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第三章 闇を彷徨う心を癒したい

第72話 闇幽鬼の恩返し

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「どうやって?」

 ユリシーズの声に、デゼルが少し驚いた顔を上げた。

「……刺し殺せれば……」
「それって、あなたの身体を瀕死に追い込んで、強引に流産させるつもりなの? 方法のあてはないのね?」

 デゼルがうなずくと、ユリシーズが言った。

「デゼル、約束を果たしてもらえないかしら。皇帝と皇太子が討たれ、無事、ネプチューン様が帝位に就かれたわよ」

 心も身体もつらいはずなのに。
 デゼルは儚く微笑むと、すぐに、術式に入った。
 今より遥かに悪い状態でも、デゼルはこの調子だったのかもしれない。
 公国を守るために、皇子に望まれるまま、デゼルがその意志で皇帝を討ったんだとしても。
 デゼルにすがるしかないユリシーズはまだしも、まだ十歳の少女の手を血に染めさせる必要が、ネプチューン皇子のどこにあったんだろう。
 もっと強い人や、功績のためにそれをしたい人が、いなかったはずがないのに。

 まさか、面白がって?

 僕、どうかしてるのかな。
 ネプチューン皇子はデゼルを助けてくれた恩人なのに、極悪人の疑いをかけてしまうなんて。
 何となく、いやな感じがするからって――

生命の水ウンディーネ【Lv9】――ユリシーズを癒したまえ」

 興奮した顔で鏡を見に走ったユリシーズが、歓喜の表情でふり向いた。

「ああデゼル、ありがとう! 私、あなたには本当に感謝してる。どんなに感謝してもしきれない。だから――そのこども、私が殺してあげようか?」

 デゼルはすごく、驚いたみたいだった。

「いいの? そんなこと、だって、ユリシーズ!」
「だってもさってもない、私は闇幽鬼スペクターよ? あなたほど、殺しに抵抗はないわ。あなたはこどもと言うけど、今ならまだ、きっと、魂だって宿っていないわよ。――私、あなたの気持ちはわかるつもりよ」

 感極まったのか、デゼルがぼろっと涙を落とした。
 可哀相に、つらかったんだね。

「あり…がとう。じゃあ、お願いしてもいい?」
「任せて。ただ、苦しいのは覚悟して。確殺してみせるけど、子供を産めない身体になるからね? 終わったら、さっき、私に使ってくれた闇魔法で癒せるのよね?」
「……うん」

 僕には、何かできないのかな。
 そう思っていたら、デゼルが遠慮しながら、僕の袖をこそっとつかんだ。

「サイファ様、もし、私が途中で意識を失ったら、気つけをして欲しい。でも、こんなことに手を貸したくなかったら、マリベル様に頼むから」
「いや……僕がするよ」

 もしかして、デゼルはまだ、僕を闇主から解放するつもりなんじゃ。
 デゼルの命が懸かった仕事を、断って人任せになんて、僕がするはずないのに。
 そんなつもりなら――
 後でやっぱり、お仕置きかな。

「デゼル、覚悟はいい?」

 デゼルがこくんとうなずくと、ユリシーズが闇魔法の詠唱に入った。

「デゼルの胎の水よ血よ、我が心のくらき闇を種火に煮えたぎり、宿りし命を絶て!」

 ほとばしった、デゼルの絶叫。
 そんな、こどもを殺すって、なにも身体の内側から煮沸しなくても!

 僕はあやうく、ユリシーズを邪魔してしまうところだった。
 デゼルの涙と絶叫に、とてつもないショックを受けたんだ。
 こどもを殺すって、こんな、過酷な目に遭わないとならないの!?

 デゼルはすぐに気絶してしまって、でも、起こさないとならなくて。
 苦しませたくなくて、起こしたくない気持ちを懸命に叱咤した。
 デゼルの意識が戻らなくなったら、僕の癒術じゃ間に合わない。
 起こさないとデゼルの命に関わるんだ。

 どうして――
 デゼルがどうして、こんな過酷な目に遭わないとならないんだ。
 彼らにどんな事情があったって、許せない。

 よくも!

 僕の中で、優しい心のすべてを焼き尽くすように燃え上がった、この灼熱の感情を、憎しみって呼ぶのかもしれない。
 怒りのように激しいのに、重くて、揮発しない。
 漆黒の炎のよう。

 駄目だ、デゼルに癒術をかけられない。
 鎮めなきゃ。
 僕は闇主なんだ、最優先はデゼルを守ること。復讐は後でいい。

 後でいいけど、この炎はきっと、たやすく消えない。
 デゼルを死ぬより苦しめた、まがいものの闇主たち、ただではおかないから!
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