207 / 483
其の二百七 黒い男
しおりを挟む思い込んだら一直線の魚心は誰にも止められない。
なにせ、絵の道を志すと決めたとたんに、己にまとわりつく渡世のしがらみを振り払ったばかりか、妻子をも捨てた男なのだから。
なのに、その捨てた妻子の身を案じて、ひた走る。
これはいささか、いや、おおいに矛盾を感じる行動ではあるが、それもまた魚心という男なのであろう。
それに人間、そうそう割り切れるものでもない。
吉原を飛び出した魚心が向かったのは、日本橋のとある呉服屋であった。
だが、目当ての店が近づいてくるほどに、駆ける勢いがじょじょに弱まり、ついには止まったばかりか、急に物陰に隠れた。
魚心のそんな動きに怪訝な表情を浮かべつつも、藤士郎もそれに倣う。
彼の視線の先を追えば、そこには店の軒先にて笑顔で客を見送っている、若夫婦らしき姿があった。
「……無事だったか」と魚心がつぶやいた。
どうやら、あれが良縁に恵まれて嫁いだという魚心の娘らしい。
いまのところ凶事に見舞われた様子はなくて、ほっとひと安心するも、藤士郎はすぐにぎょっと目を見張ることになる。
狐侍を驚かせたのは、若夫婦が見送っていた相手である。
いい身形をした、いかにも大店の主人といった風情の、大きな狸の置物のような恰幅のいい男……。
「げっ、あれは……千曲屋!」
かつて河童を巻き込んだ抜け荷騒動があった。
その中心にいたのが千曲屋文左衛門(ちくまやぶんざえもん)、何かと黒い噂がつきまとう札差である。
札差とは、公儀から旗本や御家人らに支給される扶持米を扱う業者。その数は百ほど。
莫大な量の米の運用を任されているがゆえに、産み出される利鞘も桁違い。
そうして得た富を元手に、別の商いに手を広げては更なる利を呼び込んだり、武士相手に高利貸しをしたり。
江戸に数多ある商家。大店と呼ばれるところはいくつもあれども、札差ほど安定して高い利益をあげ続けている稼業はない。
それゆえに方々に顔が利く。それこそ雑草が地下に根をはるように、あちらこちらに伝手を持つ。影響力は絶大だ。江戸の経済を、ひいては日ノ本の経済を牛耳っていると言っても過言ではない。
この千曲屋文左衛門なのだが、背後関係もまた相当にきな臭い。
札差の利のみではなく、抜け荷で得た莫大な富。
それらがいったい何に使われ、どこに流れているのか。
すべては次の将軍の座をめぐる争いへと繋がっている。
ゆえに抜け荷の一件や、それにまつわる殺人事件が露見しても、捜査の手は千曲屋には届かなかった。
権力と金……、ぶ厚い壁に阻まれて、正義が執行されないことに、藤士郎の知己である南町奉行所の定廻り同心をしている近藤左馬之助(こんどうさまのすけ)なんぞは、奥歯を噛み潰さんばかりに、悔しがっていたものである。
そんな黒い男、文左衛門が店に出入りをしている。
江戸でも屈指の札差ゆえに、上客だ。若夫婦がそろってお見送りをしているのは、なんら不思議ではない。
あくまで客としての付き合いなのか、それとも裏に何らかの繋がりがあるのかは、わからないが、願わくは前者であって欲しいと藤士郎は思った。
でなければ、そんなところに嫁いだ魚心の娘の身が危ぶまれるもの。
◇
とりあえず娘の無事を確認した。
魚心が次に向かったのは、別れた女房が後妻におさまっている大店のところ。
その大店というのは呉服屋の高島屋である。
大名家御用達として有名な老舗の名店にて、藤士郎ごとき浪人者にはとんと縁がない場所だ。
そんな大店中の大店の店主から、見初められて後妻に迎え入れられるだなんて、魚心の元女房殿ってば、なにげにすごい女人なのかもしれない。
藤士郎が、ついそんな感想を零せば、魚心はにやにやして「そうだろう、そうだろう」と、我が手柄のように喜んだ。
う~ん、やっぱり、この人はいろいろとずれているようである。
でもって、そんな高島屋なのだが、ちょっと忙しなく人の出入りがあって、店先がざわついていた。
1
あなたにおすすめの小説
アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)
三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。
佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。
幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。
ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。
又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。
海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。
一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。
事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。
果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。
シロの鼻が真実を追い詰める!
別サイトで発表した作品のR15版です。
世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記
颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。
ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。
また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。
その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。
この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。
またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。
この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず…
大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。
【重要】
不定期更新。超絶不定期更新です。
花嫁
一ノ瀬亮太郎
歴史・時代
征之進は小さい頃から市松人形が欲しかった。しかし大身旗本の嫡男が女の子のように人形遊びをするなど許されるはずもない。他人からも自分からもそんな気持を隠すように征之進は武芸に励み、今では道場の師範代を務めるまでになっていた。そんな征之進に結婚話が持ち込まれる。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-
ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。
1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。
わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。
だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。
これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。
希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。
※アルファポリス限定投稿
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
【純愛百合】檸檬色に染まる泉【純愛GL】
里見 亮和
キャラ文芸
”世界で一番美しいと思ってしまった憧れの女性”
女子高生の私が、生まれてはじめて我を忘れて好きになったひと。
雑誌で見つけたたった一枚の写真しか手掛かりがないその女性が……
手なんか届かくはずがなかった憧れの女性が……
いま……私の目の前ににいる。
奇跡的な出会いを果たしてしまった私の人生は、大きく動き出す……
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる