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其の二百六十三 血祭り炎女
しおりを挟むぱっと勢いよく吹きあがっては、陽光を受けてきらめいたのは赤い飛沫――。
鮮血であった。
「ぎゃっ」
青い空の下、行き交う人々で賑わう白昼の両国橋の上で、突如として若い女の悲鳴がした。
たまさか周囲に居合わせた者ら、先を急ぐ者はとくに気に留めることもなく、ぷらぷら歩く者は「そそっかしいのが、おおかた雪駄でもつっかけたんだろう」とやはりとくに気にしなかった。
けれども次の瞬間には全員の足がぴたりと止まり、否応なしにふり返り、目が釘付けとなる。
首筋から血を流している娘、よろよろと足取りが怪しい。
だが居合わせた者らを立ち止まらせ、彼らの時間を凍りつかせたのは娘の身が燃えていたから。
艶やかな花模様の振袖の一端が燃えている。
「あぁ、あぁぁ、あぁぁぁぁ」
苦悶の声は、首に負った傷のせいか、はたまた焼かれる身のせいか。
その火がまた異様であった。
袖や肩の辺りから火がついたらしいのだが、それがたちまち燃え広がって、全身をぼうぼうと焼く。炎の蛇が体の表面を這うようにしてまとわりついては、娘を絡め捕って離さない。
だというのに、首から上だけが火にまみれることもなく……。
まるでそこだけ切り離されたかのよう。火の中に白い顔がぽっかり浮かんでいる。
そのせいで苦しみ続けている娘の表情がありありと。
しかしそれもほどなくして終わった。
娘の顔からするりと表情が抜けたとおもったら、小面(こおもて)の能面のようになり、血の気が失せ、瞳から光が消えて暗くなる。ふつりふつりと湯が湧くように、白濁した目が泡立ち、どろりと溶け、落ち窪む。
とたんに眼孔より紅蓮の焔が噴き出た。
火は口からも吐かれる。
結っていた頭がほどけ、だらりと垂れた髪にもついに火がついた。
一本一本の毛がうねり、それ自体が生きているかのようにゆらめく。
さながら地獄からやってきた鬼女のごとき恐ろしい姿、あまりにも凄惨な光景に誰もが固まり動けない。
そうしているうちに燃える娘の身がよろめき近づいたのは、橋の欄干である。
己が身を支えようとしたのだろう。しかし懸命に伸ばした手は虚しく空を掴む。
かとおもえば娘の身が欄干を越えて、向こうへと消えた。
どぼんという音……。
そして凍っていた時間がふたたび動き出す。
はっと我に返ったのは凄惨な場面に居合わせた者たち。
ひょっとして白昼夢、そろって悪い夢でも見ていたのか?
けれども橋板に残された黒い焦げ跡が、それを即座に否定する。
甲高い悲鳴があがり、慌てて欄干に駆け寄った者たちが身を乗り出し、下をのぞいてみれば、水面には大きな波紋が浮かんでいた。
◇
両国橋から隅田川を下ったところにある大橋のたもと、杭に引っかかっていたのを発見されて、引きあげられた若い娘の骸を前にして。
「うっ、ひでえな、こりゃあ」
「まだ若いってのに、あんまりな最期だ」
「なんまんだぶ、なんまんだぶ」
「で、仏さんの身元は?」
「あぁ、それはすぐにわかった。医師の小畠源庵のところの娘で、名を……」
同僚や岡っ引きらが話をしているのに聞き耳を立てつつ、南町奉行所の定廻り同心である近藤左馬之助は遺体をとっくり検分していた。
死因は首に受けた一刀であろう。抉るように深く斬られており、これではとても助かるまい。
だが奇妙なのが大火事に巻き込まれて亡くなったかのような、この焼け焦げた姿である。
現場での目撃証言では、悲鳴とともに火花が散って、女の身が燃え上がったという。
左馬之助は臆することなく骸に顔を近づけ、匂いを嗅ぐ。
人肉の焦げた嫌な臭い、死体特有の酸えた臭い、焼け残りの着物に残る焦げた臭い、隅田川に長らく浸かったせいで染み付いた青臭い水の臭い、引き上げるときについた泥の臭い……。
それらに顔をしかめつつも、鼻先にしわを寄せ探っていたのは油の臭い。
盛大に燃え上がったからには、火種となったものがあったはずだと考えたのだけれども。
「水で洗われちまったか。にしても妙な事件だ。いったい何がどうなっていやがる」
わからないことだらけにて、左馬之助は首をひねる。
これがのちに江戸中を震撼させた「血祭り炎女事件」の幕開けとなろうとは、この時の左馬之助には知る由もなかった。
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