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魔法少女、本契約。
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魔法少女、本契約。
案内者《チューター》のミニパンダは、それから二ヵ月ほどして、神凪心寧の前に再び現れた。
「思ったより早かったわね」
陽の落ちる前までにと飛んできたと思われるパンダを部屋に入れ、心寧は感心する。何しろ、魔法界とやらの規律をホワイト企業並みには正して出直して来いと言ったのだ。一朝一夕で出来るものではない。
「君がそう言うから、魔法省はてんやわんやだったよ……。僕もほんと疲れ……ぐぅ」
「疲れたのは分かるけど、いきなり寝ないでくれるかしら」
「こ、これを見てくれれば分かるよ。新しい契約書。就業規則。報酬と手当、保険契約。全部、揃えて来た。出来る限り。君のお眼鏡にかなうかな?」
ミニパンダは、心寧に書類だけを震える手で渡すと、死んだように眠ってしまった。
「本当にしっかり作ってきたのね……」
心寧は、大人でもあまり読みたがらないような契約書に目を通していく。労働時間、残業。転勤の有無、報酬、所属(魔法省魔法少女課というところらしい)、一応急ごしらえではあったのかもしれないが、全て揃っていた。中には保険加入内容や、報酬は魔法界ならではで不明なところもあったが、ミニパンダから説明を受けて問題なければ、契約しても良さそうな内容ではあった。
三十分ほどすると、ミニパンダは目を醒ました。
「ハッ! 僕寝てた? ごめん!」
「いいわよ。私が要求したことだから。揃ってる書類には目を通したわ。印鑑が要るところには押印済よ。それから、こちらの世界と違っているので、分からないところがあるんだけど」
「何だい? 何でも聞いて」
「えっと、この保険加入内容と、報酬ね。保険は、社会保険じゃないのね」
「うん、会社が魔法界にあるから、人間界の保険には入れないんだ。だから、魔法界所属の魔法少女は向こうで公務員にあたる。それで一番有名な魔法団体所属保険に入ることになるよ。約款も持ってきたけど、目を通す?」
頷き、心寧は約款を読み込む。なるほど、魔法団体所属保険は、こちらでいう健康保険、生命保険、社会保険などを全て内包したものらしい。ある一定の額を支払い、保障は一括でそこから受け取る仕組みになっているようだ。怪我をしたときなども、そちらから支払いがあるようだった。
「報酬は?」
「報酬は、人間界の口座に入れるわけにもいかないから、魔法界の銀行に入れられることになる。それは大丈夫?」
「まぁ、出来たらこっちの銀行の方がいいけれど。変にお金が溜まっているのを家族に見られたら困るわよね。仕方ないか。銀行がどういうふうになっているのか後で教えて」
「銀行はあまりこちらと違いはないよ。口座も開かないといけないだろう。知り合いに頼んでおいたから口座の開設もしてくれる?」
「分かったわ」
あまりに事務的なやり取りだった。しかし、心寧は言う。
「こういう、一見地味~なやり取りがいかに大切かってよく分かるわ」
「心寧は時々小学生には思えないようなことを言うね」
子供部屋のローテーブルに片腕だけ突っ伏したような心寧は、ゆっくりと起き上がる。陽が落ちる前の部屋に、不吉な朱色が射した。部屋全体を赤く染め上げる。
「勉強したもの」
「自分を守るために?」
心寧は神妙な顔つきで頭を振った。
「――いいえ。ちょうど良いわ。明日金曜よね。学校が終わってから行くところがあるから、貴方も一度来てみる?」
「心寧?」
ミニパンダはよく分からず首を傾げる。
「案内したいところがあるの。――来れば、分かるわ」
***
翌日。ミニパンダと放課後、学校で待ち合わせをした心寧は迎えに来た親の車へと乗りこんだ。金曜日はこうして車に乗って帰ることが既に日常となっていた。
「どこへ行くの?」
ミニパンダが尋ねても、両親が一緒だ。心寧は黙って首を振る。着けば分かるので黙っていろということなのだろう。
車が滑り込んだ先は、県内でも有数の大病院だった。白い壁面に圧倒される。一見しただけでも幾つもの病棟がありそうだ。駐車場に車を停めると両親と連れ立って、慣れたように病院の中を通る。ナースセンターへ父母が挨拶を済ませると、看護師が付き添った。
「桃寧さん、今日は少し朝ごはんを食べられたんですよ。若干の回復がみられます。まだ先は長いかもしれませんが」
「そうでしたか、ありがとうございます」
202号室。看護師が開いた扉の先には、一人の女性が横たわっていた。
「桃寧?」
心寧の母が呼びかけるが、眠っているようだ。
「あら。寝ちゃったのかしら。さっきまで起きていたのにね」
燦々と照る陽の光を遮るように、看護師はカーテンを閉める。部屋の中は薄暗くなる。
心寧は心配そうな顔つきで一歩進み出た。
「お姉ちゃん……」
心寧とはかなり歳が離れていそうではあるが、姉妹であることが分かる。顔立ちも似ていた。元々は可愛らしいふっくらとした頬の女性であった面影はある。しかし、横たわる桃寧と呼びかけられた女性は痩せ細っていた。頬はこけ、髪や肌艶もあまりない。薄い身体は、ガリガリに近く、病なのだと分かる。
「桃寧……」
父や母もしばらくその身体が呼吸で上下するさまを見つめていたが、五分ほど経つと誰ともなく立ち上がった。
「行きましょうか。桃寧寝ているみたいだから」
父や母は金曜以外にも病院に来ているので、また次は起きているのだろうと言って病室のパイプ椅子を片付ける。心寧だけは金曜に連れてきてもらうだけなので、幾分名残惜しそうに席を立った。
「お姉ちゃん、また来るからね」
そう小さく呼びかけると、病室を出る。
「おや、神凪さん?」
病室の扉を閉めると、主治医が丁度通りがかったところだった。眼鏡をかけた美丈夫。性格も明るい主治医は病院内でも皆から好かれている様子だ。
「院瀬見先生。お世話になっております」
両親がお辞儀をするのに合わせて、心寧も軽く会釈した。
「心寧ちゃん。やっぱり桃寧ちゃんに似てきたね」
にこにこと院瀬見は屈託のない笑みで心寧に笑いかけた。心寧ももう小学五年生だ。徐々に大人びてくる様子が、たまに会う院瀬見にはよく分かるのだろうか。
黒髪にスクエア型の眼鏡という地味な出で立ちであるのに、どこか目を惹かれてしまう不思議な雰囲気を持つ医師だ。
「桃寧、寝ていましたが普段の様子はどうでしょうか」
「なかなか簡単には快方へ向かうことは難しいようですが、その代り急激に体調が下降することもないようです。何か元気になれるようなきっかけがあればと思いますが……。今はじっくり診ていくときなのかもしれません。看護師は付き添っているので、ご安心ください。もう少し元気になれば、外に車椅子で散歩に出ることも視野に入れていますよ」
決して誤魔化したりすることはなく、院瀬見は真摯に応対する。
「院瀬見先生、いつもありがとうございます。また妻や私も様子を見に来ますので、桃寧をよろしくお願いします」
心寧の父は院瀬見に丁寧に礼をした。
「いえいえ。僕たちも桃寧ちゃんに元気になって貰えるよう、出来ることは全てするつもりです」
ソツのない応対は、院瀬見が患者に好かれる所以だろうか。夕方の朱色の日射しが、病院の廊下を染め上げる。
「さ、行こうか。心寧」
心寧は黙って事の成り行きを見守っていた。特に子どもの心寧から、主治医の院瀬見に何を言うわけにもいかない。
「またね、心寧ちゃん」
ばいばいと、気さくに院瀬見は心寧に手を振った。少し地味だが、子どもに優しく患者にも親切な院瀬見はきっと女性にも人気があるのだろう。心寧はそんなふうに思いながら、桃寧の主治医に手を振った。
あとは家に帰るだけだ。長い病院の廊下歩いていると、その短時間で夜の帳が下りてくる。辺りは一足飛びに暗くなった。
ミニパンダは大人しく心寧の鞄の縁に付いてキーホルダーの振りをしていたが、正面玄関でスーツの男とすれ違う際、魂が無くなったようにぽとりと床に落ちた。心寧はそれに気づかない。
「お嬢さん、落ちましたよ」
すれ違ったスーツの男が、心寧を呼び止めた。
「え?」
榛色の髪は染めたふうでもない自然な色合いだ。日本人ではないのかもしれない。瞳はアイスブルーだった。心寧もテレビで見たことがある。雄大な氷や雪に囲まれた自然の名所。晴れた空に、そびえ立つような氷の峡谷。見上げた谷の雪影は、何故か皆澄んだアイスブルーをしている。男の瞳はそれらを閉じ込めたような色をしていた。仕立ての良い真っ黒なスーツが、男に似合っていた。
心寧を呼び止めると男は恭しく片膝を着いた。心寧と同じ目線に屈む。
「レディの落とし物です。大切なものみたいだから気を付けて」
柔らかな声音だった。心寧は突然のことに驚いて声が出ない。白魚のような手がマスコットと化したミニパンダを差し出してくる。
「あり、がとうございます……」
こんなに女性として丁寧に扱われたことはなかった。何と言っても小学五年生だ。店の人にもまだまだ子ども扱いしかされたことはない。一人前の「淑女」として扱われることは、皆無と言ってもいい。そんなものだから、心寧は自分の顔が熱くなっているのが分かった。
心寧が御礼を言って受け取ると、にっこりとまるで王子様のような笑みを湛えて、またね、と男は立ち上がる。
「若、お時間が」
付き添いの男性がスケジュールが押しているのか、男を急かした。
