【完結】『謀反人の汚名を着た武田信玄 ~残された秘策と隠された忠義~』

月影 朔

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第四章:西国の風雲

第八十話:新たなる刺客

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 大友宗麟を巡る嵐の前の静けさは、翌朝、一変した。

 城下は朝から慌ただしく、重臣たちが次々と府内城へと入っていく。
千代女の報告通り、信長からの使者が宗麟に恭順を迫る、決定的な日となるのだ。小太郎は南蛮寺の一室で、窓から差し込む光を浴びながら、固く拳を握りしめていた。

「宗麟様は、いかなる決断を下されるであろうか……」

 おふうが、不安げな声で呟いた。
彼女の瞳は、城の方角をじっと見つめている。フロイスもまた、いつになく厳しい表情で、祈りを捧げていた。

 その頃、遠く京の都、安土城の一室では、織田信長が焦燥に駆られていた。

 信玄生存の噂は、もはや単なる噂では済まされない段階に達していた。
各地からの報告は、信玄が「楔」なるものを仕掛け、各地の勢力と水面下で通じていることを示唆している。

 特に、大友宗麟が信玄の使者と密かに接触したという報せは、信長の逆鱗に触れた。

「あの老いぼれ宗麟が、いまだに腑抜けたことをしておるか!キリシタンに傾倒し、あまつさえ死んだはずの甲斐の虎と通じるとは、まさに国を傾ける所業!」

 信長は、苛立ちを隠さず、手元の茶碗を叩き割った。その破片が、足元の畳に散らばる。

 近くに控えていた明智光秀は、静かに信長の怒りを受け止めていた。

「申し上げます、信長様。先の伊勢長島一向一揆の残党が、再び各地で蜂起の兆しを見せております。また、比叡山の焼き討ち以降、京の公家衆や寺社勢力の間でも、不穏な動きが散見されまする」

 光秀の報告は、信長の焦りをさらに煽るものだった。
信長は、自身の天下布武の邪魔をする全ての勢力を容赦なく排除してきた。しかし、見えぬ敵、すなわち信玄の仕掛ける「楔」は、民の心の奥底にまで入り込み、じわじわと反発の火種を広げているかのようだった。

「比叡の仏、伊勢の民、そして遠く九州のキリシタン大名まで……。死んだはずの信玄が、陰から手を回しておると申すか!
光秀、このような噂、一刻も早く根絶やしにせよ!特に、この京で信玄の影を追う者どもは、即刻始末せよ!」

 信長の目は、怒りに燃えていた。
彼は、信玄が仕掛ける見えざる戦に、苛立ちを募らせていたのだ。武力で全てを制圧してきた信長にとって、民の心を掴む信玄の策は、理解しがたい、しかし脅威となり得るものだった。

「ははっ。すでに手は打っております。噂の根源を探り、そして……」
 光秀は、そう言って、信長に一枚の絵図を差し出した。

 そこには、九州の府内城を中心に、小太郎たちの動きが詳細に記されていた。
フロイスとの接触、臼杵の石仏群への潜入、そして宗麟との三度にわたる謁見。全てが、信長の監視下に置かれていたのだ。

「これか……。この若造が、甲斐の虎の手足となって動いておるというのか。ならば、奴を討て。奴を始末すれば、信玄の企みも潰えるであろう」

 信長は、絵図に描かれた小太郎の姿を指差した。その眼差しは、獲物を狙う猛禽のようだった。

「承知いたしました。すでに、この道に長けた者どもを差し向けておりまする。
奴らは、影のように忍び寄り、獲物を確実に仕留めましょう。いかなる場所であろうと、逃れることはできませぬ」

 光秀は、信長に深く頭を下げた。
彼の言葉の裏には、信長をも欺く、別の意図が隠されているかのようだった。

 光秀は、信長が知らぬところで、独自に信玄の動きを探っていた。
そして、小太郎の存在が、この乱世に新たな風を吹き込む可能性を秘めていることにも気づき始めていたのだ。しかし、今は信長の命令に従う他ない。

 光秀が差し向けたのは、信長配下の忍び集団の中でも、特に冷酷で手練れの暗殺者集団「黒百合組」であった。

 彼らは、一度狙いを定めた獲物は、地の果てまで追い詰め、確実に仕留めることで恐れられていた。
頭領は、顔の左半分を大きな傷跡が横切る、無口で冷酷な男だった。彼は、部下たちに命令を下すと、音もなく闇に消えていった。

 一方、府内城下では、小太郎たちは、宗麟の決断を待ちながら、城内の動きに神経を尖らせていた。

 城内からは、時折、重臣たちの激しい議論の声が漏れ聞こえてくる。
信長の使者からの圧力が、宗麟と義統、そして家中の重臣たちの間で、激しい対立を生んでいるのは明らかだった。

「宗麟様が、信長公の圧力に屈することなく、信玄公の御心に応えてくださることを願うばかりです」
 おふうは、そう言って、祈るように手を組んだ。

 その日の夕刻、城から一人の使者が南蛮寺を訪れた。
使者は、宗麟からの文を小太郎に手渡した。文には、宗麟の強い決意が記されていた。

「小太郎殿。貴殿らの言葉、そして信玄公の御心、しかと胸に刻み申した。わしは、信長には屈せぬ。たとえ、この身がどうなろうとも、この豊後の地に、信玄公の目指す『和の世』の礎を築いてみせる。義統は、まだ信長に惑わされておるが、いつか必ずや真の道に気づかせよう。貴殿らは、この地での役目を終えた。次なる地へと、急ぎ旅立て」

 宗麟の文面には、信長への強い反発と、信玄の理念への揺るぎない覚悟が滲んでいた。
彼は、家中の内紛を抱えながらも、自らの信念を貫くことを選んだのだ。

「宗麟様……」

 小太郎は、宗麟の決意に胸を打たれた。
しかし、同時に、宗麟が背負う重荷を痛感した。
信長が、この反抗を見過ごすはずがない。宗麟の決断は、大友家を、そして豊後の地を、さらなる戦乱の渦に巻き込むことになるかもしれない。

「信玄公からは、まだ次の指示はございませぬが、宗麟様からの命とあらば、急ぎこの地を離れるべきでしょう」
 千代女は、そう言って、小太郎に次の行動を促した。

 その夜、小太郎たちは、密かに府内城下を後にした。夜空には、満月が煌々と輝き、彼らの旅路を照らしている。九州の地で得た「楔」と、宗麟の決意。
それは、信玄の壮大な計画を、さらに確かなものへと進めるであろう。

 しかし、その旅路は、これまで以上に過酷なものとなることを、小太郎は肌で感じていた。信長が放った新たなる刺客、黒百合組が、すでに彼らの背後に迫っていることも知らずに……。

 戦国の乱世で繰り広げられる、知略と心の戦いは、いよいよ最終局面へと突入しようとしていた。
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