雪月花の物語 ~聖域の悪魔~

冴條玲

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第五章 闇血呪

5-3b. 天への勅命

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 期待しなかった。たとえ、愛されていなくても、父皇帝は彼に憎悪までは向けない。
 それで満足だった。
 それだけが、何より、大切なことだった。
 道具のように使い捨てられて構わないと思ってきたのに、愛情を期待してしまったら、裏切られた時、彼はきっと、ゼルダを道連れにしてしまう。
 ゼルダも信じられない。
 たった一人、彼を愛する者にさえ裏切られる前に、愛するあの子を殺したいと願ってしまう。

「いや、待てガーディナ。おまえ何の才能だ、激しくわからないんだが。死ななくていいっていうか、死ぬな。ゼルダが泣くだろう。それともなんだ、積極的にゼルダを泣かせたいのか」
「いえ……あ、はい……」

 くすっと、皇帝が失笑する。

「おまえな、命懸けで意地悪するな」

 彼の頭に手を置いた父皇帝が、泣くなと、悪かったと謝った。
 雫が頬を滑り落ちて、滴った。
 それが涙だと、ヴァン・ガーディナにはしばらくの間、理解できなかった。

「たまに訪ねて来たんだ、説教のひとつもするかな」

 いまだ、胸の奥が詰まって、ヴァン・ガーディナは顔を隠すようにして、父皇帝の言葉を聞いていた。

「まぁ、よく聞け。ヴァン・ガーディナ、私にとってのおまえは、アーシャが愛した皇子だ。それでも不安なら、ゼルダが愛している皇子だ。死ぬなよ。私はアーシャが愛する全てを愛し守り抜くと、彼女を口説くために約束したんだ。これ以上、約束を破らせてくれるな」

 父皇帝の思惑通りだとしても、ようやく、彼は少し笑った。
 ハーケンベルクも案外、可愛げのある人だ。
 カエルの子はカエルだろうか、ゼルダがいかにも、同じ約束をして妃を口説いていそうだし。
 父皇帝の説教は、怒るわけではなくて、『説教』の文字通り道理を説いて、教えることなんだなと思った。

「それにな。少女の頃は、ゼルシアにだって可愛げがあったんだ。アーシャしか目に入らないゼルシアに、あれがアーシャを守る権力欲しさに私を求めたのをいいことに、異性の感触を身体に教え込んで、アーシャのことは程よく忘れさせてやろうと思ったりしてな」

 それは凄い。
 あの母皇妃ゼルシアを可愛いと思える父皇帝ハーケンベルクはさすがというかだ。

「楽しめましたか」
「それなりに。満足していると思ったが、今はもう、あれを慈しんだ気持ちは思い出せないな」

 蒼穹そうきゅうを映す湖のようだった、水色アクアマリンの瞳。緩く波打つ白雪の髪。
 傾国の美女とうたわれた少女の頃のゼルシアは、確かに、この世で最も美しい存在のひとつだった。
 変わってしまったのは、目の色が変わってしまったあの日だろうか。アーシャが死んだ日、青かったゼルシアの瞳は紅くなり、二度と、色が戻ることはなかった。
 ショックで髪の色が抜けて白髪になる、という話はよく聞くが、彼女はもともと薄かった瞳の色が抜けてしまった。色素の薄い瞳が青で、色素を失った瞳が血の色なのだ。
 不意打ちでヴァン・ガーディナの襟首をつかむと、ハーケンベルクは有無を言わせず、片腕で皇子を抱き締めた。

「な――」

 それは、ほんの束の間で。

「よし、涙止まったな」

 ああ、驚いた拍子に。
 まるきり子供扱いで、ヴァン・ガーディナはつい吹いた。彼を子供扱いできる者など、久しくいなかった。
 いてくれて、良かった。覚えたのは安堵だ。

「おまえは天空、ゼルダは大地だ。ゼルダを守れよ、地を失えば、天はもう、天ではなくなるのだから」

 人は天を仰ぐ。
 なぜなら、そこに大地があるからだ。

「あの子を失ったら――大地を失ったら、天空はどうなりますか。神にさえ、見放されますか」

 その問いは、あなたに見放されますか、と尋ねたものだった。

「いいや? ただの虚空になる、そう思わないか」

 虚空に――
 そうだ、ゼルダが死んでしまっても、世界も彼も何ひとつ変わることはない。ただ、虚しく空っぽになるだけだ。
 大地を失った天空は虚空になる。それはあまりにも、創世のことわりだった。
 ヴァン・ガーディナは納得した顔でうなずくと、思い出したように告げた。

「あ、そうだ。ゼルダが父上にお会いしたがって、ついて来たいと駄々をこねましたが、お会いになられますか?」
「ゼルダが? 意外だな、あの子、私を嫌っていると思ったが」

 ふっと、ヴァン・ガーディナは微笑んで奏上した。

「ゼルダも、父上に嫌われていると思っているだけです。あなたに愛されたがっています」
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