深淵に囚われて

朝顔

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7、不穏

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「……店長。また、あの方が……」

 店のバックヤードで帳簿を付けていたら、バイトの女の子が申し訳なさそうな顔でホールの方から顔を出してきた。

「分かった。今行くよ」

 パタンと画面を閉じてから、これで三度目かと思いながら、小さくため息をついて腰を上げた。

 ホールに出て周りを見渡すと、一番端の角の眺めのいい席にその男はいた。
 俺が出てきたのを確認すると、軽く手を上げてこちらだとアピールしてきた。

「瀬名さん、お疲れさまです」

 爽やかに笑う顔はどこか懐かしい匂いがしたが、俺は首を振ってから男に近づいた。

「今日も早帰りですか……。教師ってもっとお忙しいのかと思っていましたけど……」

「そう思っていたんですけどね、意外と作ろうと思えば作れるものでした。特に、会いたい人に会おうと思うとやる気が出ますから」

 そう言ってコーヒーを飲みながらにっこり笑ったのは理玖の担任である堀川だ。

「……困ります……私の方は仕事がありますから、ずっとここにはいられないですし……」

「いいんです。顔が見れただけで。それと、一緒に帰れたらな、なんて少しだけ期待しているだけです」

 少し前なら、こんなアプローチを受けたら飛び上がって喜んでいたかもしれない。
 しかし、もう俺は自分の気持ちがどこにあるのか気がついてしまった。

 自分の想いから逃げるために、堀川を利用するなんて考えられない。

「……どうして、急に連絡を返してくれなくなったんですか? 私の方は……仲良くなったつもりでした。その理由が聞きたくて……」

 逃げるものを追う習性。
 堀川の意識はそれに近いかもしれない。
 自分に気がありそうだったから、構っていたのに、急に逃げてしまったから気になっているのだろうか。

「すみません、色々と話を聞いていただいて助かりました。ですが……このところ、仕事が忙しいんです。自分のことにかまけて理玖に寂しい思いをさせたくないんです。プライベートは理玖のために使おうと決めたので、メッセージのやり取りをするのはもう……っっ!」

 下を向きながら話していたら、堀川にガッと手を掴まれた。
 他の客からは見えていないと思うが、さすがにここで大騒ぎするわけにいかない。
 どうしようかと動けなかった。

「……ハッキリいいます。私は瀬名さんのことが恋愛対象として気になっていました。このまま、終わりにしたくはありません」

「堀川さんは、ご結婚されているでしょう?」

 俺の言葉に腕を掴む堀川の力が弱まったので、その隙にスッと手を引き抜いた。

「そっ、それは……確かにそうですが……事情があって」

「これ以上は迷惑ですから、もう、来ないでください」

「瀬名さ……」

 堀川はまだ何か言っていたが、俺は振り返らずそのまま事務室に直行した。
 塩崎にちょっとお客様と揉めたから何かあったら、すぐに声をかけてくれと頼んだが、その後店内が騒動になることはなかった。
 堀川は諦めたのか、大人しく帰ってくれたようだった。




 閉店後、先にみんなを帰らせて、一人になってから大きなため息をついた。

 自分は何をやっているのだろうと頭を抱えた。

 堀川のことも、店まで来られて揉めることなどなく対応できたはずだ。
 それが、頭の中が理玖のことでいっぱいで、他のことが考えられなくなってしまった。

 夢や妄想ばかり抱いて、頭の中で理玖を汚している。そんな自分に腹が立って虚しくてたまらなかった。

 あの酔っ払ってめちゃくちゃな夢を見た翌朝、俺は激しい頭痛で目が覚めた。
 酒を飲んだ次の日はいつもこうだった。
 ひどい二日酔いになってしばらく動けなくなる。
 翌日が休みで助かった。

