226 / 483
其の二百二十六 不安の種
しおりを挟む『何かわかったらちゃんと報せろよ』
との約定通りに藤士郎たちは、ぼたんから知り得たことを近藤左馬之助に伝えた。
話を聞いたとたんに左馬之助は腕組みにて思案顔となる。
「なるほどねえ、弥次郎って流しの料理人が獅子身中の虫ってわけか。とはいえ、まだ実際には動いてないのが、ちと面倒だなぁ」
そうなのだ。事件はまだ起きてはいない。
弥次郎はせっせと口八丁手八丁でそそのかそうとしているものの、お梅はいまだに決めかねている段階なのだ。すでに殺し屋を雇うなり、毒を入手しているなりしていれば、その線から踏み込めるのだが……。
「とはいえ、ことが起こるのをぼんやり待っているのは、あんまりだろう。どれ、おれは弥次郎について調べてみるかな」
と左馬之助。
真っ当に生きてきた料理人が、いきなりお店乗っ取りのような物騒なことを言い出すわけがない。あちこち渡り歩きながら、行く先々にてやらかしているのにちがいない。ようは叩けば埃が出る身ということ。
そう当たりをつける左馬之助であった。
一方で藤士郎たちは、これまでと同じく、それとなく松之助の動向に、それも外を出歩くときには特に注意を払って見張りを続けることになった。
◇
見張りを続けて、はや五日が過ぎた。
この間、松之助が店の外に出たのはたったの二回のみ。
常連客である大店の主人が腰を痛めたというので、お見舞いに。あとは北前船がたんまり蝦夷の幸を運んできたというので、それを仕入れるためであった。
遊びに出かけることもなければ、気晴らしにちょいと散歩をということもない。
判で押したかのような店中心の生活だ。
なんとも見張り甲斐のない相手である。藤士郎としては楽であったが、それと同時に「なるほど、弥次郎が言うのも一理あるかも」と独りごちる。
松之助の私生活からは、まるで個というものが見えてこない。
よく出来た跡取り息子、いいや、出来過ぎの息子である。これを素で行っているのか、意図して行っているのかはわからない。
けれども一部とはいえ、本体から分かれて生霊となりうろついていたことからして、当人も気づかぬうちに鬱屈を感じているのはたしかであろう。
紅楼はかわらず繁盛している。
日に一度、藤士郎はぼたんと裏木戸のところで会い、店の中の状況を伝えてもらっている。
ぼたんによれば、お梅の心はかなり揺れ動いているようだ。
しかしそれもしようがない。誰にも相談できないところを、一方的に不安を煽られ、奸計を吹き込まれているのだから。
不安の種というものは、じつにやっかいなものである。
あっというまに芽をだし、根づく。いくら芽を摘んでも、またぞろひょっこり顔をだしては、心の栄養を吸収して希望を蝕む。目を曇らせ信じる力を失わせていく。
いっそのことお梅が傍目にも情緒不安定になれば、周囲がより気を配るようになって、弥次郎の悪だくみになんぞ惑わされることもなくなるのだろうけど、そんなやわな女が紅楼の後妻に選ばれるわけがなく……。
なんとももどかしい気分のまま迎えた六日目に、いよいよ動きがあった。
まずは左馬之助なのだが、「あの野郎、やっぱりいろいろとやらかしてやがったぞ」との報せをもたらす。
包丁一本、腕ひとつにて渡り歩く流しの板前。
弥次郎はたしかに料理の腕はいい。なのに居つくことがないのは、行く先々にて女性問題や、横流し、賭博に喧嘩、強請りたかりなどを仕出かしていたからであった。
とはいえ、犯した罪のひとつひとつは些末なもの。
たとえば横流しなのだが、仕入れた高級な材料を少し劣る品と入れ替えては、他所へ売り払って差額をせしめるといったこと。これにより落ちるであろう料理の味の分は、己の腕でせっせと埋めるというのだから、本末転倒であろう。
強請りにしたって、自分で人妻にちょっかいを出しておいて、「このことを亭主にばらされたくなかったら」と銭をせびる程度のことだ。
けちな小悪党である。
だがそんな男に千載一隅の機会が巡ってきた。
うまくいけば、いまの浮草のような生活からおさらばして、名店の板長になれる。それどころか、お梅を言いなりにしてゆくゆくは……。
どうやら弥次郎の中にも不安の種があって、しっかり芽吹いているらしい。
だからこそ、小悪党は柄にもない分不相応な野心を抱いたのだろう。
ぼたんからもたらされたのは「今夜、松之助が家を空ける」というもの。
上得意である、さる大名家で近々婚礼があって、その祝いの席での膳を紅楼が請け負うらしく、そのための打ち合わせである。
父親の名代としての務め。
行きは問題ないだろうが、危ういのは帰りの夜道だ。
狙うなら絶好の機会である。物盗りにでも見せかけて、暗がりでばっさり殺ってしまえば、後腐れなく邪魔者を始末できる。
1
あなたにおすすめの小説
アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)
三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。
佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。
幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。
ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。
又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。
海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。
一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。
事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。
果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。
シロの鼻が真実を追い詰める!
別サイトで発表した作品のR15版です。
世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記
颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。
ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。
また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。
その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。
この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。
またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。
この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず…
大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。
【重要】
不定期更新。超絶不定期更新です。
花嫁
一ノ瀬亮太郎
歴史・時代
征之進は小さい頃から市松人形が欲しかった。しかし大身旗本の嫡男が女の子のように人形遊びをするなど許されるはずもない。他人からも自分からもそんな気持を隠すように征之進は武芸に励み、今では道場の師範代を務めるまでになっていた。そんな征之進に結婚話が持ち込まれる。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-
ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。
1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。
わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。
だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。
これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。
希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。
※アルファポリス限定投稿
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
【純愛百合】檸檬色に染まる泉【純愛GL】
里見 亮和
キャラ文芸
”世界で一番美しいと思ってしまった憧れの女性”
女子高生の私が、生まれてはじめて我を忘れて好きになったひと。
雑誌で見つけたたった一枚の写真しか手掛かりがないその女性が……
手なんか届かくはずがなかった憧れの女性が……
いま……私の目の前ににいる。
奇跡的な出会いを果たしてしまった私の人生は、大きく動き出す……
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる