86 / 143
第五章:風前の灯火
第八十六話:裏切り者の正体
しおりを挟む
高坂昌信の壮絶な殿(しんがり)によって得たわずかな時間を使い、小太郎、おふう、フロイスの一行は、甲斐への険しい道をひたすら進んでいた。
織田の大軍の足音は、まるで背後から迫る獣のように彼らを追い立て、休む暇さえ与えない。しかし、彼らの心には、信玄が温存する「秘策」への一縷の望みが宿っていた。
山道を抜け、ようやく人里へと辿り着いた時、空はすでに茜色に染まり始めていた。疲労困憊の身体で、彼らは小さな木賃宿(きちんやど)を見つけ、束の間の休息を取ることにした。
宿の主人は、長篠の敗戦の噂を語り、武田の未来を案じていた。その言葉の端々から、武田家臣たちの間にも動揺が広がっていることが窺えた。
「武田が、これほどまでに追い詰められるとは……。信玄公がご健在であれば、かくも無様な敗戦を喫することはなかったであろうに」
宿の主人は、嘆くように言った。その言葉は、小太郎の胸に重く響いた。信玄が病に倒れ、影に徹したことで、武田家の内情は揺らぎ始めていたのだ。
その夜、小太郎は、明日の行程について考えを巡らせていた。どこかで食料を調達し、できる限り人目を避け、甲斐を目指さねばならない。その時、ふと、旅の途中で受け取った信玄からの密書を思い出した。それは、信玄が各地に設けている密約の縁、絆の糸、人脈といった連絡網の一部であった。
密書には、次の合流地点が記されていた。そこへ行けば、武田の忠実な者と会えるはず。しかし、そこには、もう一つ、信玄からの警告が記されていた。
「小太郎。武田の家中に、信長に通じる者がいる。くれぐれも警戒を怠るな。その者の手によって、わしの築き上げた密約の縁が寸断されつつある」
小太郎は、その一文に息を呑んだ。武田家の中に、裏切り者がいる。信長が、武田を内側から切り崩そうとしているのだ。
「何と……。まさか、武田の譜代の家臣の中に、そのような者がおるとは……」
フロイスが、小太郎の顔色を見て、そのただならぬ気配を察し、驚きの声を上げた。おふうもまた、不安げな表情で小太郎を見つめている。
「信玄公が、そのように記されている。奴らは、我らの動きを、まるで手にとるように把握していたのだ。特に、信玄公の密約の縁、絆の糸、人脈の情報を、正確に掴んでいたのだ。これほど詳しい情報は、武田家の中枢にいる者でなければ知り得ない……」
小太郎は、そう言って、固く唇を結んだ。彼の脳裏には、長篠の戦での武田軍の無策な突撃が蘇った。あの敗戦は、単なる勝頼の不手際だけではなかったのか。裏切り者の存在が、武田の敗北を決定づけたというのか。
「しかし、誰なのだ……。一体、誰が信長に通じているというのだ……!」
小太郎は、怒りに震えた。信玄の命をかけた計画を、そして武田の未来を、裏切り者が弄んでいるのだ。小太郎は、密書を何度も読み返した。信玄が、その正体を示唆するような記述はないか。
その時、密書の隅に、墨で薄く描かれた紋章があることに気づいた。それは、武田家臣のものであることは間違いない。しかし、見慣れた武田菱ではない。
それは、武田の一門衆の中でも、特に信玄の信任が厚いとされた、穴山梅雪(あなやまばいせつ)の家紋に酷似していた。
「まさか……穴山梅雪殿が……!?」
小太郎は、信じられないという表情で、その紋章を指差した。穴山梅雪は、信玄の甥にあたり、武田家中でも特に重きを置かれていた武将だ。彼が裏切るなどとは、到底考えられなかった。
「穴山梅雪……あの梅雪殿が、信長に通じていたと申すか……」
