【完結】『謀反人の汚名を着た武田信玄 ~残された秘策と隠された忠義~』

月影 朔

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第六章:本能寺への序曲

第百五話:光秀、内なる声に従う

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 京の坂本城。明智光秀の居室には、夜更けになっても灯りがともり、その光は、彼の心に渦巻く葛藤を映し出すかのように揺らめいていた。

 信玄からの書状と、小太郎の言葉は、光秀の心の奥底に深く食い込み、長年信長に仕えてきた彼の忠誠心を根底から揺るがしていた。

 信長による理不尽な叱責は、日ごとにその苛烈さを増していた。ある時は、些細な手違いで激しく罵倒され、またある時は、人前で恥辱的な扱いを受けた。

 光秀の心は、深い傷を負い、精神的な疲弊は限界に達していた。彼は、自らが信じる武士としての「道」と、信長の求める「覇道」との乖離に苦悩し続けていた。

 そして、極めつけは、徳川家康の饗応役解任であった。
京での饗応の宴席で、光秀は家康を盛大にもてなす任を負っていた。しかし、その宴席で、信長は光秀の準備に些細な不手際を見つけては激しく叱責し、ついに饗応役の任を解いた。
光秀にとって、これは公衆の面前での屈辱であり、武将としての名誉を著しく傷つけられる出来事だった。

 この解任劇の裏には、信玄と家康の周到な計画があった。信玄は、光秀の性格と、信長が家康を警戒する性質を利用し、この饗応役解任という屈辱的な状況が生まれるよう、家康に指示を出していたのである。家康もまた、信玄の指示に従い、あえて不手際を誘発するような行動をとり、光秀の不満を増幅させることに一役買っていたのだ。

 光秀は、信玄の書状を何度も読み返した。
そこには、信長の非道が列挙され、このままでは真の泰平は訪れぬと、信玄の強い確信が記されていた。
そして、光秀自身こそが、この乱世を終わらせるための「大義」を担うべき人物であると。

 光秀の胸中では、信長への忠誠と、自らが抱く理想、そして信玄が示す「大義」とが、嵐のようにぶつかり合っていた。

 彼は、信長という絶対的な「主」への忠節と、民の苦しみに心を痛める「良心」の間で、引き裂かれるような苦しみを味わっていた。

 しかし、度重なる信長からの屈辱的な仕打ちと、信玄の言葉が示す「民の願い」が、次第に彼の心に、ある確信を芽生えさせていった。
信長が築く天下は、血と力に彩られ、決して民を安んじるものではない。ならば、誰かがこの暴虐を止めねばならない。

 小太郎は、光秀の心を観察し続けていた。
京の薬種屋で情報を集めるおふうからの報告も、光秀の苦悩が頂点に達していることを示していた。

 信長は、もはや光秀の忠誠心を試すどころか、彼を完全に精神的に追い詰めようとしているかのようだった。その状況が、光秀の決断を後押ししていることは明らかだった。

 ある夜、小太郎は、坂本城の奥深く、光秀が一人座しているのを見つけた。
蝋燭の炎が、光秀の影を大きく揺らし、その姿は、まるで嵐の前の静けさのように見えた。

 光秀は、静かに目を閉じ、深く息を吐いた。彼の脳裏には、信長に仕えてきたこれまでの日々、信長の恩義、そして彼が目指す天下布武の夢が走馬灯のように駆け巡る。しかし、それらの光景の隙間から、比叡山焼き討ちの炎、長篠で散っていった武士たちの無念、そして信長の傲慢な笑顔が浮かび上がった。

 そして、再び信玄の書状の言葉が、光秀の脳裏にこだました。「真の泰平は、民が安んじて暮らせる世にこそある」。光秀の心の中で、天秤が傾き始めた。信長への忠誠という重しが、次第に軽くなり、民の安寧と自らの正義という重しが、大きく皿を押し下げていく。

 光秀は、ゆっくりと目を開けた。その瞳には、これまでになかった、鋭い光が宿っていた。迷いは消え失せ、代わりに、確固たる決意が漲っていた。

「時は今……」

 光秀は、震える声で呟いた。その言葉には、長きにわたる苦悩の末に下された、重い決断の響きがあった。

「天が我が手で乱世を正さんと欲している……」

 光秀は、自らの内に響く声に、従うことを決意した。
それは、彼自身の「正義」と、信玄が示した「大義」とが、ついに一つになった瞬間であった。信長への忠誠という鎖は、今、彼自身の意思によって断ち切られたのだ。

 小太郎は、光秀の決意を悟ると、静かにその場を後にした。

 彼は、信玄の計画が、まさに最終段階へと突入したことを確信した。
信玄の深謀遠慮は、光秀の人間性、信長の傲慢さ、そして家康の協力を全て計算に入れた上で、この壮大な計画を遂行していたのだ。

 光秀は、自らの意思で信長討伐を決断したと信じているだろうが、その背後には、信玄という希代の策士が、緻密な網の目を張り巡らせていたのである。
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