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其の二百八十四 一の炎(えん) 遺念火 前編
しおりを挟む書見台に向かって正座し、藤士郎は背筋をぴんとのばす。
冊子の表紙に記された題目は『遺念火』とある。
これが七日に渡って続く写本仕事の最初の一冊となるもの。
遺念とは亡霊を指す言葉だ。
それが火とくっついているとは、なんともおどろおどろしいではないか。
どうやら因縁話か怪異譚の類のようである。
写本仕事とは、たんに文字を見てなぞり、書き写すだけではない。
それならば版で刷れば事足りる。しかしそれでは伝わらないものがたしかにある。これを見極め、理解し、相応しい文体で記すからこそ、写本は書としての生を受け格を持ち価値を得る。
藤士郎は「ふぅ」とひとつ息を吐く。丹田に力を込めて気構えを整えてから、おもむろに『遺念火』の書を開いた。
◇
さる藩にて代々重役を務めている荒井という家があった。
しかし現当主である主水(もんど)という男は、血筋と家柄だけで生きているような、じつに矮小なる人物であった。
そんな小者であるがゆえに、格上には媚びへつらい、同格にはいい顔をするものの、格下は露骨に見下し馬鹿にする。
これで多少なりとも仕事ができればまだ良かったのだが、さほどでもない。いや、むしろ頼りにならぬ程度であった。
ゆえに周囲からはつねに小馬鹿にされた視線を向けられる。
内心面白くない主水は、ますます立場の弱い者に当たり散らし、居丈高となっては己のちっぽけな自尊心を満たそうと躍起になるばかり。
大変なのはそんな主人を持った家臣たちであった。
主水の妻である宮(みや)もまた、夫と似たり寄ったりの女であった。
むしろ悋気が強い分だけやっかいであった。
かつて主水が外に妾を囲ったことがある。身分のある男であれば、べつに珍しい話ではない。
なのにこれを知った宮は激怒する。しかし夫に詰め寄るよりも先に、相手の女の方へと怒りの矛先を向けた。
夜更けに家臣を引き連れて妾宅に押しかけては、いきなり相手の髪の毛を掴んで外に引きずり出した。さらには家臣らに命じて着物をひん剥かせて裸にし、庭の木に吊るしあげ、棒で打ち据えるという暴挙を行う。
宮はけらけら笑いながら、泣き叫び許しを請う妾に何度も何度も棒を振るった。
憐れ、妾は散々に殴られて息も絶えだえとなる。
だというのに宮はそんな妾の髪をふたたび掴むなり、今度は手にした小刀にて根元からばっさり切ってしまった。
女が艶髪を失う。それは武士にとっては腰の物を足蹴にされて髻(もとどり)を切られるようなもの。耐えがたい恥辱であった。
けれども宮の暴挙はまだ終わらない。
家臣の持っていた松明をひったくり、切り取った髪ともども妾宅へと放り込んだのである。
たちまち火の手は燃え広がって、妾宅は炎に包まれた。
紅蓮に照らされ長くのびた宮の影がくつくつ肩を震わせる。
響き渡る哄笑は、とても人の発するものとはおもわれなかった。
北条政子もかくやという苛烈な報復、鬼女のごとき所業に家臣たちは恐れおののき、妾は命からがら逃げ出した。
この一件にて、さすがに妻の悋気を恐れた主水は、しばらくはおとなしくしていた。
だが、またしても悪い虫が騒ぎ出す。
食指を動かしたのは、屋敷の外ではなくて内にて。
主水が目をつけたのは若い女中であった。名をおろくといい、蕾がやがて花開くように、日に日に美しくなっていく。主水はおろくに厭らしい目を向けては舌なめずり。けれどもことを急げば先の二の舞になる。だからじっくりと好機が訪れるのを待った。
たまらないのが目をつけられたおろくである。
おろくはすぐに自分に向けられている邪な視線に気がついた。そして恐々となる。気づいたのは主水の視線だけではない。妻の宮から向けられる目にも妖しい光が浮かんでいたからである。
女同士だからこそわかる。間違いない。宮はすでに夫の移り気に勘づいている。
このままでは自分も妾と同じ目に合わされる。いや、内々のことゆえにより酷いことになるかも。それこそ命をとられて古井戸に投げ込まれるやもしれない。
宮の気性ではそれぐらいやりかねない。
困り果てたおろくが頼ったのは、荒井家の家臣である山本利三郎であった。
まだ若輩ながらも見目が整っており優秀で、荒井家の納戸方を任されている。
じつは利三郎とおろくは恋仲であった。
相談を受けた利三郎の決断は早かった。
「いっしょに逃げよう、おろく」
利三郎もまた今の荒井家に仕えることに、すっかり辟易していたのである。
かくして若いふたりは手に手をとって出奔する。
だがしかし、利三郎は知らなかった。
邪な想いがおろくだけではなく、自分にも向けられていたということを……。
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