フロイスは、その名を聞いて、驚きの声を上げた。
おふうもまた、顔を青ざめさせている。穴山梅雪は、武田家臣団の中でも、一際冷静沈着で知られ、信玄の傍近くに仕えることも多かった。そんな人物が、裏切り者であるなど、誰が信じられようか。
「信玄公は、この裏切り者の正体を知っておられながら、私にこの密書を託されたのか……。確たる証拠を掴むためか、それとも、この乱世の行く末を私に託されているのか……」
小太郎は、信玄の深謀遠慮に、改めて驚きと畏敬の念を抱いた。
信玄は、既に裏切り者の存在を察知していたのだ。しかし、その場で動くことができなかった。それは、穴山梅雪が武田家内で持つ影響力があまりに大きすぎたからなのか、あるいは、より大きな計画のために、この事実を伏せていたからなのか。
「いずれにせよ、この裏切り者の存在が、武田の存亡を左右する重要な鍵となるでしょう」
フロイスは、そう言って、険しい表情で夜空を見上げた。信長は、武力だけでなく、人心をも弄び、武田を徹底的に追い詰めている。このままでは、武田家は、外敵と内なる敵によって、滅びの淵へと追いやられてしまう。
小太郎は、裏切り者の正体を知り、怒り、そして絶望の淵に立たされた。しかし、同時に、この事実を知ったことで、彼の心に新たな決意が芽生えていた。
信玄の「秘策」を成功させるためにも、そして、裏切り者の企みを阻止するためにも、必ずや甲斐へ辿り着かねばならない。穴山梅雪の裏切りを、信玄に伝え、その真意を問わねばならない。
夜の闇が、一層深く里を覆い尽くしていく。小太郎たちの旅は、裏切り者の影が忍び寄る、さらなる危険な局面へと突入しようとしていた。武田の命運は、今、風前の灯火のように揺らいでいる。
そして、小太郎は、その灯火を守るため、すべてを賭ける覚悟を決めていた。
織田の大軍の足音は、まるで背後から迫る獣のように彼らを追い立て、休む暇さえ与えない。しかし、彼らの心には、信玄が温存する「秘策」への一縷の望みが宿っていた。
山道を抜け、ようやく人里へと辿り着いた時、空はすでに茜色に染まり始めていた。疲労困憊の身体で、彼らは小さな木賃宿(きちんやど)を見つけ、束の間の休息を取ることにした。
宿の主人は、長篠の敗戦の噂を語り、武田の未来を案じていた。その言葉の端々から、武田家臣たちの間にも動揺が広がっていることが窺えた。
「武田が、これほどまでに追い詰められるとは……。信玄公がご健在であれば、かくも無様な敗戦を喫することはなかったであろうに」
宿の主人は、嘆くように言った。その言葉は、小太郎の胸に重く響いた。信玄が病に倒れ、影に徹したことで、武田家の内情は揺らぎ始めていたのだ。
その夜、小太郎は、明日の行程について考えを巡らせていた。どこかで食料を調達し、できる限り人目を避け、甲斐を目指さねばならない。その時、ふと、旅の途中で受け取った信玄からの密書を思い出した。それは、信玄が各地に設けている密約の縁、絆の糸、人脈といった連絡網の一部であった。
密書には、次の合流地点が記されていた。そこへ行けば、武田の忠実な者と会えるはず。しかし、そこには、もう一つ、信玄からの警告が記されていた。
「小太郎。武田の家中に、信長に通じる者がいる。くれぐれも警戒を怠るな。その者の手によって、わしの築き上げた密約の縁が寸断されつつある」
小太郎は、その一文に息を呑んだ。武田家の中に、裏切り者がいる。信長が、武田を内側から切り崩そうとしているのだ。
「何と……。まさか、武田の譜代の家臣の中に、そのような者がおるとは……」
フロイスが、小太郎の顔色を見て、そのただならぬ気配を察し、驚きの声を上げた。おふうもまた、不安げな表情で小太郎を見つめている。
「信玄公が、そのように記されている。奴らは、我らの動きを、まるで手にとるように把握していたのだ。特に、信玄公の密約の縁、絆の糸、人脈の情報を、正確に掴んでいたのだ。これほど詳しい情報は、武田家の中枢にいる者でなければ知り得ない……」
小太郎は、そう言って、固く唇を結んだ。彼の脳裏には、長篠の戦での武田軍の無策な突撃が蘇った。あの敗戦は、単なる勝頼の不手際だけではなかったのか。裏切り者の存在が、武田の敗北を決定づけたというのか。
「しかし、誰なのだ……。一体、誰が信長に通じているというのだ……!」
小太郎は、怒りに震えた。信玄の命をかけた計画を、そして武田の未来を、裏切り者が弄んでいるのだ。小太郎は、密書を何度も読み返した。信玄が、その正体を示唆するような記述はないか。
その時、密書の隅に、墨で薄く描かれた紋章があることに気づいた。それは、武田家臣のものであることは間違いない。しかし、見慣れた武田菱ではない。
それは、武田の一門衆の中でも、特に信玄の信任が厚いとされた、穴山梅雪(あなやまばいせつ)の家紋に酷似していた。
「まさか……穴山梅雪殿が……!?」
小太郎は、信じられないという表情で、その紋章を指差した。穴山梅雪は、信玄の甥にあたり、武田家中でも特に重きを置かれていた武将だ。彼が裏切るなどとは、到底考えられなかった。
「穴山梅雪……あの梅雪殿が、信長に通じていたと申すか……」
フロイスは、その名を聞いて、驚きの声を上げた。
おふうもまた、顔を青ざめさせている。穴山梅雪は、武田家臣団の中でも、一際冷静沈着で知られ、信玄の傍近くに仕えることも多かった。そんな人物が、裏切り者であるなど、誰が信じられようか。
「信玄公は、この裏切り者の正体を知っておられながら、私にこの密書を託されたのか……。確たる証拠を掴むためか、それとも、この乱世の行く末を私に託されているのか……」
小太郎は、信玄の深謀遠慮に、改めて驚きと畏敬の念を抱いた。
信玄は、既に裏切り者の存在を察知していたのだ。しかし、その場で動くことができなかった。それは、穴山梅雪が武田家内で持つ影響力があまりに大きすぎたからなのか、あるいは、より大きな計画のために、この事実を伏せていたからなのか。
「いずれにせよ、この裏切り者の存在が、武田の存亡を左右する重要な鍵となるでしょう」
フロイスは、そう言って、険しい表情で夜空を見上げた。信長は、武力だけでなく、人心をも弄び、武田を徹底的に追い詰めている。このままでは、武田家は、外敵と内なる敵によって、滅びの淵へと追いやられてしまう。
小太郎は、裏切り者の正体を知り、怒り、そして絶望の淵に立たされた。しかし、同時に、この事実を知ったことで、彼の心に新たな決意が芽生えていた。
信玄の「秘策」を成功させるためにも、そして、裏切り者の企みを阻止するためにも、必ずや甲斐へ辿り着かねばならない。穴山梅雪の裏切りを、信玄に伝え、その真意を問わねばならない。
夜の闇が、一層深く里を覆い尽くしていく。小太郎たちの旅は、裏切り者の影が忍び寄る、さらなる危険な局面へと突入しようとしていた。武田の命運は、今、風前の灯火のように揺らいでいる。
そして、小太郎は、その灯火を守るため、すべてを賭ける覚悟を決めていた。
0
あなたにおすすめの小説
日本新世紀ー日本の変革から星間連合の中の地球へー
黄昏人
SF
現在の日本、ある地方大学の大学院生のPCが化けた!
