狐侍こんこんちき

月芝

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其の二百六十二 禍と魔

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 高輪の地にて狐侍が奔走していた頃。
 ところは鉄砲洲、築地の西本願寺近く、鰻料理で知られた大和田屋の二階座敷の片隅にて――。

「あら」

 ふいに女がつぶやき、開け放たれている障子窓の外へと流し目をくれた。
 女はこてんと小首を傾げている。
 差し向いに座っていた男がこれを訝しみ「おや、どうかしましたか?」と尋ねれば、女は視線を戻し、くすり。
 その横顔のなんともいえぬ悩ましげなことといったら。
 女の蕾(つぼみ)のような可愛いらしい唇が綻ぶ。

「いえ、せっかくお世話した方が、いましがた駄目になってしまったみたいでして」

 白い御高祖頭巾(おこそずきん)をかぶった紫の法衣姿が、わずかに身じろぎする。衣擦れの音がしたとたんに、ふわりとえもいわれぬ薫りがした。
 楚々とした雰囲気と振る舞い。
 柔和な笑みにて、その面差しは菩薩のごとし。
 鰻屋という場所には、いささかそぐわない尼さんの名は、荼枳尼(だきに)といった。
 その正体は「茶袋」という妖である。

 茶袋……。
 神出鬼没にて、たまさか巡り会った者の願いを叶えてくれる妖。

 その物腰や容貌とあいまって、一見すると幸運を授けてくれる女神のようではあるが、実態はまるでちがう。 
 行動に善や悪、人倫、孝忠、規範という線引きがまるでなく、ただただ相手が望むことを額面通りに受け止めて叶えてやるだけ。
 望みを叶える過程において、いかなる非道があり、悪徳があり、巻き込まれて迷惑をこうむる者、泣き崩れる者たちが出ようとも意に介さず。
 そうまでして叶えた望みも、夢うたかたのごとし。そこで満足できないのが人という生き物にて、欲望は留まることを知らない。そして膨れ過ぎた泡はぱちりとはじけて消えてしまうもの。
 果てに待つのは破滅である。
 けれども荼枳尼は邪気のない笑みを浮かべながら口ずさむ。

『鳥が空を飛ぶように、馬が地を駆けるように、魚が水の中を泳ぐように。
 ただ己はそういう妖として生まれたのだから、そうするだけのこと。
 それに自分はあくまで機会を与えてあげるだけですから』と。

 そんな荼枳尼ではあるが、かつてある男をたぶらかし、武芸者同士の真剣勝負を売り物にした闇試合の胴元に仕立てたことがある。
 これに首を突っ込み、結果としてご破算にしたのが狐侍こと九坂藤士郎であった。
 事が露見し、身辺が騒がしくなってきたもので、ほとぼりが冷めるまで上方へと逐電していた荼枳尼が、人知れずふたたび江戸に舞い戻っていた。
 そんな彼女に声をかけたのが、差し向いにて鰻の肝串をかじりながら、酒を飲んでいる男である。

 男の歳の頃は、五十前後といったところであろうか。
 にこにこと、人のよさそうな笑顔を絶やさない。
 なごやかな雰囲気、言葉や物腰は丁寧にて、礼儀作法も心得ている。
 芥子色(からしいろ)の着物に頭巾をかぶり、野袴(のばかま)を履いて、紫色の上品な羽織をはおった格好は、いかにもどこぞの大店の店主といった人相風体である。
 津田屋重次郎と名乗るこの人物……、その正体もまた人間ではなかった。

 饕餮(とうてつ)……。
 遥か古の時代。大陸の中原にて、おおいに悪名を馳せた四凶なる大妖らがいる。
 そのうちの一角が饕餮である。
 知識、財、この世のあらゆるものをひたすら貪り食らう、貪欲を象徴する魔物。

 津田屋重次郎は妖怪骨牌騒動に一枚噛んでおり、九坂家の居候である銅鑼とは旧知の仲にて、藤士郎とも面識がある。
 そして彼は江戸の町と、そこで華開いている文化、暮らし、住む者たちに強い関心を寄せており、「知りたい。もっと知りたい」と願っている。
 その想いが高じるあまり、ついちょっかいを出してしまうのは、ご愛敬。
 でもって、今回の贋札と贋薬騒動において彼が担った役割りは、なんてことはない。
 こんな噂を流しただけである。

『近頃、江戸で悪い風邪が流行っているらしい』

 疫病神の江戸入りに合わせて、そのようなことを方々で吹聴した。
 やったことは本当にそれだけだ。
 だというのに奇妙なもので、巷では「こほん、こほん」と咳き込む輩がどっと増えた。
 実際にはちょっと空気が乾いていただけだというのにである。
 なのに、大勢の者たちが風邪が流行っていると信じた。
 じつにたやすい、あまりにもたやすく人心が動くことに、思い込みで影響を受けるもろい肉体に、津田屋重次郎は不思議で面白くてしようがない。

 これに便乗する形になったのが荼枳尼である。
 たまさか食い詰めている者たちと巡り会ったもので、「楽して儲けたい」という彼らの願いを叶えるように豊策を授けた。それが例のいんちき商売であった。

「おや、駄目になりましたか」

 と、津田屋重次郎。

「ええ、駄目になりました。そろそろ潮時ですよと教えてあげたのですけれども」

 と、荼枳尼。

「なるほど、それはしょうがありませんな」
「ええ、しょうがありません」

 津田屋重次郎がにへらと顔を歪めると、荼枳尼は「ほほほ」と笑い目を細めた。


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