【完結】『謀反人の汚名を着た武田信玄 ~残された秘策と隠された忠義~』

月影 朔

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第五章:風前の灯火

第八十六話:裏切り者の正体

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 高坂昌信の壮絶な殿(しんがり)によって得たわずかな時間を使い、小太郎、おふう、フロイスの一行は、甲斐への険しい道をひたすら進んでいた。

 織田の大軍の足音は、まるで背後から迫る獣のように彼らを追い立て、休む暇さえ与えない。しかし、彼らの心には、信玄が温存する「秘策」への一縷の望みが宿っていた。

 山道を抜け、ようやく人里へと辿り着いた時、空はすでに茜色に染まり始めていた。疲労困憊の身体で、彼らは小さな木賃宿(きちんやど)を見つけ、束の間の休息を取ることにした。

 宿の主人は、長篠の敗戦の噂を語り、武田の未来を案じていた。その言葉の端々から、武田家臣たちの間にも動揺が広がっていることが窺えた。

「武田が、これほどまでに追い詰められるとは……。信玄公がご健在であれば、かくも無様な敗戦を喫することはなかったであろうに」

 宿の主人は、嘆くように言った。その言葉は、小太郎の胸に重く響いた。信玄が病に倒れ、影に徹したことで、武田家の内情は揺らぎ始めていたのだ。

 その夜、小太郎は、明日の行程について考えを巡らせていた。どこかで食料を調達し、できる限り人目を避け、甲斐を目指さねばならない。その時、ふと、旅の途中で受け取った信玄からの密書を思い出した。それは、信玄が各地に設けている密約の縁、絆の糸、人脈といった連絡網の一部であった。

 密書には、次の合流地点が記されていた。そこへ行けば、武田の忠実な者と会えるはず。しかし、そこには、もう一つ、信玄からの警告が記されていた。

「小太郎。武田の家中に、信長に通じる者がいる。くれぐれも警戒を怠るな。その者の手によって、わしの築き上げた密約の縁が寸断されつつある」

 小太郎は、その一文に息を呑んだ。武田家の中に、裏切り者がいる。信長が、武田を内側から切り崩そうとしているのだ。

「何と……。まさか、武田の譜代の家臣の中に、そのような者がおるとは……」

 フロイスが、小太郎の顔色を見て、そのただならぬ気配を察し、驚きの声を上げた。おふうもまた、不安げな表情で小太郎を見つめている。

「信玄公が、そのように記されている。奴らは、我らの動きを、まるで手にとるように把握していたのだ。特に、信玄公の密約の縁、絆の糸、人脈の情報を、正確に掴んでいたのだ。これほど詳しい情報は、武田家の中枢にいる者でなければ知り得ない……」

 小太郎は、そう言って、固く唇を結んだ。彼の脳裏には、長篠の戦での武田軍の無策な突撃が蘇った。あの敗戦は、単なる勝頼の不手際だけではなかったのか。裏切り者の存在が、武田の敗北を決定づけたというのか。

「しかし、誰なのだ……。一体、誰が信長に通じているというのだ……!」

 小太郎は、怒りに震えた。信玄の命をかけた計画を、そして武田の未来を、裏切り者が弄んでいるのだ。小太郎は、密書を何度も読み返した。信玄が、その正体を示唆するような記述はないか。

 その時、密書の隅に、墨で薄く描かれた紋章があることに気づいた。それは、武田家臣のものであることは間違いない。しかし、見慣れた武田菱ではない。

 それは、武田の一門衆の中でも、特に信玄の信任が厚いとされた、穴山梅雪(あなやまばいせつ)の家紋に酷似していた。

「まさか……穴山梅雪殿が……!?」

 小太郎は、信じられないという表情で、その紋章を指差した。穴山梅雪は、信玄の甥にあたり、武田家中でも特に重きを置かれていた武将だ。彼が裏切るなどとは、到底考えられなかった。

「穴山梅雪……あの梅雪殿が、信長に通じていたと申すか……」

 フロイスは、その名を聞いて、驚きの声を上げた。
おふうもまた、顔を青ざめさせている。穴山梅雪は、武田家臣団の中でも、一際冷静沈着で知られ、信玄の傍近くに仕えることも多かった。そんな人物が、裏切り者であるなど、誰が信じられようか。

「信玄公は、この裏切り者の正体を知っておられながら、私にこの密書を託されたのか……。確たる証拠を掴むためか、それとも、この乱世の行く末を私に託されているのか……」

 小太郎は、信玄の深謀遠慮に、改めて驚きと畏敬の念を抱いた。

 信玄は、既に裏切り者の存在を察知していたのだ。しかし、その場で動くことができなかった。それは、穴山梅雪が武田家内で持つ影響力があまりに大きすぎたからなのか、あるいは、より大きな計画のために、この事実を伏せていたからなのか。

「いずれにせよ、この裏切り者の存在が、武田の存亡を左右する重要な鍵となるでしょう」

 フロイスは、そう言って、険しい表情で夜空を見上げた。信長は、武力だけでなく、人心をも弄び、武田を徹底的に追い詰めている。このままでは、武田家は、外敵と内なる敵によって、滅びの淵へと追いやられてしまう。

 小太郎は、裏切り者の正体を知り、怒り、そして絶望の淵に立たされた。しかし、同時に、この事実を知ったことで、彼の心に新たな決意が芽生えていた。

 信玄の「秘策」を成功させるためにも、そして、裏切り者の企みを阻止するためにも、必ずや甲斐へ辿り着かねばならない。穴山梅雪の裏切りを、信玄に伝え、その真意を問わねばならない。

 夜の闇が、一層深く里を覆い尽くしていく。小太郎たちの旅は、裏切り者の影が忍び寄る、さらなる危険な局面へと突入しようとしていた。武田の命運は、今、風前の灯火のように揺らいでいる。

 そして、小太郎は、その灯火を守るため、すべてを賭ける覚悟を決めていた。
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