あらゆる質問に出してくるとんでもなくスマートで完璧な答え。この化けたPC“マドンナ”を使って、彼、誠司は核融合発電、超バッテリーとモーターによるあらゆるエンジンの電動化への変換、重力エンジン・レールガンの開発・実用化などを通じて日本の経済・政治状況及び国際的な立場を変革していく。
さらに、こうしたさまざまな変革を通じて、日本が主導する地球防衛軍は、巨大な星間帝国の侵略を跳ね返すことに成功する。その結果、地球人類はその星間帝国の圧政にあえいでいた多数の歴史ある星間国家の指導的立場になっていくことになる。
この中で、自らの進化の必要性を悟った人類は、地球連邦を成立させ、知能の向上、他星系への植民を含む地球人類全体の経済の底上げと格差の是正を進める。
さらには、マドンナと誠司を擁する地球連邦は、銀河全体の生物に迫る危機の解明、撃退法の構築、撃退を主導し、銀河のなかに確固たる地位を築いていくことになる。
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
【架空戦記】狂気の空母「浅間丸」逆境戦記
糸冬
歴史・時代
開戦劈頭の真珠湾攻撃にて、日本海軍は第三次攻撃によって港湾施設と燃料タンクを破壊し、さらには米空母「エンタープライズ」を撃沈する上々の滑り出しを見せた。
それから半年が経った昭和十七年(一九四二年)六月。三菱長崎造船所第三ドックに、一隻のフネが傷ついた船体を横たえていた。
かつて、「太平洋の女王」と称された、海軍輸送船「浅間丸」である。
ドーリットル空襲によってディーゼル機関を損傷した「浅間丸」は、史実においては船体が旧式化したため凍結された計画を復活させ、特設航空母艦として蘇ろうとしていたのだった。
※過去作「炎立つ真珠湾」と世界観を共有した内容となります。
日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-
ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。
1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。
わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。
だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。
これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。
希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。
※アルファポリス限定投稿
戦国終わらず ~家康、夏の陣で討死~
川野遥
歴史・時代
長きに渡る戦国時代も大坂・夏の陣をもって終わりを告げる
…はずだった。
まさかの大逆転、豊臣勢が真田の活躍もありまさかの逆襲で徳川家康と秀忠を討ち果たし、大坂の陣の勝者に。果たして彼らは新たな秩序を作ることができるのか?
敗北した徳川勢も何とか巻き返しを図ろうとするが、徳川に臣従したはずの大名達が新たな野心を抱き始める。
文治系藩主は頼りなし?
暴れん坊藩主がまさかの活躍?
参考情報一切なし、全てゼロから切り開く戦国ifストーリーが始まる。
更新は週5~6予定です。
※ノベルアップ+とカクヨムにも掲載しています。
織田信長IF… 天下統一再び!!
華瑠羅
歴史・時代
日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。
この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。
主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。
※この物語はフィクションです。
九州のイチモツ 立花宗茂
三井 寿
歴史・時代
豊臣秀吉が愛し、徳川家康が怖れた猛将“立花宗茂”。
義父“立花道雪”、父“高橋紹運”の凄まじい合戦と最期を目の当たりにし、男としての仁義を貫いた”立花宗茂“と“誾千代姫”との哀しい別れの物語です。
下剋上の戦国時代、九州では“大友・龍造寺・島津”三つ巴の戦いが続いている。
大友家を支えるのが、足が不自由にもかかわらず、輿に乗って戦い、37戦常勝無敗を誇った“九州一の勇将”立花道雪と高橋紹運である。立花道雪は1人娘の誾千代姫に家督を譲るが、勢力争いで凋落する大友宗麟を支える為に高橋紹運の跡継ぎ統虎(立花宗茂)を婿に迎えた。
女城主として育てられた誾千代姫と統虎は激しく反目しあうが、父立花道雪の死で2人は強く結ばれた。
だが、立花道雪の死を好機と捉えた島津家は、九州制覇を目指して出陣する。大友宗麟は豊臣秀吉に出陣を願ったが、島津軍は5万の大軍で筑前へ向かった。
その島津軍5万に挑んだのが、高橋紹運率いる岩屋城736名である。岩屋城に籠る高橋軍は14日間も島津軍を翻弄し、最期は全員が壮絶な討ち死にを遂げた。命を賭けた時間稼ぎにより、秀吉軍は筑前に到着し、立花宗茂と立花城を救った。
島津軍は撤退したが、立花宗茂は5万の島津軍を追撃し、筑前国領主としての意地を果たした。豊臣秀吉は立花宗茂の武勇を讃え、“九州之一物”と呼び、多くの大名の前で激賞した。その後、豊臣秀吉は九州征伐・天下統一へと突き進んでいく。
その後の朝鮮征伐、関ヶ原の合戦で“立花宗茂”は己の仁義と意地の為に戦うこととなる。
異聞坊ノ岬沖海戦 此れは特攻作戦に非ず
みにみ
歴史・時代
1945年4月 米軍が沖縄へと上陸 日吉台は菊水一号作戦発令
第一航空戦隊旗艦大和率いる第二艦隊は全兵力をもって
これを迎撃せんとす 基地航空隊との協力を持ってこれを撃滅せよ
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる