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第二部

② 恋文

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 明け方にひどい夢を見た。
 ぐらぐらと揺れる視界の中で、必死に廊下を歩いている夢だ。
 一歩一歩、どこへ向かっているのかは分からない。
 ただ、必死に歩き続けているように思えた。
 途中でゲホゲホと咳き込んで、口に当てていた手を見たら、その手が真っ赤に染まっていた。
 体がふらついて壁に手を当てて体を支えた。
 壁には自分の血が伸びて、引っ掻いたようなあとが残った。
 今にも倒れてしまいそうなのに、どこかへ行こうとしていた。
 ついには床に崩れ落ちて、這いずってまで進んでいたが、力尽きたのか少しも動けなくなり、辛うじて伸ばした手が床に落ちたのが見えた。
 真っ暗になった後、意識が急浮上して戻った。
 
 目覚めたレアンは、ベッドから飛び起きて、ぜえぜえと咽せるように息をした。
 辺りはまだ薄ぼんやりと明るくて、鳥の声すら聞こえなかった。
 ただ、静かな部屋にひとり。
 大丈夫? こわい夢でも見たの?
 そう言ってくれる人がいない、ということを痛感した。
 自分で手を離したんだと、レアンは込み上げてくる後悔の波に、口に手を当てて涙を堪えた。
 涙のかわりのように、大量の汗をかいて、寝巻きはぐっしょりと濡れていた。


 喉が渇いたので、台所へ行って水を汲んだ。
 コップに入れた水を飲んでいたら、ギシギシと床を踏む音がして、顔を上げるとロックが食堂に入って来たところが見えた。
 いつも朝までぐっすり寝る男が、こういう時だけはしっかり起きてくるので、特別な力でもあるのかと思ってしまった。

「どうした? こんなに早く起きるなんて、まだ早すぎるぞ」

 何とか笑顔を作ったレアンは、首を振って大丈夫だと伝えた。

「……そうだな。眠れない時はある。この家はずいぶん静かになったからな」

 そう言ってロックが部屋を見渡すと、大きな食堂に、シエルやカイエン、エドワードがいた頃の幻影が見えた気がした。
 シエルは家を出ていき、カイエンやエドワードは兵舎に住み込みなので、たまにしか帰ってこない。
 今のロック邸に暮らしているのは、主人のロックと、レアンだけだった。
 レアンは他の三人のように話すこともないので、邸の中は小さな物音が大きく聞こえるくらい、静かだった。

「シエルとは話しているか?」

 レアンが首を振ると、ロックはそうかと言って、どかりと近くのソファーに座った。
 レアンはカップにロックの分も水を入れて、テーブルに持って行き、対面の席に座った。

「お前達二人は、ここに来る時も一緒で、それから片時も離れる時がないくらいだったからな。一年も離れて、寂しいだろう」

 ロックはここへ来てからのレアンとシエルのことをずっと見守ってきてくれた人だ。
 いつも優しかったけれど、厳しく叱られたこともある。
 まだ生活に慣れなかった二人に、冗談を言って笑わせてくれた。
 父のような祖父ような、そんな明るさを持った人だった。

「……一年前、確かにシエルは暴走してしまった。シエルの将来を心配して、離れることを選んだレアの気持ちも分かる。シエルは自分のしてしまったことの重大さに気づいて、大人しく離れて行ったことも……。今まで、二人で答えを出すのならと思って何も言わずにきたが、最近よくシエルの噂を耳にしてな……。レアは? どう思った?」

 レアンは、テーブルの上に置いてあった紙とペンを手に取って、素直な気持ちを書いた。

 “今は後悔しています。あの時、もっとちゃんと話し合えばよかった。シエルの存在が大きくなって、向き合うことができずに突き放してしまいました“

「そうか……、レアにとってシエルはどんな存在だ?」

 “兄弟…家族“

「カイやエドのこともそう思っているんだろう?」

 レアンは素直に頷いた。
 兄弟の契りを結び、今は本当に兄や家族を想う気持ちと同じだった。

「それなら、シエルもカイやエドと同じなんだな?」

 そう言われたら、どこか違う気がした。
 カイやエドといる時、安らぐ気持ちがあるが、シエルといる時はそれだけではない。
 もっと胸が高鳴って、一緒にいられて幸せだという気持ちが体中に溢れて……

「愛の形ってのはな、ひとつじゃない。人それぞれ、色んな形があるんだ。お前にあった形を選べばいい」

 ロックが優しくかけてくれた言葉が、じんわりと胸に染み込んだ。
 背中を押してくれたみたいに聞こえて、レアンは胸に手を当てた。トクトクと心臓の音が手のひらに響いて、やっと動き出したように思えた。

「長く生きている者から言わせてもらうと、噂ってのは、でたらめだったり、勝手に飾りを付けられるモンだ。悩んで苦しむくらいなら、本人に直接聞くのが一番。暴力の件は反省したと思うが、俺から見ると、アイツは昔も今も、変わっていない。この一年、毎日のように連絡が来ているよ。レアはどうしてるか、元気かって、うるさいくらいだ」

 トクンっと大きく心臓が揺れて、レアンは顔を上げた。
 ロックは歯を見せて、ニヤッと笑っていた。

「自分で話せって言うのに、怖いんだと。今度こそ、二度と顔を見せるなと言われたら、生きていけないなんて……お前と、同じ顔をしていたよ」

 深く息を吸い込んだレアンは、思わず立ち上がってしまった。
 耳に入ってきた噂の数々、間に受けて傷ついていたけれど、ちゃんと本人の口から聞いていなかった。
 今度こそ、シエルと向き合いたい……

 まだ少し早かったが、荷物をまとめたレアンは出勤することにした。
 早めに仕事を終わらせて、シエルが住んでいる劇団の寮に寄って話をしようと考えた。

「いってらっしゃい」

 笑顔で手を上げてきたロックに向かって、レアンは頭を下げてから手を振った。
 ロックのおかげで、沈んだままだった心が、空に向かって飛び上がったような気持ちだ。

 大丈夫。
 きっと大丈夫だと、繰り返して、レアンは走って家を出た。

 
 急いでいる日に限って、色々と用事を頼まれてしまう。
 課長からあれこれと言われて、レアンは朝から走り回っていた。
 お昼を食べる間もなく、いつもの退勤時間を過ぎてしまい、抱えていた資料をやっと運び終えたと思ったら、空が赤く染まっていた。
 文書室に戻ると、同僚はすでに帰宅して誰もいなかったので、急いで鞄を持って帰り支度をした。
 戸締まりを確認し、鍵を詰所に戻して外へ出たら、あの、と声をかけられた。

「レア、さんですよね。急に声をかけてしまってすみません」

 立っていたのは、騎士見習いのような格好をした男だった。
 背が高くきちんと切り揃えられた髪が目に入ったが、誰であるかはよく分からなかった。
 名前を知られているということは、話したことがあるかもしれないが、それすらも覚えがない。
 仕事を始めてから分かったことだが、レアンは人の顔を覚えるのが苦手だった。
 シエルのことは一瞬で覚えてしまったのに、近しい人でないとさっぱりで、少し会わないだけで考えてしまうくらいだった。
 仕事の関係で何か報告でもあるのだろうかと、さっと頭を切り替えたところで、男は何かを差し出してきた。

「よかったら、読んでください」

 手渡されたのは、白い封筒だった。
 厚みから中に手紙が入っているのが分かった。
 読んでも読まなくてもいいものとは、何だろうと考えてしまった。

「ま、前に、そこの道を歩いている時、目が合って……そ、それから忘れなれなくなって……名前とか勝手に調べちゃって……すみません」

 何か伝えようにも筆記用具が鞄の中だったので、慌てて鞄を開けようとしたら、男はいいですと言って止めてきた。

「レアさんが、話せないことも知ってます。そんなことは、全然気にしないので。……あの、へ、返事はなくてもいいです。そ、それじゃあっ」

 どこの誰なのか、名前を聞こうとしたのに、男は顔を真っ赤にして、転びそうな勢いで走って行ってしまった。
 まるで嵐のような出来事だった。
 後に残ったのは、鮮やかな夕日と静寂だけで、男の姿が消えてから、ふっと思い出したようにレアンは封筒を開けて手紙を取り出した。

 書かれていた内容をぼんやりと見て、途中で気がついたレアンは目を大きく開けた。
 それは恋文だった。
 初めて見た時に、恋に落ちてしまったと書かれていて、最後には名前と所属が書かれていた。

 まさか自分が恋文を、しかも男性からもらうなんて信じられないと、レアンは口に手を当てて固まってしまい、しばらく動けなかった。
 
 この世界において、恋愛は男女がするもの、という考えが根付いているが、一部で同性同士の恋愛も認められつつある。
 罰則のような厳しい規定もなく、特に騎士などの男性が多く所属する機関では珍しくないと聞いた。
 それにシエルは、男女を超える存在として見られていて、その美しさから男女ともに人気がある。
 そうは言っても、自分には関係のない世界だと思い込んでいた。
 むしろ、男でも女でも、自分のような人間と、恋愛したいという人がいると思わなかった。
 だからレアンは、ずっとそういった色恋からは距離を置いていた。
 それだけは、いまだに小説の中のお話で、自分は俯瞰して見ているだけの気がしていたのだ。

 愛には様々な形がある。
 ロックがそう言っていたことを思い出した。

 自分に合った愛の形。
 自分は誰と恋愛がしたいのだろうと、ようやくこの歳になって、レアンはまともに考えることになった。

 自分がこの人のように、抑えきれない想いを抱いて、誰かに恋文を送るとしたら、それは誰なのか……

 真っ白な霧が足元からレアンを包んでいて、少しも周りが見えなかった。
 ただ、濃い霧の向こうに光が見えて、自分を呼ぶ声が聞こえた気がした。

 シエルのところへ行かなくては……

 無性にシエルに会いたくなって、レアンはまとわりついた霧を散らすように、夕焼けの空の下を一目散に駆けて行った。

 


 

(続)
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