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十一 ただ一人
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「私はね。あの子も、あなた様のことを憎からず想っているのではないかと思うのですよ」
おこうの言葉に、松木の胸にぶわりと喜びが湧いたが、即座に首を横に振ってそれを振り払った。
「まあ」
と、女中二人の声がする。
「お前さんたちはどう思うかい?いつも二人の様子を見ているだろう?」
「師匠の仰る通りかと思います」
おつのの女中おとめが、弾んだ声を上げた。普段は余計な口を聞かずにおつのに付き従っている娘は、こんな声が出せたのかと松木が驚いたほどの勢いで話し始める。
「小師匠はいつも、松木様にお別れのご挨拶をなさった後、次の方々のお稽古が始まるぎりぎりまで、松木様が歩き去る後ろ姿を見送っていらっしゃいます」
「私も左様に思います」
おそめの女中おたねも、同じ調子で声を上げた。こちらも、町娘らしい快活さだった。
「なんの御心も無い方に、あんなに熱心な視線を向けるものではございませんわ」
それは、もしや憎い相手を睨んでいるだけなのではないか、などと考えてしまうのは、三年前にさよを救えなかった自身の心の弱さか。
「口の重いお二人に任せておいては、生涯、挨拶だけで満足されてしまうのではないかとやきもきしておりました」
「伝えるべきことは、伝えられる時に伝えねば」
わくわくと話すおたねに反し、どこか低い声で述べたおこうの言葉には、深く感じ入る何かが宿っていた。
「某は……」
「許嫁でもいるってんなら、それを裏切れとは言わないがね」
「……今は、おらぬ」
「今は……?死別かい?」
「いや」
「それは、言えぬ話ですか?」
「いや……。相手の家が取り潰しとなった」
「そりゃ……。いや、では……」
「お相手の方は?」
何かに気付いて口を閉じたおこうに代わり、おたねが口を挟む。一月以上も共に習いごとの伴をしておれば、松木に任せては話が進まないことはよく分かっていた。
「許嫁は、取り潰しとなった家とは縁切りの後、母御と共に母御の実家へ帰ったとの事であった」
「会ってはおられなかったのですか?」
「某は江戸にいて、相手は領地にいた」
「松木様……。もしや、お仕えする方がいらっしゃる……?」
おこうの言葉に、松木は一つ頷く。それから、はたと思い出した。自分は、剣を教えながらの長屋暮らし、との設定であったか。
「しかしおみつさんは、とても武家の娘には見えませぬ」
「もちろん、違う」
「では何故?」
「それは、言えぬ」
おこうは暫し考え、また口を開いた。女中たちは戸惑ったように口を噤んだままだ。長屋の暇な浪人者だと思っていた松木が、仕える者のいる歴とした武士であったのだから、どう接していいのか分からなくもなろう。今までの態度が無礼ではなかったか、と慄いているのかもしれない。
「では、おかよでは身分が釣り合わぬということですね」
「……」
答えられぬのは、それが正しいから。
「許嫁殿のことは好いていらした?」
「好いていた」
息を飲む音が聞こえる。
言ってから松木は、いや、違う、と思った。違う。
「好いている」
言い直した松木に、は?とおこうが目をむく。おとめとおたねの口からも、は?と声が上がった。
「かよを好いていると先ほど言うたその口で、許嫁殿のことも好いている、と?」
「ああ。某はまだ、ただ一人だけを好いておるようだ」
おこうの言葉に、松木の胸にぶわりと喜びが湧いたが、即座に首を横に振ってそれを振り払った。
「まあ」
と、女中二人の声がする。
「お前さんたちはどう思うかい?いつも二人の様子を見ているだろう?」
「師匠の仰る通りかと思います」
おつのの女中おとめが、弾んだ声を上げた。普段は余計な口を聞かずにおつのに付き従っている娘は、こんな声が出せたのかと松木が驚いたほどの勢いで話し始める。
「小師匠はいつも、松木様にお別れのご挨拶をなさった後、次の方々のお稽古が始まるぎりぎりまで、松木様が歩き去る後ろ姿を見送っていらっしゃいます」
「私も左様に思います」
おそめの女中おたねも、同じ調子で声を上げた。こちらも、町娘らしい快活さだった。
「なんの御心も無い方に、あんなに熱心な視線を向けるものではございませんわ」
それは、もしや憎い相手を睨んでいるだけなのではないか、などと考えてしまうのは、三年前にさよを救えなかった自身の心の弱さか。
「口の重いお二人に任せておいては、生涯、挨拶だけで満足されてしまうのではないかとやきもきしておりました」
「伝えるべきことは、伝えられる時に伝えねば」
わくわくと話すおたねに反し、どこか低い声で述べたおこうの言葉には、深く感じ入る何かが宿っていた。
「某は……」
「許嫁でもいるってんなら、それを裏切れとは言わないがね」
「……今は、おらぬ」
「今は……?死別かい?」
「いや」
「それは、言えぬ話ですか?」
「いや……。相手の家が取り潰しとなった」
「そりゃ……。いや、では……」
「お相手の方は?」
何かに気付いて口を閉じたおこうに代わり、おたねが口を挟む。一月以上も共に習いごとの伴をしておれば、松木に任せては話が進まないことはよく分かっていた。
「許嫁は、取り潰しとなった家とは縁切りの後、母御と共に母御の実家へ帰ったとの事であった」
「会ってはおられなかったのですか?」
「某は江戸にいて、相手は領地にいた」
「松木様……。もしや、お仕えする方がいらっしゃる……?」
おこうの言葉に、松木は一つ頷く。それから、はたと思い出した。自分は、剣を教えながらの長屋暮らし、との設定であったか。
「しかしおみつさんは、とても武家の娘には見えませぬ」
「もちろん、違う」
「では何故?」
「それは、言えぬ」
おこうは暫し考え、また口を開いた。女中たちは戸惑ったように口を噤んだままだ。長屋の暇な浪人者だと思っていた松木が、仕える者のいる歴とした武士であったのだから、どう接していいのか分からなくもなろう。今までの態度が無礼ではなかったか、と慄いているのかもしれない。
「では、おかよでは身分が釣り合わぬということですね」
「……」
答えられぬのは、それが正しいから。
「許嫁殿のことは好いていらした?」
「好いていた」
息を飲む音が聞こえる。
言ってから松木は、いや、違う、と思った。違う。
「好いている」
言い直した松木に、は?とおこうが目をむく。おとめとおたねの口からも、は?と声が上がった。
「かよを好いていると先ほど言うたその口で、許嫁殿のことも好いている、と?」
「ああ。某はまだ、ただ一人だけを好いておるようだ」
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