32 / 66
第四章:四本足の家族より
第三十二話:時雨と犬
しおりを挟む
正一と千代の家を後にした時雨は、午後の日差しを浴びながら、静かに街を歩いていた。
彼が届けた手紙は、いつも誰かの人生にささやかな、しかし確かな変化をもたらす。
今日の夫婦もまた、コタロウからの手紙によって、深い悲しみから立ち直り、新しい家族を迎えることができた。
陽という名の保護犬が、あの窓辺の陽だまりで穏やかに眠る姿は、時雨の心にも、温かい光を灯した。
配達人として、彼は受取人の人生に干渉しない「観測者」であると自らを律している。
だが、手紙がもたらす変化を間近で見るたび、彼の内面に、微かな、しかし確かな影響を与えていることを、時雨自身も感じ始めていた。
正一と千代の家からほど近い公園の脇道に差し掛かった時、時雨はふと足を止めた。
彼の視線の先には、一匹の野良犬がいた。痩せた体で、毛並みは汚れ、耳は垂れ、尻尾は股の間に挟まっている。
周囲を警戒するように、きょろきょろとあたりを見回しながら、ゴミ箱の周りを嗅ぎ回っていた。
時雨は、いつも動物に好かれない。
彼が近づくと、なぜか犬や猫は一様に彼から距離を取る。
それは彼が未来郵便局の配達人として、ある種の「境界」に属する存在だからなのかもしれない、と漠然と考えていた。
だから、彼自身も、積極的に動物に近づくことはなかった。
しかし、その日の時雨は、なぜかその野良犬から目を離すことができなかった。
その犬の目に宿る、諦めと、ほんのわずかな怯え。
それは、幼い頃の時雨自身の瞳と、どこか重なるように思えた。
時雨は、静かに、ゆっくりと、野良犬に近づいてみた。
警戒する野良犬は、低い唸り声を上げ、すぐにでも逃げ出せるように身構える。
時雨は、それ以上近づくことはせず、ただその場に立ち止まった。
「……」
言葉を発することなく、時雨はただ、その犬を見つめ続けた。
彼の深い色の瞳に、犬の姿が映る。時間だけが、静かに流れていく。
やがて、不思議なことが起こった。
あれほど警戒していた野良犬が、少しずつ、その身構えを解き始めたのだ。
唸り声は止まり、尻尾の震えも収まる。
そして、ついに、犬は時雨から目を離すことなく、ゆっくりと、本当にゆっくりと、時雨の方へ足を進めた。
時雨は、微動だにしなかった。
ただ、じっと、その犬を受け止めるように、まっすぐに見つめていた。
一歩、また一歩。
野良犬は、時雨のすぐ隣まで来ると、その場に座り込んだ。
彼の隣に、そっと寄り添うように。
そして、彼の顔を、信頼しきったような、しかしどこか哀しげな瞳で見上げてきた。
時雨は、驚きを隠せないでいた。
生まれてこの方、これほど動物が自分に近づいてきたことなど、一度もなかったからだ。
温かい、小さな重みが、彼の隣にある。
それは、彼の心に、今まで感じたことのない、微かな、しかし確かな変化の兆しをもたらしていた。
彼の内にあった、人との距離、感情の壁が、この小さな存在によって、ほんの少し、揺らいだような気がした。
野良犬は、時雨の隣で、穏やかに息をしている。
時雨は、まるでその温かさが溶けてしまわないように、静かに、しかししっかりと、その場に立ち尽くしていた。
彼が届けた手紙は、いつも誰かの人生にささやかな、しかし確かな変化をもたらす。
今日の夫婦もまた、コタロウからの手紙によって、深い悲しみから立ち直り、新しい家族を迎えることができた。
陽という名の保護犬が、あの窓辺の陽だまりで穏やかに眠る姿は、時雨の心にも、温かい光を灯した。
配達人として、彼は受取人の人生に干渉しない「観測者」であると自らを律している。
だが、手紙がもたらす変化を間近で見るたび、彼の内面に、微かな、しかし確かな影響を与えていることを、時雨自身も感じ始めていた。
正一と千代の家からほど近い公園の脇道に差し掛かった時、時雨はふと足を止めた。
