど警戒していた野良犬が、少しずつ、その身構えを解き始めたのだ。
唸り声は止まり、尻尾の震えも収まる。

 そして、ついに、犬は時雨から目を離すことなく、ゆっくりと、本当にゆっくりと、時雨の方へ足を進めた。

 時雨は、微動だにしなかった。
ただ、じっと、その犬を受け止めるように、まっすぐに見つめていた。

 一歩、また一歩。

 野良犬は、時雨のすぐ隣まで来ると、その場に座り込んだ。
彼の隣に、そっと寄り添うように。

 そして、彼の顔を、信頼しきったような、しかしどこか哀しげな瞳で見上げてきた。

 時雨は、驚きを隠せないでいた。

 生まれてこの方、これほど動物が自分に近づいてきたことなど、一度もなかったからだ。

 温かい、小さな重みが、彼の隣にある。

 それは、彼の心に、今まで感じたことのない、微かな、しかし確かな変化の兆しをもたらしていた。

 彼の内にあった、人との距離、感情の壁が、この小さな存在によって、ほんの少し、揺らいだような気がした。

 野良犬は、時雨の隣で、穏やかに息をしている。

 時雨は、まるでその温かさが溶けてしまわないように、静かに、しかししっかりと、その場に立ち尽くしていた。
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