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【第一部:背徳の蜜月】
第四章:心のひび割れ
新宿のオフィスビル、午前十時。
志帆はデスクに向かいながら、無機質なExcelの表と格闘していた。
周囲では電話のベルが鳴り響き、コピー機の稼働音が低く唸っている。
三日前、隆とあのホテルで過ごした夜が嘘だったかのように、世界は平然と「いつも通り」を装っていた。
けれど、志帆の体はあの日を境に、決定的に変質していた。
キーボードを叩く指先に残る微かな痺れ。首筋に残った、隆の唇の熱い記憶。
それを隠すために、彼女は季節外れの薄いスカーフを巻いていた。
(今、このビルのどこかに、彼がいる……)
そう思うだけで、志帆の視界は色鮮やかに爆発しそうだった。
ふと、オフィスの自動ドアが開き、数人の男たちが入ってきた。
他部署との打ち合わせだろうか。
志帆は無意識に顔を上げた。
そこにいたのは隆ではなかったが、心臓が激しく波打ち、呼吸が浅くなるのを止められなかった。
自分が「秘密」を抱えているという事実は、志帆に奇妙な万能感と、同時に足元が崩れるような恐怖を与えていた。
昼休憩……
志帆は給湯室で加奈と二人きりになった。
「佐藤さん、やっぱり最近変わったわよね」
加奈が、コーヒーを淹れながら唐突に言った。
志帆は心臓が口から飛び出しそうになるのを、必死で抑えた。
「え……何が?」
「なんだか、艶っぽくなったっていうか。肌の色もいいし。……もしかして、健太さんとやり直すきっかけでもあったの?」
加奈の屈託のない言葉が、毒のように志帆の胸に回った。
「……そんなんじゃないわよ。ただ、少し睡眠を多めに取るようにしただけ」
志帆は自分の声が冷たく響くのを感じた。健太とやり直す? その言葉が、あまりにも遠い世界の出来事のように聞こえた。
夕方。
仕事の合間に、私用のスマートフォンが微かに震えた。
『今、エレベーターホールにいます。少しだけ、顔を見せてもらえませんか』
隆からのメール。
志帆は迷うことなく席を立った。
「ちょっと資料室に行ってきます」
嘘をつくことに、もはや躊躇いはなかった。
エレベーターホールは、西日に照らされてオレンジ色に染まっていた。
自動販売機の影に、隆が立っていた。彼は電話をしているふりをしながら、近づいてくる志帆の姿を捉えると、眼鏡の奥の瞳をわずかに和らげた。
「志帆さん……」
「隆さん、こんなところで危ないわ」
「分かっています。でも、一目だけでいいから、今の君を確認したかった」
隆は周囲を警戒しながらも、すれ違いざまに、志帆の手を力強く握った。
一瞬の接触。
けれど、そこにはあの夜の情熱の続きが、濃密に凝縮されていた。
「……今夜も、会いたい。でも、今日は無理ですよね」
「ええ……今日は、彼が早く帰るって」
健太の名前を出すとき、志帆の胸に、以前のような痛みはなかった。
あるのは、ただ「邪魔な予定」を確認するような、無機質な感覚だけだった。
帰宅すると、珍しく健太がキッチンに立っていた。
「おかえり。今日はパスタ作ったんだ。一緒に食べようと思って」
健太の言葉は、かつての志帆なら泣いて喜ぶような「歩み寄り」だった。
けれど、今の彼女にとって、それはあまりにもタイミングの悪い、不快なノイズでしかなかった。
「……ありがとう。でも、私、外で少し食べてきちゃった」
「え、そうなのか? せっかく作ったのに」
健太の顔に、明らかな落胆の色が浮かぶ。その表情を見て、志帆は心の底から冷ややかな感情を抱いた。
(今さら、そんな顔をされても遅いのよ。私が一人で泣いていた夜、あなたは一度だって振り返らなかったじゃない)
食卓に座る健太の隣で、志帆はワインを口にした。
「最近、仕事忙しいのか? スカーフなんて巻いて。風邪でも引いたか?」
健太の手が、志帆の首筋に伸びてきた。
志帆は反射的に、体を仰け反らせてその手を拒んだ。
「……触らないで。ちょっと、疲れてるの」
健太の手が、空中で止まった。
彼の目に、困惑と、そしてかすかな不信が宿る。
「……そうか。ごめん」
健太は黙々とパスタを口に運び始めた。
その咀嚼音が、志帆の神経を逆撫でする。
かつて愛したはずの男。
自分の苗字を半分分け合い、未来を誓ったはずの相手。
その男が、今ではただの「同居人」にすら思えない。
自分の神聖な肉体に触れることを許されない、異物のように感じられた。
隆に愛されたことで、志帆の体は健太を拒絶するように作り替えられてしまったのだ。
寝室に入り、背中を向けて眠る健太の隣で、志帆は暗闇の中にスマートフォンの光を灯した。
隆から、新しいメッセージが届いていた。
『おやすみなさい。夢の中で、君の首筋に触れています』
その言葉を読みながら、志帆は自分の体を抱きしめた。
健太の隣にいながら、心も、体も、すべては隆のものだった。
(ごめんなさい、健太。でも、私はもう、あなたの志帆じゃない)
暗闇の中で、志帆は一人、静かに微笑んだ。
自分の中に育ち始めた「嘘」が、毒花のように美しく開花していくのを感じていた。
日常の亀裂は、もう修復不可能なほどに深く、暗く、彼女を飲み込もうとしていた。
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