【完結】『謀反人の汚名を着た武田信玄 ~残された秘策と隠された忠義~』

月影 朔

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第六章:本能寺への序曲

第百話:楔の意味、光秀の動揺

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 京の都は、信長の築き上げた絢爛な文化の影で、民の不安と不満が澱のように沈殿していた。

 小太郎とおふうは、信玄の命を受け、この歴史の舞台で明智光秀への接触を図るべく、巧みに市井に溶け込んだ。

 小太郎は、美濃で信玄から託された「大樹の石像」を肌身離さず持ち歩き、その重みが、彼に課せられた使命の重さを否応なく意識させた。

 おふうは、薬師としての知識を活かし、市井の人々と交流を深める中で、光秀に関する様々な情報を収集した。彼の居城である坂本城での様子、信長との関係、そして近頃の彼が抱える深い苦悩の片鱗まで。

 光秀の居城、坂本城の城下は、琵琶湖の湖畔にあり、京の都とはまた異なる、静謐な空気に包まれていた。しかし、その静けさの中にも、信長の支配に対する、いや、信長そのものに対する、言葉にならぬ不満が渦巻いているのを、小太郎は敏感に感じ取った。

 光秀は、信長からの理不尽な叱責を受け、次第に自らの理想と現実との乖離に苦しんでいた。その心には、信長への忠誠と、己の良心との間で激しい葛藤が生まれていた。

 小太郎は、忍びの装束は身につけず、信玄からの使者として、あくまでも表向きは「甲斐の商人」を装っていた。その方が、光秀に警戒心を抱かせずに済むと、信玄からの指示があったからだ。

 そして、数日間の周到な準備を経て、ついに光秀への接触の機会が訪れた。

「明智様、まことに恐縮ではございますが、甲斐よりの者、貴殿にお目通り願いたく参上いたしました」

 光秀の側近に声をかける小太郎の言葉は、京の商人のそれと寸分違わず、淀みなく流れる。小太郎の周到な準備とおふうが集めた情報が功を奏し、彼は光秀との面会を取り付けることに成功した。

 坂本城の一室。
静寂が支配する空間で、小太郎は明智光秀と対峙した。光秀の眼光は鋭く、その視線は小太郎の深奥まで見透かすかのように感じられた。小太郎は、緊張を隠し、平静を装って頭を下げた。

「甲斐よりの者と申すが、拙者は貴殿に見覚えがない。それに信玄は既にこの世にはおらぬはず。何の用で参ったか」

 光秀の声は静かだが、その問いには、信玄の生存を疑う警戒心と、何らかの真意を探ろうとする探求心が滲んでいた。

 小太郎は、光秀の揺れる心を見抜き、核心を突く言葉を選んだ。

「明智様。私は武田信玄公からの使者として、貴殿にお目通り願った次第」

 小太郎の言葉に、光秀の顔色が変わった。信玄の生存は、公には隠された「禁忌」であった。彼の目には、警戒と驚愕、そしてかすかな期待の色が混じり合った。

「信玄公が生きておられると申すか……まことか?」

 光秀は前のめりになり、小太郎に迫った。
その焦燥が、彼がいかに信長の支配に苦悩しているかを物語っていた。

 小太郎は、そこで信玄から託された最後の「楔」を取り出した。手に持つ大樹の石像を、光秀の目の前に差し出す。

「これをご覧くだされ、明智様」

 光秀は、小太郎の手の中にある石像に目をやった。それは、ただの石像ではなかった。信長が築き上げた、武力による統一とは異なる、別の「世」の存在を訴えかけるような、不可思議な力を秘めているように感じられた。

「これは……」

「信玄公が、長年をかけて集められた『楔』の一つ。そして、この最後の『楔』にこそ、信玄公の真の願いが込められております」

 小太郎は、信玄の言葉を借りて、静かに語り始めた。

「この『楔』は、単なる物品ではございませぬ。比叡山の焼き討ちで失われた祈り、丹波の戦場で傷ついた民の悲しみ、瀬戸内の海を渡る人々の願い、九州の地で虐げられた信仰……。 信玄公は、それら全ての『民の願い』を、この『楔』に込めておられるのです」

 小太郎は、これまでの旅で目にした、信長の圧政に苦しむ人々の姿を思い出しながら、言葉を紡いだ。

「信長公の天下布武は、確かに乱世を終わらせるものとして見えます。しかし、その先に待つのは、血と恐怖に彩られた支配に過ぎませぬ。
信玄公が願うのは、真に民が安んじて暮らせる世。
戦乱が終わり、それぞれの土地の文化や信仰が尊重され、人々が手を取り合って生きられる、真の泰平の世でございます」

 小太郎の言葉は、光秀の心の奥底に深く響いた。
光秀自身も、信長の非情なやり方に疑問を抱き、民の苦しみに心を痛めていたからだ。

「この大樹の石像は、信玄公が長年かけて集められた情報と、信長打倒後の世の平穏を願う『民意の象徴』。信玄公は、この『楔』を通じて、明智様が、信長公亡き後の新たな世を築くための『大義』を担うべきだと、そう願っておられるのです」

 小太郎は、光秀の目を見据え、言葉に力を込めた。光秀の表情には、激しい動揺が浮かんでいた。信玄公の生存。そして、その信玄公が、天下布武の夢を抱く信長を討つことを画策している。さらに、その大役を自分に託そうとしているというのだ。

「信玄公が……生きておられると申すか。そして、そのように壮大な計画を……」

 光秀は、信玄公の深謀遠慮に震え、言葉を失った。
長年信長に仕え、その才を認められながらも、心のどこかで満たされない思いを抱えていた光秀にとって、信玄公の提案は、彼自身の理想と、信長への不満を、あるべき形へと導く、まさに「大義」の光に見えた。

 信玄公が示した「民意の象徴」としての「楔」は、単なる謀略の道具ではなかった。それは、光秀の心の奥底に眠っていた「正義」と「理想」を揺さぶる、強烈な呼びかけだった。

 光秀の胸中には、信長への不満と、信玄公が示す新たな天下の夢が、激しく入り乱れ、嵐のように渦巻き始めた。
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