 寝込んで使い物にならない俺の横で、理玖は飲み物や食事を運んできたりと世話をしてくれた。
 あんな夢を見ている俺のために……。
 情けなかった。

「理玖と……離れた方がいいかもしれない」

 あの卑猥な夢は、悪夢でなく俺の願望だと気がついた。
 俺は幼い頃から理玖を性的な目で見ていた変態だったということだ。
 おぞましい……

 必要なら別に部屋を借りて、理玖の金銭的支援だけすることも考えていた。
 このままだと、願望が抑えきれずに理玖を襲ってしまうかもしれない。
 それが恐かった。

 悶々と悩んでいたらいつもよりずいぶんと遅くなってしまった。
 従業員出入り口から外へ出て、カードを通してロックをかけていると、何か気配のようなものを感じた。

 自転車置き場の暗がり、その辺りから視線を感じるような気がして、俺はゾクっとして震えた。

 誰だろう、強盗かもしれない。
 そうだったらどうしよう。

 嫌な想像だけがぐるぐると、体を縛るように這っていき冷や汗が止まらなかった。

「ハル兄」

「ううわぁぁ!」

 大通りの方から急に声が聞こえて叫んでしまった。見ると、理玖が手を上げてこちらに向かって走ってくるところだった。

「ごめん、驚かせちゃった? 帰りが遅いし、連絡しても繋がらなくて、心配で来ちゃった」

「りく……」

 今日は疲れることの連続で、今は心細くて動揺していた。
 思わず近づいてきた理玖の服を掴んでしまった。

「大丈夫? 震えてる……。どうしたの?」

「何でもない……」

「なくないよ! 青い顔して汗まで……」

 理玖を守る立場のくせに、すっかりビビってしまった俺は、理玖にぎゅっと抱きしめられてやっと安心して呼吸をすることができた。

「大したことじゃなくて……、そこの暗がりに誰かいる気がして……」

「……もう、鍵は大丈夫? 早くここを離れた方がいい」

 理玖にそう言われてコクンと頷いた俺は、手を引かれて人の多い通りに出た。
 理玖はやけに真剣な顔で無言だった。
 俺も無言でとにかく帰ることだけを考えて急いで帰宅した。


 作り置きしていたものを軽く口に入れて、理玖が淹れてくれたお茶を飲んで、やっと冷静になることができた。

「本当何やってんだろう。全部俺の妄想だよ、疲れてたんだ。理玖にまで迷惑かけてごめん」

「妄想、なのかな?」

 俺は理玖に心配をかけたくなくて、ごまかそうとした。
 真面目な顔をした理玖がサラリと言った言葉に、まるで全て見透かされたみたいでドキッと心臓が騒いだ。

「全然連絡がつかなかったんだよ。スマホは? 持ってる?」

「ああ……上着のポケットに……、あっ、電源が落ちてる。おかしいな、充電はそんなに減ってなかったのに……」

 不思議に思いながら充電器に繋いで電源を入れた。
 程なくして、光った画面に表示されたものを見て、俺は驚いて言葉を失い息を呑んだ。

 俺の横から画面を覗いてきた理玖が、何だこれはと驚きの声を上げたので、やっと我に返った。

「着信、百件近くあるよ! 俺、そんなに連絡してないけど……」

 ロックを外して調べてみると、直近は理玖からの連絡が三件、その前にズラっと堀川からの着信が数分おきに来ていて、それを見たらゾッとしてスマホを床に落としてしまった。

「堀川って……堀川先生のこと? 連絡先、交換していたの? 何でこんなに着信が……先生も何かあったの?」

 また足元からガタガタと震え出して、汗が止まらなくなった。
 俺のせいだ。
 俺が上手く断れなかったから……、こんなことになってしまった。

 どうしよう
 どうしたらいいんだ

 パニックになる俺をさらに追い詰めるように、床に落ちていたスマホが光って、堀川の名前が表示された。

「ひっっ………」

「ハル兄、落ち着いて。俺が出るから」

「えっ、理玖……」

 サッとスマホを拾い上げた理玖が通話に切り替えてしまった。
 あまりの早技に止めることができなかった。

「……先生ですか? ええ、前原です。……はい、……はい。先生、落ち着いてください。こんなことをされたら、迷惑です。ちょっ……先生、せんせ……」

 切れちゃったと言って、理玖は俺に画面を見せてきた。
 これはもう、ごまかすとかそういうレベルではないなと、ズンと頭が重くなって項垂れた。

「ハル兄、色々聞きたいことがあるから、ちょっと話せる?」

 もう逃げられない。
 覚悟を決めて俺は理玖と机で向かい合って話をすることにした。









「……そう、それで、見回りの時の先生に偶然会って、連絡を取るようになった……と。それでこの前、奥さんとデートをする先生を見かけて、既婚者だと分かって距離を置いたら、向こうから職場まで来られることになった。ここまではいいかな?」

「ああ、それで……間違いない」

 俺のたどたどしい説明がやっと終わったが、理玖は冷静に状況をまとめてくれた。
 腕を組んで難しい顔になった理玖を見て、何を言われるだろうと俺はビクビクしていた。

「ということは、ハル兄は堀川先生のこと、気になってたってことだよね?」

「理玖!? そっ、それは……あの……」

「大丈夫だよ。そんなに動揺しないで。俺、知ってるから。ハル兄の部屋から父さんが怒って何か持ち出して捨ててるのを見たんだ。大事なものだったら困るだろうからってゴミ捨て場まで見に行ったら……、そういう男の人が好きな人向けの雑誌で……」

