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その七
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まだ箱を抱えた状態だった梅が、放心状態で蓋を閉じようとうつむいた瞬間であった。
箱を持つ手に温かい空気が触れた。
べたっという感触が梅の両腕を這って、首に巻きつき、顔を撫でさすり、頭上までかけ上がる。
一瞬のことであったが、気持ち悪い何かが、自分の体に入り込もうとしたのを梅は感じた。もっと言えば、何かが入り込もうとする強い意志を感じたのである。悪寒が走る。
梅は、ぱたんと蓋を閉じ、先ほどから頭の隅で疑問だったことを米に尋ねた。
「なあ、米ちゃん。米ちゃんのことを好きな人、名前なんやった? その人は、なんで空っぽの箱なんか、お土産にくれたん?」
「え? ああ、名前は児島正三郎さん、いうんやけど」
「“しょうざぶろう” 、おとうはんと同じ名前や」
「そうなんか。まあ、珍しい名前やないしな。そんでなあ、児島さんが言うには、『今は空っぽの箱やけど、いずれは君に沢山の宝石や装飾品を贈って、この箱をいっぱいにします』やて。変やろ」
(変ですって? そんなことを言うてくれる人など中々おらん。ええなあ、羨ましすぎて気ぃ悪い。なんやむかむかする)
梅の心は、不意に黒い感情に支配された。
(児島さんいう人に比べて、米ちゃんがその人のことを、さほど好いてはいない様子も気に入らん。もちろん嫌いではないやろし、むしろ憎からず思てんのかもしれへんけど。そもそも児島さんて、どんな人なんやろ)
好奇心や、米を困らせてやろうという感情も芽生えてきた。
「米ちゃん、これはウチが今から返して来てあげよか?」
唐突な梅の言葉に、米が訝しげに返事する。
「え? 梅ちゃんが? 急にどないしたん?」
「どこで待ち合わせしてんの? ウチが返してきてあげる。米ちゃんは、その人に会いとうないんやろ?」
気負い込んで言う梅の迫力に押され、米はうなずいた。
「米ちゃんそっくりのウチが精一杯おめかしして行ったら、その人、びっくりするやろなあ」
「おめかし? まさか芸妓さんの姿で会いに行くんちゃうよねえ」
米に言われ、梅はうっと言葉に詰まる。
「芸妓さんが来たら、児島さんはどない思いはるやろ」
米の物言いは遠慮がちだが、言っている内容は辛辣なものであった。
梅が黙り込んだのを見て、米はあわてた。
「も、もちろん、梅ちゃんみたいなきれいな芸妓さんがおめかしして来たら、誰でも嬉しいやろうと思うわ。それに引き換え、ウチなんか何着ても貧乏臭いし、ええ着物も持ってないけど」
そんなふうに取り繕う米の風呂敷包みに、垢抜けた薄水色の絽の着物が入っているのを梅はめざとく見つけた。
梅の視線に気づいた米が、弁解するように言う。
「辞める時、工場からお金と一緒に貰た反物で作ったんや」
梅は、いろんな思いが彼女の心中でごった煮になって、どす黒い渦を巻いている気がした。
さっきわかったことだが、米は、梅が『芸妓』という職業に就いていることを、腹の底では馬鹿にしていたのだ。もしかしたら米ちゃんが芸妓で、ウチのほうが女工だったかもしれんのに。
目の前におる米ちゃんが、実は興福楼の梅で、ウチこそ米ちゃんなんかもしれんのに!