「分かっている」
男はすっと厳しい表情に戻った。しかし心寧が見上げているのに気づくと、ばいばい、と手を振ってその場をあとにした。
「心寧? 落とし物しちゃった? 気を付けなさいよ~、でも格好良い殿方だったわね。童話から抜け出た王子様みたい」
心寧の母も心なしかうっとりしている。
「うん、大丈夫。行こ」
心寧は、確かにあの男が格好良いと思った。そして出来ればまた逢いたいと感じた。心寧もやはりまだ小さな女の子なのだ。それと同時に、違和感を感じてもいた。あの男にどこか見覚えがある。それは、知っているのに忘れた、ということではなく、心寧に何となく既視感がある、見たことがある、という曖昧なものに過ぎなかった。顔というよりは、あの男にとても似た人を知っている。それなのに、誰か思い出せない。
(何だろ、惚れちゃったのかしら)
もしかしたらこういう気持ちが恋というのかもしれない、そんなことを考えている間に、家に着いていた。
***
部屋に戻ると、魂を抜かれたようにぬいぐるみ化していたミニパンダ(心寧の両親に気付かれないためかもしれないが)が息を吹き返した。心寧の部屋の中を飛び回る。
「心寧!」
「もう喋って大丈夫よ。病院で見舞った人は、私のお姉ちゃん。……お姉ちゃんは、大学卒業後に新卒で入った会社がブラック企業で、心身共に疲れ果てて倒れたの。以来、あれからずっと入院しているの。もう一年になるけれど、眠ってばかりで殆ど目を開けていない。院瀬見先生は、身体は段々元気になっているって言うんだけれど、心は……。お姉ちゃんが大変な仕事してるって分かってた。でも、私には止めてあげられなかった。何も分かってなかったから、子どもの私には口が出せなかったの。でも、お姉ちゃんが倒れて入院してから、私も勉強しなきゃいけないって思ったの。知っていれば、お姉ちゃんの働き方がおかしいこと、法律に則っていないこと、すぐに分かったのに。説得出来れば良かったって、ずっと、ずっとそのことばかり考えてる。今更どうしようもないけど、お姉ちゃんをあんなふうにした奴らを突き止めたい。私が色々勉強したのはそのせいよ。……どう? 驚いた?」
心寧はあどけない表情にシニカルな笑みを浮かべる。
「君のお姉さん、桃寧さんがブラック企業で身体を病んだことは分かったよ。だから、心寧に聞いておきたいんだけど、お姉さんの務めていた会社は分かるね?」
ミニパンダの様子がおかしい。切羽詰まった心寧より尚真剣な表情で語りかけてくる。
「一応名前は有名な会社よ。つつじコーポレーション。国内外に拠点を持つ大企業。その実態はただのブラック会社だけど」
「つつじコーポレーション……やっぱり……」
ミニパンダは短い腕を組んでうんうん唸っている。
「何? どうしたの一体。そういえば貴方病院に行った帰り、様子がおかしかったけれどどうしたの?」
突然マスコットのごとく電池が切れたように動かなくなったミニパンダを思い出し、心寧は問うた。
「あまりにも驚いて身動きが出来なくなったんだ。僕たちが追っているつつじコーポレーションは、魔法界でもブラック企業最大のお尋ね者でね。大企業ゆえに手出しが難しい、言わばブラック企業のラスボスみたいなものなんだ。多分、今の心寧の魔力じゃ太刀打ちできないだろう」
「そんな……」
心寧に構わず、ミニパンダは続ける。
「今日病院の正面玄関で逢った、見目の良い男がいただろう? あの男の名は、躑躅森氷人。あまり知られていないけれど、あの男は、君の天敵だ。つつじコーポレーションの御曹司。まだ社長が健在で殆ど表に顔を出したことはないけれど、間違いない。あの男が、君のお姉さんをどん底に突き落とした元凶だ」
心寧は、目を丸くして顔色を失くしていた。
案内者《チューター》のミニパンダは、それから二ヵ月ほどして、神凪心寧の前に再び現れた。
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「君がそう言うから、魔法省はてんやわんやだったよ……。僕もほんと疲れ……ぐぅ」
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ミニパンダは、心寧に書類だけを震える手で渡すと、死んだように眠ってしまった。
「本当にしっかり作ってきたのね……」
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三十分ほどすると、ミニパンダは目を醒ました。
「ハッ! 僕寝てた? ごめん!」
「いいわよ。私が要求したことだから。揃ってる書類には目を通したわ。印鑑が要るところには押印済よ。それから、こちらの世界と違っているので、分からないところがあるんだけど」
「何だい? 何でも聞いて」
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頷き、心寧は約款を読み込む。なるほど、魔法団体所属保険は、こちらでいう健康保険、生命保険、社会保険などを全て内包したものらしい。ある一定の額を支払い、保障は一括でそこから受け取る仕組みになっているようだ。怪我をしたときなども、そちらから支払いがあるようだった。
「報酬は?」
「報酬は、人間界の口座に入れるわけにもいかないから、魔法界の銀行に入れられることになる。それは大丈夫?」
「まぁ、出来たらこっちの銀行の方がいいけれど。変にお金が溜まっているのを家族に見られたら困るわよね。仕方ないか。銀行がどういうふうになっているのか後で教えて」
「銀行はあまりこちらと違いはないよ。口座も開かないといけないだろう。知り合いに頼んでおいたから口座の開設もしてくれる?」
「分かったわ」
あまりに事務的なやり取りだった。しかし、心寧は言う。
「こういう、一見地味~なやり取りがいかに大切かってよく分かるわ」
「心寧は時々小学生には思えないようなことを言うね」
子供部屋のローテーブルに片腕だけ突っ伏したような心寧は、ゆっくりと起き上がる。陽が落ちる前の部屋に、不吉な朱色が射した。部屋全体を赤く染め上げる。
「勉強したもの」
「自分を守るために?」
心寧は神妙な顔つきで頭を振った。
「――いいえ。ちょうど良いわ。明日金曜よね。学校が終わってから行くところがあるから、貴方も一度来てみる?」
「心寧?」
ミニパンダはよく分からず首を傾げる。
「案内したいところがあるの。――来れば、分かるわ」
***
翌日。ミニパンダと放課後、学校で待ち合わせをした心寧は迎えに来た親の車へと乗りこんだ。金曜日はこうして車に乗って帰ることが既に日常となっていた。
「どこへ行くの?」
ミニパンダが尋ねても、両親が一緒だ。心寧は黙って首を振る。着けば分かるので黙っていろということなのだろう。
車が滑り込んだ先は、県内でも有数の大病院だった。白い壁面に圧倒される。一見しただけでも幾つもの病棟がありそうだ。駐車場に車を停めると両親と連れ立って、慣れたように病院の中を通る。ナースセンターへ父母が挨拶を済ませると、看護師が付き添った。
「桃寧さん、今日は少し朝ごはんを食べられたんですよ。若干の回復がみられます。まだ先は長いかもしれませんが」
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202号室。看護師が開いた扉の先には、一人の女性が横たわっていた。
「桃寧?」
心寧の母が呼びかけるが、眠っているようだ。
「あら。寝ちゃったのかしら。さっきまで起きていたのにね」
燦々と照る陽の光を遮るように、看護師はカーテンを閉める。部屋の中は薄暗くなる。
心寧は心配そうな顔つきで一歩進み出た。
「お姉ちゃん……」
心寧とはかなり歳が離れていそうではあるが、姉妹であることが分かる。顔立ちも似ていた。元々は可愛らしいふっくらとした頬の女性であった面影はある。しかし、横たわる桃寧と呼びかけられた女性は痩せ細っていた。頬はこけ、髪や肌艶もあまりない。薄い身体は、ガリガリに近く、病なのだと分かる。
「桃寧……」
父や母もしばらくその身体が呼吸で上下するさまを見つめていたが、五分ほど経つと誰ともなく立ち上がった。
「行きましょうか。桃寧寝ているみたいだから」
父や母は金曜以外にも病院に来ているので、また次は起きているのだろうと言って病室のパイプ椅子を片付ける。心寧だけは金曜に連れてきてもらうだけなので、幾分名残惜しそうに席を立った。
「お姉ちゃん、また来るからね」
そう小さく呼びかけると、病室を出る。
「おや、神凪さん?」
病室の扉を閉めると、主治医が丁度通りがかったところだった。眼鏡をかけた美丈夫。性格も明るい主治医は病院内でも皆から好かれている様子だ。
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両親がお辞儀をするのに合わせて、心寧も軽く会釈した。
「心寧ちゃん。やっぱり桃寧ちゃんに似てきたね」
にこにこと院瀬見は屈託のない笑みで心寧に笑いかけた。心寧ももう小学五年生だ。徐々に大人びてくる様子が、たまに会う院瀬見にはよく分かるのだろうか。
黒髪にスクエア型の眼鏡という地味な出で立ちであるのに、どこか目を惹かれてしまう不思議な雰囲気を持つ医師だ。
「桃寧、寝ていましたが普段の様子はどうでしょうか」
「なかなか簡単には快方へ向かうことは難しいようですが、その代り急激に体調が下降することもないようです。何か元気になれるようなきっかけがあればと思いますが……。今はじっくり診ていくときなのかもしれません。看護師は付き添っているので、ご安心ください。もう少し元気になれば、外に車椅子で散歩に出ることも視野に入れていますよ」
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「院瀬見先生、いつもありがとうございます。また妻や私も様子を見に来ますので、桃寧をよろしくお願いします」
心寧の父は院瀬見に丁寧に礼をした。
「いえいえ。僕たちも桃寧ちゃんに元気になって貰えるよう、出来ることは全てするつもりです」
ソツのない応対は、院瀬見が患者に好かれる所以だろうか。夕方の朱色の日射しが、病院の廊下を染め上げる。
「さ、行こうか。心寧」
心寧は黙って事の成り行きを見守っていた。特に子どもの心寧から、主治医の院瀬見に何を言うわけにもいかない。
「またね、心寧ちゃん」
ばいばいと、気さくに院瀬見は心寧に手を振った。少し地味だが、子どもに優しく患者にも親切な院瀬見はきっと女性にも人気があるのだろう。心寧はそんなふうに思いながら、桃寧の主治医に手を振った。
あとは家に帰るだけだ。長い病院の廊下歩いていると、その短時間で夜の帳が下りてくる。辺りは一足飛びに暗くなった。
ミニパンダは大人しく心寧の鞄の縁に付いてキーホルダーの振りをしていたが、正面玄関でスーツの男とすれ違う際、魂が無くなったようにぽとりと床に落ちた。心寧はそれに気づかない。
「お嬢さん、落ちましたよ」
すれ違ったスーツの男が、心寧を呼び止めた。
「え?」
榛色の髪は染めたふうでもない自然な色合いだ。日本人ではないのかもしれない。瞳はアイスブルーだった。心寧もテレビで見たことがある。雄大な氷や雪に囲まれた自然の名所。晴れた空に、そびえ立つような氷の峡谷。見上げた谷の雪影は、何故か皆澄んだアイスブルーをしている。男の瞳はそれらを閉じ込めたような色をしていた。仕立ての良い真っ黒なスーツが、男に似合っていた。
心寧を呼び止めると男は恭しく片膝を着いた。心寧と同じ目線に屈む。
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柔らかな声音だった。心寧は突然のことに驚いて声が出ない。白魚のような手がマスコットと化したミニパンダを差し出してくる。
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こんなに女性として丁寧に扱われたことはなかった。何と言っても小学五年生だ。店の人にもまだまだ子ども扱いしかされたことはない。一人前の「淑女」として扱われることは、皆無と言ってもいい。そんなものだから、心寧は自分の顔が熱くなっているのが分かった。
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付き添いの男性がスケジュールが押しているのか、男を急かした。
「分かっている」
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心寧の母も心なしかうっとりしている。
「うん、大丈夫。行こ」
心寧は、確かにあの男が格好良いと思った。そして出来ればまた逢いたいと感じた。心寧もやはりまだ小さな女の子なのだ。それと同時に、違和感を感じてもいた。あの男にどこか見覚えがある。それは、知っているのに忘れた、ということではなく、心寧に何となく既視感がある、見たことがある、という曖昧なものに過ぎなかった。顔というよりは、あの男にとても似た人を知っている。それなのに、誰か思い出せない。
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心寧はあどけない表情にシニカルな笑みを浮かべる。
「君のお姉さん、桃寧さんがブラック企業で身体を病んだことは分かったよ。だから、心寧に聞いておきたいんだけど、お姉さんの務めていた会社は分かるね?」
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「そんな……」
心寧に構わず、ミニパンダは続ける。
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状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。
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