「ああっ、理玖……」

 いつの間に見られていたんだと、俺は絶望で手で顔を覆った。
 知られまいとする俺に、理玖は気を使って何も聞いてこなかったのかと気まずい気持ちになった。

「だから大丈夫だよ。俺は偏見はないし、女でも男でも、その人が好きになったのなら、それでいいと思う。だからハル兄のこと、特別な目で見たりとか、そういうのはないから心配しないで」

 驚いた。
 恥だとか気まずいとか、もがいていた俺とは違い、理玖はずいぶん大人の考えを持っていた。
 まだ子供だと思っていたのに、いつの間にこんな意見が言えるようになったのか、まじまじと見つめてしまった。

「理玖……、よかった。理玖に嫌われるかと思っていたから」

「ハル兄を? そんなわけないよ。俺、ハル兄のこと大好きだもん」

 理玖は優しい顔になってにっこりと笑ってくれた。
 俺はその笑顔に癒されつつも、心の中で自分に言い聞かせた。
 理玖の言う大好きは家族に向けるものだ。
 勘違いしてはいけないと。

「でも、堀川先生のことは、ちょっと気をつけないとね。さっきの電話でも激昂していたよ。ハル兄を出せって……、あんなに恐い人だと思わなかった。だいたい奥さんがいるくせに、ハル兄に告白してくるなんてありえない」

「俺より理玖の方が心配だ。学校で顔を合わせるし、何か言われたりひどい扱いを受けたら……」

「それは大丈夫、堀川先生、担任を外れることになったんだ」

「え?」

「先生達は何も言わないけど、噂では個人パソコンの中に猥褻な画像があったとか……」

「なんだって!?」

「あくまでも噂だからね、生徒になんて教えてくれないよ。でも、何かあって担任は下りることになったみたい。顔も合わせないし、どこにいるのか……」

「そんな……」

 そんな話は聞いていなかった。
 いや、ここ最近、連絡が来ても忙しいからと返して、そのうちメッセージを開くこともやめていた。
 改めて見ようと思ったが、理玖に既読になるからやめた方がいいと言われて、ブロックすることにした。





 いつも通り風呂を済ませて、ベッドに転がっていると、後から出た理玖がこちらもいつも通りと言った顔で俺のベッドに入ってきた。

「ちょ……理玖!」

「え?」

「え、じゃない。さっきの話……覚えているだろう。兄弟だからと言っても、俺は……」

 理玖で妄想ばかりしている俺だ。
 こんな危険な男の横にノコノコ入ってくる理玖が信じられなかった。

「男の人が好きだからって話? だから言ったじゃない、大丈夫だって。それに、今まで一緒に寝ていたんだし、何か問題でもあるの?」

「そ……それは……別に……理玖とは兄弟だから」

 じゃあいいじゃんと言って、理玖はいつも通り俺を後ろから抱きしめてきた。
 わずかに抵抗する気持ちもあったが、理玖の温かさに包まれたらもう俺はすぐにダメになった。

 このままずっとここにいたい。
 この場所を、もう二度となくしたくない。

「ハル兄、俺はハル兄の側にずっといるよ。ハル兄のこと、ずっと守ってあげるからね」

 うつらうつら沈んでいく意識の中で、理玖の声が頭に響いていた。

 その言葉は、ずっと昔に理玖が言ってくれた言葉と一緒だった。

 義父に殴られていたあの頃、俺はおかしかった。
 理玖を避けていた、なんて都合よく記憶していたけれど、本当は子供の理玖の部屋に行って、理玖にしがみついて泣いていた。

「ねえ、ハル兄はどうしたいの?」

 ああ、この言葉も同じだ。
 あの頃も泣きじゃくる俺に理玖はそうやって聞いてきた。
 あの時、俺は何と言ったのだろうか……

「り……りく……一緒……ずっと……ここに」

 ぬくぬくとした理玖の温かさに包まれて、薄れゆく意識の中、俺は素直にそう返していた。

「うん。一緒にいようね」

 理玖の返事を聞いて俺は安心しきって、意識を手放して夢の中へ沈んでいった。

「前にも言ったでしょう、ハル兄の願いなら、何でも叶えてあげるって」

 そんなことを聞いたような気がする。

 しかしその意味も記憶も思い出せないまま、今夜は夢を見ることなく、深い深い眠りについたのだった。






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