さっきからずっと、梅と米の間には気まずい空気が流れている。
今まで二人は、こんな風になってしまったことは一度もなかった。軽い口喧嘩をすることはあっても、誤解はすぐに解けて、引きずることもない。
何故なら、お互いがお互いを大事に思っているという、その一点が絶対的な共通項として存在しているからだ。
だから、互いの腹の底はわかっているし、気持ちも理解できた。
なのに今は、梅の心の内を見透かすことができずにいる米と、見せまいとする梅の間で綱引きをしている気分だ。
「米ちゃん、ウチ、そのお召し着て行ってええか?」
梅の問いに、米はどう答えようか、視線を彷徨わせている。
「ええな?」
ダメ押しする梅の低い声に、米はこくんと頷いてしまった。
箱を持つ手に温かい空気が触れた。
べたっという感触が梅の両腕を這って、首に巻きつき、顔を撫でさすり、頭上までかけ上がる。
一瞬のことであったが、気持ち悪い何かが、自分の体に入り込もうとしたのを梅は感じた。もっと言えば、何かが入り込もうとする強い意志を感じたのである。悪寒が走る。
梅は、ぱたんと蓋を閉じ、先ほどから頭の隅で疑問だったことを米に尋ねた。
「なあ、米ちゃん。米ちゃんのことを好きな人、名前なんやった? その人は、なんで空っぽの箱なんか、お土産にくれたん?」
「え? ああ、名前は児島正三郎さん、いうんやけど」
「“しょうざぶろう” 、おとうはんと同じ名前や」
「そうなんか。まあ、珍しい名前やないしな。そんでなあ、児島さんが言うには、『今は空っぽの箱やけど、いずれは君に沢山の宝石や装飾品を贈って、この箱をいっぱいにします』やて。変やろ」
(変ですって? そんなことを言うてくれる人など中々おらん。ええなあ、羨ましすぎて気ぃ悪い。なんやむかむかする)
梅の心は、不意に黒い感情に支配された。
(児島さんいう人に比べて、米ちゃんがその人のことを、さほど好いてはいない様子も気に入らん。もちろん嫌いではないやろし、むしろ憎からず思てんのかもしれへんけど。そもそも児島さんて、どんな人なんやろ)
好奇心や、米を困らせてやろうという感情も芽生えてきた。
「米ちゃん、これはウチが今から返して来てあげよか?」
唐突な梅の言葉に、米が訝しげに返事する。
「え? 梅ちゃんが? 急にどないしたん?」
「どこで待ち合わせしてんの? ウチが返してきてあげる。米ちゃんは、その人に会いとうないんやろ?」
気負い込んで言う梅の迫力に押され、米はうなずいた。
「米ちゃんそっくりのウチが精一杯おめかしして行ったら、その人、びっくりするやろなあ」
「おめかし? まさか芸妓さんの姿で会いに行くんちゃうよねえ」
米に言われ、梅はうっと言葉に詰まる。
「芸妓さんが来たら、児島さんはどない思いはるやろ」
米の物言いは遠慮がちだが、言っている内容は辛辣なものであった。
梅が黙り込んだのを見て、米はあわてた。
「も、もちろん、梅ちゃんみたいなきれいな芸妓さんがおめかしして来たら、誰でも嬉しいやろうと思うわ。それに引き換え、ウチなんか何着ても貧乏臭いし、ええ着物も持ってないけど」
そんなふうに取り繕う米の風呂敷包みに、垢抜けた薄水色の絽の着物が入っているのを梅はめざとく見つけた。
梅の視線に気づいた米が、弁解するように言う。
「辞める時、工場からお金と一緒に貰た反物で作ったんや」
梅は、いろんな思いが彼女の心中でごった煮になって、どす黒い渦を巻いている気がした。
さっきわかったことだが、米は、梅が『芸妓』という職業に就いていることを、腹の底では馬鹿にしていたのだ。もしかしたら米ちゃんが芸妓で、ウチのほうが女工だったかもしれんのに。
目の前におる米ちゃんが、実は興福楼の梅で、ウチこそ米ちゃんなんかもしれんのに!
さっきからずっと、梅と米の間には気まずい空気が流れている。
今まで二人は、こんな風になってしまったことは一度もなかった。軽い口喧嘩をすることはあっても、誤解はすぐに解けて、引きずることもない。
何故なら、お互いがお互いを大事に思っているという、その一点が絶対的な共通項として存在しているからだ。
だから、互いの腹の底はわかっているし、気持ちも理解できた。
なのに今は、梅の心の内を見透かすことができずにいる米と、見せまいとする梅の間で綱引きをしている気分だ。
「米ちゃん、ウチ、そのお召し着て行ってええか?」
梅の問いに、米はどう答えようか、視線を彷徨わせている。
「ええな?」
ダメ押しする梅の低い声に、米はこくんと頷いてしまった。
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