憂鬱採集

菜っぱ

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マウンティング女子

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 試写会があったその日、紀美子はどうやって家に帰ったのか記憶がない。

 気がついたら、家に着いていた。

 身を引き摺り込むようにして、なんとか玄関の扉を開けた紀美子は、玄関にどかっと座る。

 多分、しばらく動けない。靴も脱げない頭を抱えて、考え込む。


 紀美子はあのプロデューサーの男の言った通り、人を馬鹿にして生きていたのだ。そのことに、今になって気がつく。


 自分の趣向にそぐわない、人物の努力を無価値だと決めつけて排斥しようとしていた。
 清香や女優たちは美しさを求めて、努力をしていた。
 紀美子は文の質を高めていた。

 努力の方向性が違うだけで、自分を高めようとしているという点では同じなのに。

 その指向性を理解しようとせず、貶めていたのは自分自身の弱い心なのだ。

 婚活パーティーで一緒にコーヒーを飲んだ男性だって、理解しようとしなかっただけで、きっと何かで努力をしているはずだ。

 紀美子は会社員として働く中で、社会の歯車になる大変さを身をもって知っているはずだった。

 彼だってどこかで、苦労して社会の歯車になっているはずなのだ。それを紀美子が否定をすることはできない。

 ああ、私は清香さんの努力に対して、それは人の人生を糾弾するための免罪符にはなり得ないと自負していたのに。

 紀美子は自分を否定して欲しくないと思っていながら、誰かを否定していたことにも気がついて、余計に頭を抱えた。



 しばらくそのまま玄関で置物のように動けずにいると、後ろから声がかかる。

「ねえ、ちょっといい?」

 それは妹の美和子の声だった。

「何?」

 こんなふうに妹が声をかけるのは珍しい。今話すべきことがあるのだろう。紀美子は視線を彼女に向ける。

「お姉ちゃん……、疲れてる?」
「大丈夫、どうしたの?」

 紀美子は心配をかけぬよう、穏やかな笑みを取り繕った。

「実はね……。私お腹に赤ちゃんがいて……。結婚することになったの!」
「え⁉︎  相手は……あの彼?」

 紀美子は駅で偶然、妹が恋人といる場面にハチあったことがあった。
 顔はよく覚えていないが、柔和な雰囲気を持っていて、悪い印象は持たなかったことを覚えている。

 すごい、妹はやっぱり自分よりも遥かに優れている。

 自分が人生ですることがないと考えている、パートナーと愛し合い、命を生み出すという行為を人生にいとも、たやすく組み込んでいる。

__やっぱり、自分は人間として不備だらけの不良品なんだ。

 そんな考えに支配されながら、紀美子は言葉を紡ぐ。

「それはすごいことだと思う。私が書いている小説なんか、あなたが生み出す命に比べたらちっぽけな物だもの。無価値に等しい」

 妹は難しい顔をして首を傾げていた。何を言っているのか、わからないという顔だ。

 紀美子だって何を考えて言葉を話しているのか、もうわからなくなっていた。

 妹の幸せを祝ってあげたいはずなのに、削れていく自分を慰めることだけで精いっぱいになっていた。

 もう涙がこぼれ落ちそう、そう思った時、妹は思わぬことを口にする。

「でもさ……。私のお腹の中の子がお姉ちゃんの本を読んで、勉強になるなあ、と思うかもしれないじゃん? それって広い意味で捉えたら、お姉ちゃんが私の子を育ててくれたってことになるんじゃない?」

 紀美子は自分に全く思いつかない考えに、目も口も大きく開いてしまった。

 自分の文章が子供を育てる? そんな考えは一切持ったことがなかった。
 紀美子はただ、自分の心の穴を埋めるために、それだけのことに必死になっていただけだった。

「どうしてそんな素敵なこと考えられるの……?」

「お姉ちゃんは……。十分素敵だよ。お姉ちゃんにしかかけないものをちゃんと作ってる。それはちゃんと誰かに届いて、誰かの人生の一部になってるはずじゃん」

 そう言って、妹は花開くような屈託のない笑顔を見せた。


 ああそうか。だから彼女は……。


 紀美子は妹がなぜ、幸せを掴めているのか、わかった気がした。

 そして妹の今後の人生を想像した。

 彼女は結婚し、子供を産み、育てていく。
 それによって、きっと妹は自分が体験しない、苦しみと楽しみを味わうだろう。
 そして、自分はそれを体験しなかったからこその、苦しみと楽しみを得る。

 人の人生はこうやって別れていくのだ。



 よろよろと階段を上り、一人自室の机の前に向かう。
 机には小説のプロットを組む際に使う万年筆やノート、が昨日小説をかいた時のまま、無造作に置かれていた。


 紀美子はぼんやりとした思考で、改めて考えてしまう。



 人生、何が上で、何が下なの?



 考えうる、選択肢を並べてみる。



 いい大学を出れば幸せ?
 高卒の方が幸せ?

 容姿に恵まれていたら幸せ?
 そこそこの方が幸せ?

 恋人がいれば幸せ?
 いないで趣味に没頭できた方が幸せ?

 結婚していない方が幸せ?
 独身の方が幸せ?

 子供がいた方が幸せ?
 子供がいない方が幸せ?

 誰かに看取られて死んだ方が幸せ?
 一人で死んだ方が幸せ?



 etc……


 人生にはこんなに分岐点とそれに伴うサンプル数が出揃っているのに、私たちは正解を何一つ知らない。


 誰もそれを証明できない。
 確からしい解さえわからない。


 私たちは、比べながら生きている。


 そうだ、この思いを文章にしよう。誰のため? 紛れもなく私自身のためだ。私の人生を肯定するため。


 __迷って揺らぐ、自分自身にマウントを取るため。


 その衝動に近い思いに支配された紀美子はペンをとる。

 まとまらない思いを言葉にしていく。

 きっとこんな書き散らしをしたもの売れないだろう。そんな自己陶酔に満ちたモノ、本になるかもわからない。

 それでも自分のために書かなければいけない。

 
 物語を作ること。
 

 それが紀美子に残された選択の中で一番確からしい、解だからだ。



 紀美子は今日採集した憂鬱を丁寧に文字として落とし込んでいく。書けば書くだけ、涙がこぼれ落ちる。

 悔しさ、悲しさ、嬉しさ、虚しさ、自己満足、埋めることのできない空洞。様々な感情が、多色を混ぜたようにぐちゃぐちゃに溶けていって、濁りを見せ始める。


 だが、絶対に手を止めることはできない。


 紀美子の物語は、これからもこうして綴られていくのだ。




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