彼の視線の先には、一匹の野良犬がいた。痩せた体で、毛並みは汚れ、耳は垂れ、尻尾は股の間に挟まっている。
周囲を警戒するように、きょろきょろとあたりを見回しながら、ゴミ箱の周りを嗅ぎ回っていた。
時雨は、いつも動物に好かれない。
彼が近づくと、なぜか犬や猫は一様に彼から距離を取る。
それは彼が未来郵便局の配達人として、ある種の「境界」に属する存在だからなのかもしれない、と漠然と考えていた。
だから、彼自身も、積極的に動物に近づくことはなかった。
しかし、その日の時雨は、なぜかその野良犬から目を離すことができなかった。
その犬の目に宿る、諦めと、ほんのわずかな怯え。
それは、幼い頃の時雨自身の瞳と、どこか重なるように思えた。
時雨は、静かに、ゆっくりと、野良犬に近づいてみた。
警戒する野良犬は、低い唸り声を上げ、すぐにでも逃げ出せるように身構える。
時雨は、それ以上近づくことはせず、ただその場に立ち止まった。
「……」
言葉を発することなく、時雨はただ、その犬を見つめ続けた。
彼の深い色の瞳に、犬の姿が映る。時間だけが、静かに流れていく。
やがて、不思議なことが起こった。
あれほど警戒していた野良犬が、少しずつ、その身構えを解き始めたのだ。
唸り声は止まり、尻尾の震えも収まる。
そして、ついに、犬は時雨から目を離すことなく、ゆっくりと、本当にゆっくりと、時雨の方へ足を進めた。
時雨は、微動だにしなかった。
ただ、じっと、その犬を受け止めるように、まっすぐに見つめていた。
一歩、また一歩。
野良犬は、時雨のすぐ隣まで来ると、その場に座り込んだ。
彼の隣に、そっと寄り添うように。
そして、彼の顔を、信頼しきったような、しかしどこか哀しげな瞳で見上げてきた。
時雨は、驚きを隠せないでいた。
生まれてこの方、これほど動物が自分に近づいてきたことなど、一度もなかったからだ。
温かい、小さな重みが、彼の隣にある。
それは、彼の心に、今まで感じたことのない、微かな、しかし確かな変化の兆しをもたらしていた。
彼の内にあった、人との距離、感情の壁が、この小さな存在によって、ほんの少し、揺らいだような気がした。
野良犬は、時雨の隣で、穏やかに息をしている。
時雨は、まるでその温かさが溶けてしまわないように、静かに、しかししっかりと、その場に立ち尽くしていた。
10
あなたにおすすめの小説
神さまのお家 廃神社の神さまと神使になった俺の復興計画
りんくま
キャラ文芸
家に帰ると、自分の部屋が火事で無くなった。身寄りもなく、一人暮らしをしていた木花 佐久夜(このはな さくや) は、大家に突然の退去を言い渡される。
同情した消防士におにぎり二個渡され、当てもなく彷徨っていると、招き猫の面を被った小さな神さまが現れた。
小さな神さまは、廃神社の神様で、名もなく人々に忘れられた存在だった。
衣食住の住だけは保証してくれると言われ、取り敢えず落ちこぼれの神さまの神使となった佐久夜。
受けた御恩?に報いる為、神さまと一緒に、神社復興を目指します。
番解除した僕等の末路【完結済・短編】
藍生らぱん
BL
都市伝説だと思っていた「運命の番」に出逢った。
番になって数日後、「番解除」された事を悟った。
「番解除」されたΩは、二度と他のαと番になることができない。
けれど余命宣告を受けていた僕にとっては都合が良かった。
次期国王様の寵愛を受けるいじめられっこの私と没落していくいじめっこの貴族令嬢
さくら
恋愛
名門公爵家の娘・レティシアは、幼い頃から“地味で鈍くさい”と同級生たちに嘲られ、社交界では笑い者にされてきた。中でも、侯爵令嬢セリーヌによる陰湿ないじめは日常茶飯事。誰も彼女を助けず、婚約の話も破談となり、レティシアは「無能な令嬢」として居場所を失っていく。
しかし、そんな彼女に運命の転機が訪れた。
王立学園での舞踏会の夜、次期国王アレクシス殿下が突然、レティシアの手を取り――「君が、私の隣にふさわしい」と告げたのだ。
