パンドラの予知

花野未季

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その二

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 月日は流れ明治四十二年、六月半ばのこと。
 そろそろ梅雨に入る時季、大阪市内は、ここ数日雨続きであった。
 興福楼の二階、芸妓たちの住処すみかである八畳の間の窓辺に座って、雨模様をぼんやり眺めていた小寅が、少女の友雑誌を寝そべって読んでいる梅に話しかけてきた。

「お梅ちゃん、そろそろ支度の時間やけど、今日はお座敷ないの?」
「へえ。実は今、ウチの姉が岡山から帰って来てますんや。なんやしらんけど体の具合が良うないとかで、お休みもろてるて。けど、特に病気いうんでもないみたいやさかい、夕方にここに遊びに来るんです。それでウチも今日お休み貰うて。おとうはんも『あんじょうしてやりや』言うてくれて」
「そうか。それはそら楽しみやな。お梅ちゃんのお姉さんやったら、綺麗な子なんやろなあ」

 興味津々で尋ねる小寅も、今日は月のもので具合が悪く、休みを取っている。
 彼女は梅より三歳上で、地方じかた専門の芸妓であった。まだ若い彼女が演奏専門に回ったのは、早い話が見た目である。大柄で筋肉質の彼女は、およそ色気とはほど遠かった。
 文字通り、名は体を表すといった彼女だが、気の優しい芸達者ななので、人気はあった。

「小寅ちゃん、お梅ちゃん、ちょっと降りてきて」
 階下から、下働きの小まんこまんの声がする。
 小まんは長らく興福楼の芸妓であったが、歳を取り引退してから、裏方となって芸妓たちの衣食住全般の面倒を見ている。近所に甥が住んでいて、普段はそこで暮らしているが、時々は興福楼で寝泊まりすることもあった。

「小まんさん、何? 」
 小寅はきびきびと階段を降りて行き、階段途中で小まんに呼びかけた。
旦さんだんさんがな、今日は料理屋でご馳走を取りましょう、言うてはりまんのや。あんたらは何がええ? 高いもんでもかめしまへん、言うてくれてるけど」

「ほんま?」
 嬉しそうに言う小寅に被せるように、彼女の後ろから、「ウチの姉の分もええんですか?」と尋ねる梅に、小まんが微笑む。
「せやさかい、言うてはりますのや。せっかくお梅の姉さんがはるばる遊びに来るんやから、ご馳走してやらんとって」

 梅と小寅は顔を見合わせて、キャッキャとはしゃぐ。
「それやったら、ウチはライスカレーがええなあ。あと、カツレツ」
「小寅ねえさん、そないに食べはりまんの。せやったら、ウチも海老フライとカツレツ両方食べてみたいなあ。まだそんなご馳走食べたことないよって。米ちゃんも同じものがええかな」

 うきうきと言ってから、梅は優しい心遣いをしてくれる養父に礼の一つでも、と思いたった。
 そこで、彼女は一階の最奥にある養父の部屋へと足を運んだ。一階は客座敷が二間、そして庄三郎と初子の住まい、台所、といった間取りである。

 暑いのに、親子の部屋は閉め切ってあった。
「おとうはん」
 外から声をかけて養父の返事を待つ。
 しばらくして、「なんや?」と、穏やかだがぶっきらぼうな庄三郎の返事があった。

「お邪魔します」
 障子を開けた梅は、彼の姿を見て驚き、しばらく中に入るのを躊躇した。

 庄三郎は日本刀を手入れしていた。
 着物を片肌脱ぎで、口には半紙を銜えくわえ、てるてる坊主のような物で、ぽんぽんと何やら白い粉を刀身にはたきかけている。

「どないした? 何ぞ用事か?」
 庄三郎が半紙で抜き身を拭っていくと、日本刀は艶々した輝きを放ち始めた。初めて見る本物の刀の輝きと、手入れの作業に見惚れてしまっていた梅は、庄三郎の言葉にハッとなって、そこで正座してお辞儀した。

「今日は無理言うて、すんまへん。せやのに、ご馳走まで気い遣てつこてもろて。おおきに」
「なんや、そんなことか。お前は大事な興福楼のこぉや。そのお前の姉さんいうたら、うちの子も同じやろ。今日はご馳走食うて、湯にも浸かって。積もる話もぎょうさんあるやろ、小寅と美松は違う部屋に寝てもろたらええ。明日の朝もゆっくりでええで」

 刀を自分の顔の前に立てて、矯めつ眇めつためつすがめつする庄三郎は、言葉の優しさとは裏腹に、厳しい顔つきであった。
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