【完結】『謀反人の汚名を着た武田信玄 ~残された秘策と隠された忠義~』

月影 朔

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第六章:本能寺への序曲

第百八話:出陣前夜、それぞれの思い

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 第六章:本能寺への序曲
 
 天正十年五月二十八日、明智光秀は、羽柴秀吉の毛利攻めを支援するため、亀山城を出陣する命を受けた。

 表向きは中国攻めへの加勢。
しかし、その真の目的は、京の本能寺に眠る織田信長を討つことにあった。

 光秀の胸中には、信長への最後の忠誠と、信玄が示した「大義」との間で揺れ動いた苦悩はすでにない。あるのは、新しき世を築くための、静かで、しかし確固たる決意であった。

 亀山城の広間。出陣を控えた明智の将兵たちが、最終の指示を待っていた。
光秀は、彼らの顔を一人一人見つめた。誰もが、来るべき戦への高揚と、主君への忠誠を胸に秘めている。彼らは、まさか自分たちが、日本の歴史を根底から覆す大罪を犯すことになろうとは、夢にも思っていなかっただろう。光秀の胸に、一抹の痛みと、深い覚悟が去来した。

 その夜、光秀は自室で静かに座していた。
机の上には、一通の書状が置かれている。それは、信玄からの最後の文だった。

 そこには、信長亡き後の天下の混乱をいかに収拾するか、そして、家康が担うべき泰平の世の具体的な構想が記されていた。光秀は、信玄という希代の策士が、いかに遠い未来まで見通していたかを改めて知り、畏敬の念を抱かずにはいられなかった。

 彼の孤独な決断が、信玄の壮大な計画の一部であることを理解した時、光秀の心に、ある種の安堵が広がった。

「時は来た……」

 光秀は、静かに呟いた。

 同じ頃、京の都では、小太郎とおふうが、それぞれの持ち場につき、決行の時を待っていた。

 おふうの薬種屋は、いつもと変わらぬ賑わいを見せていた。しかし、彼女の心は、静かに波立っていた。小太郎が、これからどれほどの危険な任務に身を投じることになるのか。そして、この国が、これからどれほど大きな変革の嵐に巻き込まれるのか。おふうは、薬草を調合する手を休め、遠く西の空を仰いだ。

 光秀が出陣したという報は、すでに京の市井にも広まっていた。彼女は、小太郎の無事を、そして信玄様が目指す「和の世」が実現することを、静かに祈っていた。

「小太郎様……どうか、ご無事で」

 おふうのつぶやきは、誰にも届かず、京の喧騒の中に消えていった。しかし、彼女の心には、小太郎への深い愛と、彼の使命を支える揺るぎない決意が宿っていた。

 有事の際、負傷者の手当てを行うべく、薬草や包帯はすでに準備万端であった。彼女は、歴史の表舞台に立つことはなくとも、裏からこの計画を支える、重要な歯車の一つであった。

 一方、小太郎は、本能寺周辺の闇に身を潜めていた。彼の五感は研ぎ澄まされ、わずかな物音、風の匂い、人の気配、その全てが、来るべき決行の時を告げているように感じられた。
望月千代女の忍び衆が、すでに本能寺の警備状況を最終確認し、光秀の部隊が接近するのを今か今かと待ち構えている。

 小太郎は、懐に忍ばせた信玄様の書状を握りしめた。そこには、光秀を服部半蔵として家康のもとへ導くための詳細な指示が記されていた。

 信玄様は、これまでの全ての計画を小太郎に託し、そして、日本の未来を家康に託した。小太郎は、信玄様の深き願いを胸に、自らがその遺志を継ぐ者であるという覚悟を新たにした。

「信玄様……必ずや、大義を成し遂げてご覧にいれます」

 小太郎の目は、闇の中で鋭く光っていた。彼の心には、長年仕えてきた信玄様への忠誠と、おふうへの想い、そして、この乱世を終わらせるという使命感が、混じり合って燃え盛っていた。彼は、まさに歴史の目撃者として、そして実行者として、その場に立っていた。

 美濃の深き隠れ庵では、武田信玄が静かにその時を待っていた。彼の体は、病魔に蝕まれ、その命の灯火は、今にも消え入りそうであった。
しかし、その表情には、一切の不安も、迷いもない。長きにわたる計画が、ついに成就せんとしていることに、深い満足感を覚えていた。

 信玄は、自らの手で広げた畿内の地図をじっと見つめていた。
そこには、信長が本拠を置く安土、そして、今まさに光秀が兵の準備を進めている亀山、そして決戦の地となる本能寺の位置が記されている。

 彼の脳裏には、数十年にも及ぶ壮大な謀略が、走馬灯のように駆け巡っていた。

「わしは、武力で天下を統一しようとはしなかった。だが、民が安んじて暮らせる世を、必ずや築かねばならぬと信じてきた……」

 信玄の目に、遠い過去の光景が映った。戦乱に苦しむ民の姿。飢えと病に倒れる人々の呻き。そして、若き日の徳川家康の、真っ直ぐな瞳。

「家康よ……そなたならば、わしの夢を、必ずや現実のものとしてくれるであろう。そして、光秀……そなたもまた、わが願いを叶えるための、重要な役目を果たしてくれる」

 信玄は、静かに目を閉じた。
彼の耳には、遠く離れた京の都から聞こえるかのような、歴史の歯車が軋む音が聞こえていた。
その音は、新たな時代の幕開けを告げる、静かなる胎動であった。

 すべての駒が配置され、それぞれの思いを胸に、運命の夜が、静かに、しかし確実に、更けていく。
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