戸惑う彼女をよそに、殿下は一途な想いを示し続け、やがてレティシアは“王妃教育”を受けながら、自らの力で未来を切り開いていく。いじめられっこだった少女は、人々の声に耳を傾け、改革を導く“知恵ある王妃”へと成長していくのだった。
一方、他人を見下し続けてきたセリーヌは、過去の行いが明るみに出て家の地位を失い、婚約者にも見放されて没落していく――。
ほんの少しの仕返し
turarin
恋愛
公爵夫人のアリーは気づいてしまった。夫のイディオンが、離婚して戻ってきた従姉妹フリンと恋をしていることを。
アリーの実家クレバー侯爵家は、王国一の商会を経営している。その財力を頼られての政略結婚であった。
アリーは皇太子マークと幼なじみであり、マークには皇太子妃にと求められていたが、クレバー侯爵家の影響力が大きくなることを恐れた国王が認めなかった。
皇太子妃教育まで終えている、優秀なアリーは、陰に日向にイディオンを支えてきたが、真実を知って、怒りに震えた。侯爵家からの離縁は難しい。
ならば、周りから、離縁を勧めてもらいましょう。日々、ちょっとずつ、仕返ししていけばいいのです。
もうすぐです。
さようなら、イディオン
たくさんのお気に入りや♥ありがとうございます。感激しています。
異世界にやってきたら氷の宰相様が毎日お手製の弁当を持たせてくれる
七瀬京
BL
異世界に召喚された大学生ルイは、この世界を救う「巫覡」として、力を失った宝珠を癒やす役目を与えられる。
だが、異界の食べ物を受けつけない身体に苦しみ、倒れてしまう。
そんな彼を救ったのは、“氷の宰相”と呼ばれる美貌の男・ルースア。
唯一ルイが食べられるのは、彼の手で作られた料理だけ――。
優しさに触れるたび、ルイの胸に芽生える感情は“感謝”か、それとも“恋”か。
穏やかな日々の中で、ふたりの距離は静かに溶け合っていく。
――心と身体を癒やす、年の差主従ファンタジーBL。
冤罪で辺境に幽閉された第4王子
satomi
恋愛
主人公・アンドリュート=ラルラは冤罪で辺境に幽閉されることになったわけだが…。
「辺境に幽閉とは、辺境で生きている人間を何だと思っているんだ!辺境は不要な人間を送る場所じゃない!」と、辺境伯は怒っているし当然のことだろう。元から辺境で暮している方々は決して不要な方ではないし、‘辺境に幽閉’というのはなんとも辺境に暮らしている方々にしてみれば、喧嘩売ってんの?となる。
辺境伯の娘さんと婚約という話だから辺境伯の主人公へのあたりも結構なものだけど、娘さんは美人だから万事OK。
治療院の聖者様 ~パーティーを追放されたけど、俺は治療院の仕事で忙しいので今さら戻ってこいと言われてももう遅いです~
大山 たろう
ファンタジー
「ロード、君はこのパーティーに相応しくない」
唐突に主人公:ロードはパーティーを追放された。
そして生計を立てるために、ロードは治療院で働くことになった。
「なんで無詠唱でそれだけの回復ができるの!」
「これぐらいできないと怒鳴られましたから......」
一方、ロードが追放されたパーティーは、だんだんと崩壊していくのだった。
これは、一人の少年が幸せを送り、幸せを探す話である。
※小説家になろう様でも連載しております。
2021/02/12日、完結しました。
復讐のための五つの方法
炭田おと
恋愛
皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。
それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。
グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。
72話で完結です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる