4 / 10
【第一部:背徳の蜜月】
第四章:心のひび割れ
しおりを挟む新宿のオフィスビル、午前十時。
志帆はデスクに向かいながら、無機質なExcelの表と格闘していた。
周囲では電話のベルが鳴り響き、コピー機の稼働音が低く唸っている。
三日前、隆とあのホテルで過ごした夜が嘘だったかのように、世界は平然と「いつも通り」を装っていた。
けれど、志帆の体はあの日を境に、決定的に変質していた。
キーボードを叩く指先に残る微かな痺れ。首筋に残った、隆の唇の熱い記憶。
それを隠すために、彼女は季節外れの薄いスカーフを巻いていた。
(今、このビルのどこかに、彼がいる……)
そう思うだけで、志帆の視界は色鮮やかに爆発しそうだった。
ふと、オフィスの自動ドアが開き、数人の男たちが入ってきた。
他部署との打ち合わせだろうか。
志帆は無意識に顔を上げた。
そこにいたのは隆ではなかったが、心臓が激しく波打ち、呼吸が浅くなるのを止められなかった。
自分が「秘密」を抱えているという事実は、志帆に奇妙な万能感と、同時に足元が崩れるような恐怖を与えていた。
昼休憩……
志帆は給湯室で加奈と二人きりになった。
「佐藤さん、やっぱり最近変わったわよね」
加奈が、コーヒーを淹れながら唐突に言った。
志帆は心臓が口から飛び出しそうになるのを、必死で抑えた。
「え……何が?」
「なんだか、艶っぽくなったっていうか。肌の色もいいし。……もしかして、健太さんとやり直すきっかけでもあったの?」
加奈の屈託のない言葉が、毒のように志帆の胸に回った。
「……そんなんじゃないわよ。ただ、少し睡眠を多めに取るようにしただけ」
志帆は自分の声が冷たく響くのを感じた。健太とやり直す? その言葉が、あまりにも遠い世界の出来事のように聞こえた。
夕方。
仕事の合間に、私用のスマートフォンが微かに震えた。
『今、エレベーターホールにいます。少しだけ、顔を見せてもらえませんか』
隆からのメール。
志帆は迷うことなく席を立った。
「ちょっと資料室に行ってきます」
嘘をつくことに、もはや躊躇いはなかった。
エレベーターホールは、西日に照らされてオレンジ色に染まっていた。
自動販売機の影に、隆が立っていた。彼は電話をしているふりをしながら、近づいてくる志帆の姿を捉えると、眼鏡の奥の瞳をわずかに和らげた。
「志帆さん……」
「隆さん、こんなところで危ないわ」
「分かっています。でも、一目だけでいいから、今の君を確認したかった」
隆は周囲を警戒しながらも、すれ違いざまに、志帆の手を力強く握った。
一瞬の接触。
けれど、そこにはあの夜の情熱の続きが、濃密に凝縮されていた。
「……今夜も、会いたい。でも、今日は無理ですよね」
「ええ……今日は、彼が早く帰るって」
健太の名前を出すとき、志帆の胸に、以前のような痛みはなかった。
あるのは、ただ「邪魔な予定」を確認するような、無機質な感覚だけだった。
帰宅すると、珍しく健太がキッチンに立っていた。
「おかえり。今日はパスタ作ったんだ。一緒に食べようと思って」
健太の言葉は、かつての志帆なら泣いて喜ぶような「歩み寄り」だった。
けれど、今の彼女にとって、それはあまりにもタイミングの悪い、不快なノイズでしかなかった。
「……ありがとう。でも、私、外で少し食べてきちゃった」
「え、そうなのか? せっかく作ったのに」
健太の顔に、明らかな落胆の色が浮かぶ。その表情を見て、志帆は心の底から冷ややかな感情を抱いた。
(今さら、そんな顔をされても遅いのよ。私が一人で泣いていた夜、あなたは一度だって振り返らなかったじゃない)
食卓に座る健太の隣で、志帆はワインを口にした。
「最近、仕事忙しいのか? スカーフなんて巻いて。風邪でも引いたか?」
健太の手が、志帆の首筋に伸びてきた。
志帆は反射的に、体を仰け反らせてその手を拒んだ。
「……触らないで。ちょっと、疲れてるの」
健太の手が、空中で止まった。
彼の目に、困惑と、そしてかすかな不信が宿る。
「……そうか。ごめん」
健太は黙々とパスタを口に運び始めた。
その咀嚼音が、志帆の神経を逆撫でする。
かつて愛したはずの男。
自分の苗字を半分分け合い、未来を誓ったはずの相手。
その男が、今ではただの「同居人」にすら思えない。
自分の神聖な肉体に触れることを許されない、異物のように感じられた。
隆に愛されたことで、志帆の体は健太を拒絶するように作り替えられてしまったのだ。
寝室に入り、背中を向けて眠る健太の隣で、志帆は暗闇の中にスマートフォンの光を灯した。
隆から、新しいメッセージが届いていた。
『おやすみなさい。夢の中で、君の首筋に触れています』
その言葉を読みながら、志帆は自分の体を抱きしめた。
健太の隣にいながら、心も、体も、すべては隆のものだった。
(ごめんなさい、健太。でも、私はもう、あなたの志帆じゃない)
暗闇の中で、志帆は一人、静かに微笑んだ。
自分の中に育ち始めた「嘘」が、毒花のように美しく開花していくのを感じていた。
日常の亀裂は、もう修復不可能なほどに深く、暗く、彼女を飲み込もうとしていた。
0
あなたにおすすめの小説
『愛が切なくて』- すれ違うほど哀しくて
設楽理沙
恋愛
砂央里と斎藤、こじれてしまった糸(すれ違い)がほどけていく様子を描いています。
◆都合上、[言う、云う]混合しています。うっかりミスではありません。
ご了承ください。
斉藤准一 税理士事務所勤務35才
斎藤紀子 娘 7才
毒妻: 斉藤淳子 専業主婦 33才 金遣いが荒い
高橋砂央里 会社員 27才
山本隆行 オートバックス社員 25才
西野秀行 薬剤師 22才
岡田とま子 主婦 54才
深田睦子 見合い相手 22才
―――――――――――――――――――――――
❧イラストはAI生成画像自作
2025.3.3 再☑済み😇
6年分の遠回り~いまなら好きって言えるかも~
霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
私の身体を揺らす彼を、下から見ていた。
まさかあの彼と、こんな関係になるなんて思いもしない。
今日は同期飲み会だった。
後輩のミスで行けたのは本当に最後。
飲み足りないという私に彼は付き合ってくれた。
彼とは入社当時、部署は違ったが同じ仕事に携わっていた。
きっとあの頃のわたしは、彼が好きだったんだと思う。
けれど仕事で負けたくないなんて私のちっぽけなプライドのせいで、その一線は越えられなかった。
でも、あれから変わった私なら……。
******
2021/05/29 公開
******
表紙 いもこは妹pixivID:11163077
15年目のホンネ ~今も愛していると言えますか?~
深冬 芽以
恋愛
交際2年、結婚15年の柚葉《ゆずは》と和輝《かずき》。
2人の子供に恵まれて、どこにでもある普通の家族の普通の毎日を過ごしていた。
愚痴は言い切れないほどあるけれど、それなりに幸せ……のはずだった。
「その時計、気に入ってるのね」
「ああ、初ボーナスで買ったから思い出深くて」
『お揃いで』ね?
夫は知らない。
私が知っていることを。
結婚指輪はしないのに、その時計はつけるのね?
私の名前は呼ばないのに、あの女の名前は呼ぶのね?
今も私を好きですか?
後悔していませんか?
私は今もあなたが好きです。
だから、ずっと、後悔しているの……。
妻になり、強くなった。
母になり、逞しくなった。
だけど、傷つかないわけじゃない。
元カノと復縁する方法
なとみ
恋愛
「別れよっか」
同棲して1年ちょっとの榛名旭(はるな あさひ)に、ある日別れを告げられた無自覚男の瀬戸口颯(せとぐち そう)。
会社の同僚でもある二人の付き合いは、突然終わりを迎える。
自分の気持ちを振り返りながら、復縁に向けて頑張るお話。
表紙はまるぶち銀河様からの頂き物です。素敵です!
届かぬ温もり
HARUKA
恋愛
夫には忘れられない人がいた。それを知りながら、私は彼のそばにいたかった。愛することで自分を捨て、夫の隣にいることを選んだ私。だけど、その恋に答えはなかった。すべてを失いかけた私が選んだのは、彼から離れ、自分自身の人生を取り戻す道だった·····
◆◇◆◇◆◇◆
読んでくださり感謝いたします。
すべてフィクションです。不快に思われた方は読むのを止めて下さい。
ゆっくり更新していきます。
誤字脱字も見つけ次第直していきます。
よろしくお願いします。
愛のかたち
凛子
恋愛
プライドが邪魔をして素直になれない夫(白藤翔)。しかし夫の気持ちはちゃんと妻(彩華)に伝わっていた。そんな夫婦に訪れた突然の別れ。
ある人物の粋な計らいによって再会を果たした二人は……
情けない男の不器用な愛。
地味な私を捨てた元婚約者にざまぁ返し!私の才能に惚れたハイスペ社長にスカウトされ溺愛されてます
久遠翠
恋愛
「君は、可愛げがない。いつも数字しか見ていないじゃないか」
大手商社に勤める地味なOL・相沢美月は、エリートの婚約者・高遠彰から突然婚約破棄を告げられる。
彼の心変わりと社内での孤立に傷つき、退職を選んだ美月。
しかし、彼らは知らなかった。彼女には、IT業界で“K”という名で知られる伝説的なデータアナリストという、もう一つの顔があったことを。
失意の中、足を運んだ交流会で美月が出会ったのは、急成長中のIT企業「ホライゾン・テクノロジーズ」の若き社長・一条蓮。
彼女が何気なく口にした市場分析の鋭さに衝撃を受けた蓮は、すぐさま彼女を破格の条件でスカウトする。
「君のその目で、俺と未来を見てほしい」──。
蓮の情熱に心を動かされ、新たな一歩を踏み出した美月は、その才能を遺憾なく発揮していく。
地味なOLから、誰もが注目するキャリアウーマンへ。
そして、仕事のパートナーである蓮の、真っ直ぐで誠実な愛情に、凍てついていた心は次第に溶かされていく。
これは、才能というガラスの靴を見出された、一人の女性のシンデレラストーリー。
数字の奥に隠された真実を見抜く彼女が、本当の愛と幸せを掴むまでの、最高にドラマチックな逆転ラブストーリー。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
